シズク忍法帖・その壱

 
 陽は天頂に近付き、夏の陽射しで山の緑を照らしている。
 綾瀬の国より篠付の国へ。ここから道は山を越え、これまでの平坦な道とは些か赴きを変えるものの、天下の険に大戸川の雄大な流れを越えて西海道を旅してきた者にはさほどの障害とは映らぬだろう。
 とは言え、道を行く二人連れの少女達にはまだまだ険しい山道であるようだった。
「か、カスミ姉さま…待ってくださいまし」
「もう……」
 山道に入ってからもう何度目のやり取りであるだろう。カスミは溜息をついて足を止め、後ろを振り返った。化粧気はないが、わずかに湿った額が、まだほのかに残る幼さと入り混じって、つぼみを膨らませるうら若き乙女の瑞々しさを引きたてている。
 やや吊り上った目じりが気の強そうな印象を与えるが、今はその眉は困ったように八の字を描いていた。
「しっかりなさい、シズク。そんな様では今日じゅうに宿まで辿り着けませんよ」
「で、ですが……その、もう、私……」
 シズクと呼ばれたもう一方の少女は、カスミよりも幾つか年下であるようだった。こちらは姉に比べてずっと疲れた様子で、うなじには汗を吸った髪が張り付いている。遅れがちな足元は定まらず、杖にもたれかかるような有様だ。
「誰も見ていぬといってはしたない。もう少し落ち付いたらどうです」
「ぅ、ううっ……」
 指摘を受けても、シズクはその様子を正すことはできないようだった。
 聞き分けのない妹を気遣うように、カスミは踵を返すと立ち尽くしているシズクの側まで歩み寄る。
「ほら、息を吸って。……少しでもいいから歩いて御覧なさい」
「は、はい……」
 助け合いながら険しい旅路を歩く少女達。他に連れもおらず、まだ幼いと言っても良い彼女達が、かのように過酷な旅の最中にあるのは一体どのような理由であるのか。それを示す答えは彼女達の腹部にあった。
 二人連れの少女達の腹は、旅支度の上からでもはっきりと眼を引くほどにまあるく膨らんでいる。
 西海道は大陸と都を繋ぐ街道であると同時に、子宝の神である慈福大社への参拝路でもあるのだった。戦国乱世の世ならいざ知らず、今は天下泰平の世。初めて子を授かった身重の女達が連れ立って、良い子が無事産まれるよう願を掛けて旅をするのは昨今よく見られる情景であった。
「ぁ……ぁあっ」
 カスミに励まされ、それでも辛抱強く歩いていたシズクだが、ついに力尽きたように道端にしゃがみ込んでしまった。小さく腰を揺すり、涙を滲ませた眼ですがるようにカスミを見上げる。
「か、カスミ姉さま……駄目です、その、も、もう……お、……おなかが」
 ぎゅっと小袖の脚の間を押さえ、くねくねと背中を捩らせながら、シズクは限界を訴えた。
「しっかりなさい。おなかに赤子のいる娘がそうもせわしなく落ち付きがないわけがないではありませんか」
「で、でも、カスミさま、も、もう私、辛抱できません……っ」
「なにを弱音を吐いているのです。まだ朱坂の宿までは十里もあるのですよ。ほら、立ちなさい。そんな格好では余計辛くなりますよ」
「だ、駄目です……も、もう、っ」
 一度始まってしまうともうそれを堪える事はできない。とうとう手のひらでは飽き足らず、シズクはしゃがみ込んだ草鞋のかかとを使って股間をぐっと押し当ててしまう。
「シズク……ほら、立ちなさい」
「か、カスミ姉さま……駄目、辛抱できませんっ……も、漏らしてしまいますっ……」
「シズク、いい加減になさいッ」
「ひぅっ!?」
 ついに絶えきれず、おのが尿意を口にしたシズクをカスミは鋭く叱責した。
 途端、カスミから先ほどまでの初々しい様子は影を潜め、油断の無い視線で用心深くあたりを窺う。
「……迂闊ですよ、シズク。誰に聞かれているとも解らぬと、あれほど注意していたでしょう」
「あ……ぅ、……す、すみません……姉様」
 カスミの叱責を受けて、泣き言こそ飲み込んだものの、シズクは立ち上がれる様子は無いようだった。
 頼りない妹を見下ろして、カスミはすっかり癖になった吐息を繰り返す。
「やはり、貴方には早かったかもしれませんね、里を出るのは」
「そ、そんな、姉様……」
「辛い旅になると念を押したでしょう。遊びではないのだとも」
「は、はい……」
 厳しく言われ、うなだれるシズクに、カスミは腰に下げられた水筒を差し出した。
「飲みなさい。飲んでしばらく休みます」
「え……」
 しかし、汗で襟首を湿らせながらもシズクが見せたのは困惑の表情だった。
「で、でも、姉様……私、喉は、ぜんぜん……」
「駄目です。お飲みなさい。疲れている者が水を口にしないわけにはいかないでしょう」
「う、ぅうっ……」
 なおもぐずぐずと言い訳をしようとしたシズクだが、無言のまま水筒を手渡されて押し黙った。かすかに震える手のひらで栓を開け、口をつける。
「んっ……んぅっ……」
「きちんと飲むのですよ。辛いからといって止めてはいけません」
「んくっ……んうっ」
 少女が小さく喉を動かすたびに、重そうに腹部が震えた。下品に立てた膝を片時も休まずに入れ替え、ぐいぐいとかかとを脚の間に押し付ける。シズクはもはや落ちつきなく左右に揺すられる腰を押さえこむことが出来ぬのだ。普段ならば即座に叱ってやるところだが、シズクの切羽詰った様子を見てカスミは思いとどまる。
「さあ、こちらに来なさい。そこに腰掛けて」
「は、はいっ……」
「ゆっくり息を落ちつけて。本当に辛いのは一時だけです。乗り越えてしまえばまたしばらく平気になります」
 よろめくシズクを街道側の木の根元に座らせ、カスミは自分もその隣に腰を下ろして水筒の中身を口にした。ちゃぽん、と揺れる中身が余計なものまで連想させる。
 顔にこそ出してはおらぬものの、カスミとて辛いのだ。切なげに身をよじるシズクの姿を見ているうちに、次第にカスミも余裕が無くなってきていた。
「大丈夫。大丈夫です。シズク」
「カスミ姉さま……っ」
 シズクがすがるようにぎゅっと手を握ってくる。小さな手のひらはじっとりと汗ばんで、少女の辛さを伝えていた。
 頼りない妹がぎゅっと込めてくる力を己の支えにするかのごとく、カスミもそれをきつく握り返した。
 戦国乱世が遠く過ぎ、幕府が治める泰平の世にあっても――否、大戸におわす大将軍のもと世が統治され、天津国の各地の州国が表向き武力を放棄したこんな世の中だからこそ、闇に生きる者達は必要とされた。
 刀と馬と鉄砲の数が戦の優劣を分けた時代は過ぎ、今や諜報と暗殺が政敵を貶める時代である。州国はこぞって資質のある者を集め、忍びを育成する里を築いていた。
 カスミとシズクは綾瀬の国、流水の里に住むくのいちである。彼女達は敵対を強める篠付の国の動向を探るべく派遣されていたのだった。すでにくのいちとして何度か任務の経験があるカスミとは違い、シズクはこれが初めての任務である。彼女はその過酷さに直面し、理想と現実の差に苦しんでいるところだった。
「ね、ねえさまッ……や、やめてぇ……」
 掠れた声で、シズクが拒絶を口にする。
 二人は松の木陰になって街道から見えなくなった茂みの中にいた。いくら嫌がっても止めてくれない姉を振りほどこうと、シズクはぎゅっとカスミの手を握り締める。
「カスミ姉さま……駄目、触らないでっ……い、今でもやっと辛抱出来ているんですっ……そ、そんな風にされたらッ……」
「駄目よ。ちゃんと揉みほぐしておくのです。下腹が張り詰めていてはとっさの時に動けないし、後でもっと辛くなります。それに、赤子を孕んだ母の胎というものは、そんなに固く押し返しはしないものですよ」
「ぁ、あっ、あッ・……!!」
 まるで、少女同志が睦みあっているような姿であった。絡みあった手足が小袖を掴み、熱く潤んだ瞳は切なげに細められ、柔らかな唇がきゅっと引き結ばれる。
 シズクはすっかり上気した頬を小さく左右に振りながら、精一杯姉に訴える。
「ね、ねえ様っ……駄目ぇ、で、出ちゃうっ……」
「辛抱なさい。このままでは山は越えられないでしょう? 少し耐えていればじき楽になります」
 そう言いながらもカスミは手を止めず、シズクはそれに併せてあ、あ、と声を上げ続けた。カスミはシズクを後ろから抱くようにして腕を回し、手のひらでシズクの大きく膨らんだ下腹部に手を伸ばし、大胆に揉みこんでいるのだ。
 賢明な読者の方々はすでにお気づきであっただろうが、カスミもシズクも赤子を孕んでなどいない。少女達の下腹を大きく膨らませているのは、二人が耐えに耐えて一昨日の寄るから堪え続けている小水である。
「ねえさま、ぁ……っ」
 まるで甘く快楽を囁くような嬌声は、限界を超えた尿意に寄ってもたらされるもの。
 広く、一人前となったくのいちは、長い任務の間およそ一升もの小水を堪えることが出来るという。まる一昼夜を縁の下や天井に潜む彼女達にとって、それくらいが出来ねばまるで忍びは務まらない。
 そして、優秀なくのいちを多く育てる流水の里ではこの資質をさらに高め、磨きをかけてひとつの利点とした。それが、耐えに耐えた小水を用いて膀胱をふくらませ、まるで赤子を孕んだかのように変えてしまうこの秘術である。
 二人は耐えに耐えた尿意で自身のまだ幼くすらある肢体を造り替えているのだ。
 ――これを流水の里に伝わる秘術、秘水の塞と呼ぶ。
 カスミとシズクは里の中でも選りすぐられた素質を持った娘であり、さらに群を抜いて長く小水を辛抱出来るくのいちであった。忍びの腕はまだまだ半人前のシズクですら、同じ歳の娘の何倍もの小水を堪えることができる。シズクの二つ上のカスミなどは、生まれる寸前の臨月の赤子を腹に抱えているほどに腹を膨らませておくことも出来た。
 身重の娘が旅に出ることが一般的な天津国において、これは非常に都合の良い変装であった。我が子を孕んだ母親を無碍に扱う非道者はさして多くも無い。無論腹に詰め物をしていれば服を脱がせられれば気付かれるが、秘水の堰ならば裸になったとて腹の膨らみはなくならぬのだ。
 まして、赤子というものは娘の胎内に羊水という水の中に浮かんで収まっているモノだ。同じように小水で腹を膨らましておけば手練の忍びですら見分けるのは難しいものとなる。
 あとは、辛抱している振りさえ隠せれば済むことであった。
「カスミ姉さま、その、後生ですから、……厠に行かせてください……っ」
「何を言うのです、どこに厠などありますか」
「んうぅッ……で、では、ここで。ここなら陰になっていて見えませんっ。い、いたしてしまっても……いいですか?」
「シズク。宿を経つ前に言っておいたでしょう。一巡り前から一緒に篠付に向かっている四人組、あれは間違い無く雨竜の里の忍びです。こんなところで術を解いたらたちどころに気付かれてしまうではないですか」
 聞き分けの無い妹に言い聞かせながら、カスミは自分の腹にも手を寄せた。切なく疼く股間をなだめるように、ゆっくりと下腹をなでさすり、揉みしだく。
「な、なにも全部なんて言いませんからっ……。ほんの少し、湯飲みに半杯でもいいんですっ……少しでも良いから出してしまわなければ、も、もう漏れてしまいます」
 カスミは大きく溜息をついて、辛抱の足りない妹分の腰をぴしゃりと叩いた。
 ひゃん!? と悲鳴を上げて飛び上がるシズクは、ぎゅっと前を押さえ、目を閉じ唇を噛んでしばしぷるぷると震えてから、はぁっと詰めていた息を吐いてカスミを睨んだ。
「な、なにをなさるのです、カスミ姉さまっ…!! も、もうちょっとで本当に、出てしまうところですっ……」
「その程度で漏らしてしまうなど、修行の足りぬ証拠です。ツユノ姉さまなどは一巡りも耐えたと言うのに、貴方ときたら……それに、きちんと必要な分だけは今朝出させてあげたではないですか」
「で、でもッ……」
 秘水の堰とは言え、本当に一滴も漏らさぬままでは腹は膨れるばかりで、不自然になって気づかれてしまう。そのためカスミ達は朝夕の2回だけ、ほんの少しばかり用を済ませて腹の大きさを調整していた。
 もっとも、いくら訓練をつんでいはいてもまだ幼いシズクのこと、一度排泄(だ)しかけた小水を途中で止めるのはなかなかに辛い。
「いいから辛抱するのです。宿まで着けば術を解いてもいいでしょう」
「ね、ねえ様ぁ……」
 いくら慰めても、シズクは聞きいれる様子は無いようだった。今すぐ漏れてしまいそうなのに、日暮れまでは辛抱しろと言われているのだから仕方の無い事ではある。しかし忍びは忍びて有るを無きがごとく、無きを有るがごとくに変えるが必定。
 おのが尿意すらも耐え忍ぶことが出来ずして、いかにしてまことの忍びとなれるのか。
「ひゃんっ!?」
 カスミは溜息をつきながら、シズクの背中を軽く叩いた。
(初出:リレー小説:永久我慢の円舞曲 403-412 2007/07/12)
 

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