(うぅん……)
気付くと初音は、傘を差して大雨の中にいた。見慣れた庭に商店街、学校の校庭、見渡す限りの一面が水浸しで、見る見るうちに水かさが増してゆく。
(に、逃げなきゃ)
そう思うものの、道路も河のようになっていて、脚がずっしりと重い。思うように走ることもできすにいるうちに、水かさは長靴の上を通り越し、膝の上まであがってきてしまう。雨はますます激しくなり、河の堤防が決壊したのか、どどうと大波のような水が押し寄せてきた。
(うそ、流されちゃう……!!)
胸を越えとうとう頭の上まで深くなった水に飲み込まれて、初音は溜まらずにレインコートの裾をぎゅっと抑える。傘は水流に飲み込まれてどこかにいってしまった。初音は溺れないようにぎゅっと身体をまるめ、目を閉じて息をしないように口を閉じた。
(うぁ……やだぁ……助けてぇ……)
がぼがぼと空いている手を振り回してみても、水面にたどり着くことも出来ない。このままでは息が続かなくなってしまうだろう。けれど、一秒ごとにどんどん深くなってゆく大洪水の中では、初音はまるで小さな米粒のように、なにもできず流されてゆくだけだった。
全身を――とくにおなかの下からを、重く水が浸してゆく。ゆっくりとおなかのあたりから広がってゆく重苦しい水面は、次第に上のほうまで上がってきた。
(やだ、やぁ……)
「―――!! ――……さい!!」
(やだぁ……助けて、誰かぁ……)
深い水の奥から伸びてきた手が、ぎゅっと初音の肩を掴む。暗い水底に引きずりこまれそうになって、初音は必死でその手を振りほどこうとした。けれど、手はしっかりと初音を掴んで、放そうとしない。それどころかガクガクと初音を左右に揺さぶるのだ。
(……ぁあああ……だめ、ダメぇ……)
もうダメだ、と。初音が覚悟を決めた時だった。
「初音!! ほら、早く起きなさい!!」
ベッドの上でぼんやりと目を開けた初音の前で、コートを着たお母さんが眉をしかめている。ふかふかの布団のなかに埋もれていた初音は、んぅ? と寝惚けた頭で回りを見まわした。
無論のこと、なんの変哲もないいつも通りの初音の部屋だ。大雨も洪水もなく、のどかなお正月の晴れ空が窓の外に覗いている。
「もう、いくら呼んでも来ないと思ったら……起きた?」
「お母さん……? あれ? どうして? ……大洪水は?」
「もう……新年早々寝惚けないでちょうだい。しっかり目を覚まして!! もうお父さんも支度して下で待ってるのよ」
ようやく焦点を取り戻した初音は、ベッドの上に身体を起こす。
(そっか……寝ちゃったんだ、わたし……)
時計を見れば、朝の10時。つい何時間か前には家族揃って『あけましておめでとうございます』の挨拶をして、おせち料理を食べて、お年玉を貰って、ちょっとだけお屠蘇も飲んでみたりして、初音は元旦の朝を満喫していたのだ。
一通りの行事を終えたあと、新年の特番を流し続けているテレビを放って、初音は初詣にいくために2階の自分の部屋に戻り、よそ行きに着替えて――そのあたりでふらりと記憶が途切れていた。
(うん、確か――ちょっとお布団がふかふかでキモチ良さそうだったから、横になって……)
うとうとしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。時間にすればほんの30分ほどのことだろう。
「どう、目は覚めた? 早く行きましょ」
「あ、うんっ」
初音は母親にせかされるまま、寝起きの頭をぶんぶんと振って部屋を出る。頭の左右にリボンで括った髪が犬の尻尾のようにぱたぱたと揺れた。
(うぅ……)
階段を降りてゆく間にも、ふわぁ、と大きなあくびが出る。
昨日の夜、つまり大晦日に除夜の鐘が鳴るまで頑張って起きていようとしていたのが、やっぱり響いていたらしい。今年こそ、と気合いを入れて、お母さんにコーヒーや濃いお茶まで用意して貰ってチャレンジしたのに、結局最後には11時半ごろに眠ってしまった。今年も初音は新年の切り替わる瞬間には立ち合えなかったことになる。
とんとんと階段を下りる初音に、お母さんはハンドバックの中の鍵を探しながら聞いてくる。
「夢でもみてたの? なんだか、随分うなされてたみたいだったけど」
「あ、うん……そうみたい」
さっきまでの大洪水の夢のことを思い出して、初音は答えた。新年早々溺れる夢なんて、ぜんぜん楽しくない。
「……ねえお母さん、ああいうのも初夢になるの?」
「さあ……一年で一番最初に見た夢ならそうじゃないかしら」
「えー……やだなぁ……あんなの」
口を尖らせる初音に、母親はふいと顔を上げる。
「なぁに? ひょっとして溺れる夢でも見たの?」
「……えっと……」
「そうなの? 今年こそ泳げるようになりなさい、ってことでしょ。ちゃんと練習しなさいね」
「ぇえーっ……違うよぉ」
「ふふ、まあ、初夢は秘密にしていると本当になる、なんていうけどね」
言い合いながらも玄関を出れば、すっかり待ちくたびれた様子で、お父さんが運転席から車のドアを開けてくれる。車の中はすっかり暖房が効いていて、寒くて困る事はなさそうだった。
「初音、お正月からお寝坊かい?」
「……ごめんなさぁい」
お父さんにぺこりと頭を下げ、初音は助手席のお母さんに続いて後部座席に乗りこんだ。まだチャイルドシートを使っていた頃から、なんとなくお出かけする時の初音の指定席はここになっている。一人で後部座席を占領するように、シートの真ん中に腰掛ける。
家の前の細い道路から大通りへと乗り出した車がゆっくりとスピードを上げ、窓の外を流れる景色がどんどんと後ろに過ぎ去ってゆく。お母さんがカーナビをいじると、さっきまでリビングで流れていたお正月特番が音声だけで流れ出した。
陽気な音楽と笑い声が、車内を静かに満たしてゆく。
「お昼までに帰って来れるかしら?」
「うーん。混んでるだろうからなぁ」
暢気に答えながら、父親は信号待ちのウィンカーを入れた。午後からは親戚が遊びに来ることになっているので、母親はすこし急いでいるらしい。
「初音も楽しみにしてるんだし、できれば早く戻って来れるといいわね……」
半年ぶりの従姉妹との再会は、もちろん初音にも楽しみなことだ。母親の発現はそれをおもんばかってのことかもしれない。
が、それよりも今の初音には気になることがあった。そのせいで両親の会話は上の空、返事を返すことも忘れている。
(………ぅ)
ぞくり、と鈍い刺激が恥骨に響く。
いまさらのように、初音は下腹部にじんと集まる重みと、脚の付け根に集まったイケナイ感覚を思い出していた。
それは、おしっこ。
はっきりと自覚できるほどの尿意が、初音の下半身を占領している。
(そっか……急いでて、おトイレ、行き損ねちゃった……)
着替える前には、出掛ける前にトイレに行っておかないと、と考えていたのを思い出す。寝坊したせいですっかり忘れていたけれど、良く考えてみれば初音は今日は起きてから一度もトイレに行っていない。
だから、初夢に水の夢なんか見ていたのかもしれない。冷静に分析してみると、おなかに響く尿意はかなりのレベルに達している。思っていたよりもずっと切羽詰っていた事態に、初音はこくりと口の中の唾を飲み込む。
(ひょっとして、あのまま夢、見つづけてたら……オネショとか、しちゃってたかも……)
となると、母親に叩き起こされたのも決して悪いことではなかったのだ。
後部座席に他の人の目がないのをいいことに、初音はスカートの前にぎゅっと手のひらを挟みこむ。
(着いたら、トイレ行こ……)
シートの上でもじもじと腰を前後させ、おしっこを我慢する初音を乗せ、車は一路、片道30分の神社への道を進んでゆく。
「寒いわねぇ」
「……去年はこんなでもなかったけどなぁ」
「でも、さすがにすごい人ね……去年よりも多いかしら」
「みたいだね。初音、離れないようにしなさい?」
「う、うん」
神社の境内は人でごった返していた。お正月の渋滞にくわえ、駐車場での10分あまり順番待ち、さらには参道でものろのろ歩きの順番待ちを強いられたため、すでに時計の針は11時半近くを指している。
(ふぁぅ……っ)
あれからも初音の我慢は続いていた。
早朝の寒さに冷えきった下半身は、すっかり尿意に占領されている。黒いストッキングに包まれた脚はせわしなく寄せられて、ぎゅっ……と動きを止めては小刻みに震えるのを繰り返していた。
おなかにじんじんと響く尿意を感じたまま、初音は父親に手を引かれ、境内の人ごみの中にいる。足元はどこかふわふわと頼りなく、まっすぐ歩くのにも苦労する。
新年の冷えこみはタイツに守られた少女の下腹部を容赦なく刺激し、初音の尿意を加速させていた。お参りの最中に、『おトイレまで我慢できますように』なんてお願いをした女の子は多分初音くらいのものだろう。
(おトイレ……行きたいっ……)
切迫な初音の訴えは、しかし言葉になることはない。
頻繁に時計を気にする母親の様子が伝染したのか、両親はそろって初詣をできるだけ早く済ませたいと焦っていた。車を降りるなり、初音はまっすぐに神社の境内、参拝者の列の中に連れ込まれてしまっていたのだ。
「ふぅ……っ」
人ごみではぐれないようにとぎゅっと握られた初音の手のひらには、じんわりと汗が滲んでいる。
不自然に力の入る手のひらを、父親は愛娘がはぐれないように緊張しているものと勘違いしている。そうして父親が初音を安心させようとしっかり手を繋ごうとするため、初音はますます自由を失ってしまっているのだった。
片手がハンドバックで塞がり、もう片方の手は握られたままでは、スカートの前をおさえることも叶わない。どうしても不自然に寄せ合わせる膝が大きく動いてしまう。
「おっと……」
(うぁ!!)
バランスを崩しかけた父親にぐい、と手を引っ張られ、初音は思わず悲鳴を上げそうになった。
せっかく内股に揃えていた膝が離れ、寄せ合っていた内腿にひんやりとした空気が流れこむ。スカートの中にまで侵入してくる初春の寒気は、薄布に守られた少女の股間をゆっくりと侵し、くつくつと沸き立つおなかの中の恥ずかしい液体を活性化させるのだ。
初音は慌ててぎゅっとスカートの前を握り、コートの裾を引っ張って膝を交差させる。
(っ、……出ない、おしっこなんか出ない……ガマン、しなきゃっ……)
自分に言い聞かせるように、呪文のように『我慢』いう単語を繰り返して、そっと下腹部を撫でる。わずかではあるが落ち付いたおしっこの波を感じ、初音は小さく息を吐いた。真っ白い吐息が行列の中に溶けてゆく。
(うぅ……ち、チビっちゃうかと思ったよぅ……お父さんのばかっ)
ちらり、と父親の顔を窺うも、当の父はと言えば母親にしっかりしてと怒られ、いつもの顔で参った参ったと頭を掻くばかり。
「ほら、あんまりきょろきょろしないの」
「だ、だってぇ」
「だってじゃありません」
たしなめられながらも、初音はそちらを窺わずにはいられない。少女の視線の先には、人ごみの隙間から覗く境内の端にずらりと並ぶ行列があった。
新年の大混雑は、初音がいま一番行きたい場所であるトイレにも公平に訪れている。初詣で慣れない着物を来ている女の人も多く、そのせいでますます行列の進みは遅かった。
初音が一番最初に確認してからもそれなりに時間は経っているのだが、状況は一行に改善されず、それどころか順番待ちの列はさらに長く伸びていた。普通に並んでいるだけで何十分という時間を浪費してしまうであろう。
この上こんな寒空の下でそんなに焦らされていたら、順番が回ってくる前におしっこが出てしまう可能性のほうが高いようにも思えた。ならばいっそこのまま我慢を続けて、家のトイレでおしっこを済ませるほうがまだいくらか下腹部に負担を強いないで済むのかもしれない。
だと、いうのに。
「……ありゃ、小吉か」
「わたしは中吉ね。ここのおみくじ、当たるって有名なのよ。初音はどうだった?」
「え、えっと……」
のんびりと会話する両親に気付かれないように、初音は小刻みに靴のかかとを参拝路の石畳に押しつける。
早く帰りたい、という初音の内心を汲み取ってはくれないまま、両親はおみくじの内容に一喜一憂している。二人とも、まさか愛娘が去年から一度もおしっこをできていない、という事実に苦しんでいるとは思いもよらないのだろう。
手元を覗きこんでくる母親に気付かれないよう、初音はさりげなく膝を寄せ合わせて、できるだけなんでもない風に答える。
「こ、こんな感じだけど……?」
「初音は末吉ね。……失せもの、見つからず。待ち人、望まずとも来る? なんだかあんまり良い感じじゃなさそうね?」
さすがのご利益と言うべきだろうか。トイレは見つからず、来て欲しくないおしっこの波は次々とやってくる。見事にふたつとも的中していた。
「あ、でも健康は良しってなってるわ。よかったじゃない」
(よ、よくないようっ……!!)
またも的中。少女の循環器はいまもいたって健康で、いままさに現在進行中で、去年のうちに飲んで全身に吸収されたお茶にコーヒーを、強力な利尿作用のままに続々とおしっこへと抽出しては小さな膀胱に送り込み続けている。
「事故……水に注意? あら怖いわ。気を付けてね初音?」
「う、うんっ……」
(あ、だ、だめ、は、はやく、おしっこ……っ!!)
これまた的中。初音の下半身は今まさに、オモラシ警報の発令中だ。口の中に溜まったつばを飲み込んで、辛うじて頷く。
ちらりと横目に、無効の行列の先頭で俯いていた、自分と同じくらいの女の子がぱっと顔を輝かせてトイレの中へと飛びこんでゆくのを見て、初音は切なげに腰を揺らしてしまう。
「……はぅ…っ!!」
同時、じんっ、と鋭くイケナイ感覚が初音の腰骨を伝う。初音はこぼれそうになった悲鳴をぐっと飲み込んだ。
「あらあら……恋愛……年頭に苦難あり。乗り越えられねば今年は難しい、か。まあ初音にはまだ早いわね」
(……ぅ、しない、オモラシなんかしないもんっ……!! しないの、し、ない……ぃ、ぅ)
初音も今年でもう5年生なのだ。そんなことは絶対にゆるされない。オモラシしてしまう女の子のことなんか、だれも好きになってくれるわけがないのだ。
けれど、もう初音のおなかはぱんぱんで、タイツの膝はぎゅっと擦り合わされるまま、離れようとしない。
「初音、どうかしたのか?」
「……具合でも悪いの?」
「あ、あの、お母さん、は、はやくっ……か、帰ろうよぅっ」
(はやく!! はやくトイレ、おしっこ、トイレおしっこ!!)
言葉の裏に真意を隠し、初音は両親に訴えた。
その間にも刻一刻と限界へのカウントダウンが進んでゆく。コートとスカートの下で、ぴったりと寄せ合わせた内腿の奥。じっとりと股間に広がる熱い感触が、じわじわと外に広がってゆく。
もはやダムの崩壊は少女の括約筋では塞き止めることは叶わず、とうとう初音の今年最初のおしっこが始まってしまったのだ。それも、最悪の――オモラシ、という形で。
「あ、あ、やだ、やぁ、やぁあ!!」
じゅわぁ、と下着の股布を溢れだした湿り気があっという間に足の間を伝い、タイツの色を侵食してゆく。
初音は悲鳴を上げながら、くねくねと足をよじるが、そんなことで出始めたおしっこが止まるはずもない。
「お、おい、初音?!」
父親の驚愕の声に、何事かと周囲の注目が集まる。まさか、今年で5年生になる娘がオモラシするとは予想していなかった父親にとっては仕方のないことだが、オモラシのまっだたなかの初音にはあまりにも辛い仕打ちだった。
「いやぁ……見ないで、見ちゃやだぁ……っ」
排泄の瞬間を隠そうと、初音は反射的にぐりぐりと股間を握り締めてしまう。少女が身体を震わせて声を上げ、、小さな手のひらを重ね止まるはずもないおしっこを塞き止めようとする様は、どこか背徳的なものすら感じさせた。
初音の小さな身体が去年から懸命に我慢し続けた熱い雫が、色の変わったタイツの股間から噴き出してぱちゃぱちゃと石畳の上に撒き散らされてゆく。神社の境内で盛大にオモラシをはじめてしまった少女を、周囲の人々は騒然と見つめていた。
自然、周囲に開いた輪の中心で、初音はちいさくしゃくりあげながらよろよろとしゃがみこんでしまった。ちょうどおしっこをするための体勢になった初音の身体は、ここがどこなのかも、服を着ているということも無視して条件反射的におしっこを出し続ける。
我慢に我慢を重ねたおしっこはあっという間に少女の下半身をずぶ濡れにしていった。
「ちょっと、……初音!! もう、どうしてトイレ行かなかったの!?」
「っだって、だってぇ……!!」
自分の作ってしまったおしっこの水たまりの上、いやいやと首を振りながら、初音は母親に言い訳をする。しかし、何もかもがもはや手遅れだ。
一年の計は元旦にあり――初夢は、誰にも言わなければ正夢になるという。おしっこの夢を秘密にしていた初音は、まさにいま夢と同じ状況を体験してしまう羽目になったのだった。
(初出:書き下ろし 2008/01/24)
初詣と神社を巡るお話。
