「あら、どうしたの、静菜?」
「あ、うん……その、ちょっと……」
玄関に下りて靴を履こうとしていた静菜を見とがめて、母親がリビングから顔を出した。最初は10時過ぎの時計の文字盤を見上げ夜遊びとは何事かと表情を厳しくしていたものの、そわそわと落ちつかない娘の様子に、すぐにその理由を察する。
「ああ、お手洗いね」
「う、うん……『おトイレ』行きたくなっちゃって」
母親は、静菜の発した『おトイレ』がどんな意味を持ち、なんのための場所であるかを知らない。静菜がどれほど苦しんでいるのかを理解しないまま、悲しいほどにすれ違った納得をして静菜を見送る。
「もう遅いから、お隣に迷惑かけないようにね」
「あの……それなんだけど、コンビニまで行ってこようかなって……だめ?」
「そうなの? でもねぇ、もう遅いから遠出はやめておいたら? 危ないわよ。最近チカンが出るって話もあるじゃないの」
「でも、こんな時間に『おトイレ』なんて借りるの、恥ずかしいし……」
言葉通り、羞恥心ももちろんある。恐らく今の静菜の『おトイレ』は、とんでもなく長く、激しいものになるだろう。いまだ尿意のおさまらない静菜の下腹部はそれだけの切羽詰った状況にあった。
それだけの時間を掛けてたっぷりと『おトイレ』をしなければ、静菜はもう満足にオシッコを我慢できない。
しかし、それよりもなによりも、せっかくトイレを借りておきながら、静菜はそこを『おトイレ』としてしか使わない。実際には一滴もオシッコをすることができないのだ。そんなことのために夜遅く、隣家に迷惑を掛けるわけにはいかなかった。
「だから……いいでしょ? ね?」
「そうね……」
まるで、おなかの中のオシッコに突き動かされるように熱意を持ってねだる静菜に、渋っていた母親も折れる。
「早く帰ってきなさいね。今日もお父さん帰ってこないから、あんまり遅いとカギ閉めて寝ちゃうから」
「うんっ、ありがとお母さん……行ってきますっ」
「ああほら、そんなに急いだら危ないわよっ」
出発の挨拶もそこそこに、静菜は急いで玄関を出た。お昼も履いていたスニーカーを、サイズの合わない新品を履いた時のように何度も何度もとっ、とっ、と地面を叩きながら、落ちつきなく門を抜けて通りに出る。
静菜の家から最寄のコンビニまでは、徒歩でおよそ5分。二つ角を曲がり、大通りに出たところだ。すっかり暗くなった住宅街は、早々にそ明かりを落としている家もあり、決して視界はよろしくない。暗闇に気分が萎えると同時、緊張感で静菜の股間が疼き始める。
(ぁあっ、ダメ……は、はやく、『おトイレ』っ……)
夏休みとは言え、都心から離れた郊外は幾分冷える。夜の涼しい風にぞわぞわとおしりを撫で上げられ、静菜は加速した尿意を抑えようと腰を“ぐいっ”と捻ってしまう。一刻も早くコンビニに向かわねばならないが、それも思うようにいかない。
急ごうにも、重力に押し下げられる膀胱の重みがいちばん敏感で脆い一点に集まってきて、思わず足は内股に、歩みは小刻みになってしまうのだった。
(っ、だめ、ちゃんと『おトイレ』まで我慢しなきゃ……っ)
薄暗い夜道にはひとけもなく、ついつい膝が寄せられ、手のひらが下腹部へと伸びてしまう。だが、いくら誰も見ていないとは言え、往来で『おトイレ』なんてもってのほかなのだ。
(……ヘンな人とか、来ないうちに……急がなきゃ……)
お昼のお喋りでも、家を出る前の母親の話にもでてきた変質者の事を思い出し、できる限りの早足で、静菜はコンビニへと急ぐ。
オシッコを済ませるためではなく――
オシッコを我慢する、ただそれだけのために。
煌々と照明を輝かせるコンビニが、ガラス張りの窓から駐車場を明々と照らし出し、停められたバイクや自転車の影を長くアスファルトに映し出している。
こんな時間でも、レジの前には会社帰りの男性や夜遅くのバイトに向かうであろう少女達で3、4人の行列ができ、ちょっとした混雑が見られた。幹線道路のひとつである大通りでは、こうして夜遅くまで人通りが絶えない。
(着いたぁ……やっと、『おトイレ』できるっ!!)
目的地まで無事に辿り着いたことに安堵しつつも、左右に開いた自動ドアの向こうから吹きつけてくる店内の冷気に迎えられ、静菜はぎゅっとシャツの前を引っ張ってぐっと口を閉じる。
(……が、我慢、してるの……気付かれないようにしなきゃ……)
ここまではさして人目もなかったが、店内には男性客を含め多くの視線がある。そんなところでたとえほんの些細な素振りでも、オシッコを堪えているのを見られるなんて、死んでも耐えられない。
今にも股間を握り締め、『おトイレ』をはじめたくなる手を、ぎゅっとシャツの裾を掴むことで代わりにして、静菜は雑誌の並ぶ棚を大きく回りこみ、丁度入り口の反対側にあるトイレに急ぐ。
歩数にしておよそ20歩。これまでに比べればあまりに短い距離だが、そろそろ限界に近付きつつある下腹部を抱えてでは十分すぎるほどに長い。ATMを操作している大学生をそっと迂回して、静菜はトイレのある区画に向かった。
しかし――
そこで静菜を出迎えたのは、無常に並ぶ青い注意書きの文字列。
『防犯上のため、トイレは施錠しています
ご利用の方は、店員までお声をお掛けください』
「ぇ……」
またも訪れた不幸な偶然。予想外の事態に静菜は困惑する。
実は先日、静菜は家までどうしても我慢できずにここで『おトイレ』を済ませていた。その時はこんなものはなかったのだ。ここのトイレはなんの問題も制約もなく利用することができ、静菜は学校から抱えてきた尿意をたっぷりと我慢し、『おトイレ』を済ますことができたのだ。
だからこそ、家のトイレが使えない今、静菜はここに真っ先に急いだのだが――
(あ、開かない……っ ホントに開かないっ!?)
思わず握ったノブが、硬い施錠音と手応えを返す。注意書きの文字に嘘偽りはなかった。誰にも気付かれずに『おトイレ』ができるはずだったのに、無常にもドアは硬く閉ざされ、静菜を拒んでいる。
「そんなぁ……」
(これじゃ、お隣の借りるのと変わんないよぉっ……)
むしろ、ここまでの道のりだけ無駄足を踏んだに等しい。5分も余計に我慢し、ここからまた夜の道を引き返すことを考えれば、大きなロスだと言えた。
ちらり、と横目で窺ったレジには、変わらず順番待ちの列ができて会計を待っている。夜遅くだというのに、一番後ろの女性が両手で下げる買い物籠にはお弁当や冷凍食品、飲み物などがいっぱい詰まっていた。
トイレに入ることもできず、店内をうろうろと往復する静菜を、ATMの前にいた大学生が振り返る。静菜は慌ててドアの前を離れ、なにげない風を装った。ここにいることはそれだけで、静菜がオシッコを我慢してることを知らせているのに等しいのだ。
しかし、そんなこととは無関係に、刻々と水位を増す恥骨の上のダムは、限界へのカウントダウンを刻み続ける。
(と、『おトイレ』……『おトイレ』したい…っ!!)
我慢の素振りすらも押さえ込んで辿り着いた場所でまたも肩透かしを喰らい、静菜の股間は徐々に危険を訴え始めていた。下腹部もジンと重く疼き、もはやさりげなく腰を揺すってしまうのを押さえ込むのは難しい。
一刻も早く『おトイレ』を――誰の目も届かない秘密の個室で股間を握り締めたかった。選択の余地は残されていないことを悟った静菜は、『おトイレ』への渇望に突き動かされ、急いでレジに向かう。
「あー、すんませんっ、えーと……」
「まだかね、ああもう、早くしてくれっ」
レジの列では、先頭にならんだ初老の男性がバイトらしき店員と言い争いをしている様子だった。さっきから少しも列が進んでいないのにはそんな理由があったのだ。不慣れらしいバイトの店員が、電子マネーでの清算を間違えてしまったらしく、レジの前でマニュアルをめくっている。
隣のレジには『休止中』の札があり、なんのタイミングか他の店員は席を外しているらしい。レジに並んだ他の客達もいくらか待ちくたびれた様子で、イライラとした雰囲気が伝わっていた。
「……早くしてくれ、まだなのか?」
「すんません……」
男性が不機嫌に唸ると、店員もむっつりと声を返す。茶髪の店員の態度があまりよろしくないのも、男性客の怒りをかりたてているらしかった。
(こ、声かけづらいなぁ……)
一声、トイレを使いたいと言いさえすれば、静菜の用は事足りる。……実際には静菜はオシッコをするわけではないが、トイレに入れないのではどうしようもない。
とげとげしい雰囲気の中、静菜はそろそろと列を迂回してレジに向かう。
「すいませんっ」
下半身の同様を悟られぬよう、ぎゅっとシャツの端を握って静菜は列の脇からレジに声を掛けた。
しかし、店員はレジの前でマニュアル二視線を落としたまま、静菜のほうを見ようともしない。
「あの……」
聞こえなかったのだろうかともう一度声を掛けようとしたとき、レジの前にいた男性客が声を荒げた。
「なんだね君は。横入りかね?! ちゃんと並びたまえ、順番だろう!!」
「あ、違います、わたし――」
「なにが違うんだ、私だって待たされてるんだぞ!! ちゃんと並べ!!」
男性客は唾を飛ばし、列の後ろを指差して怒鳴る。
ちょうど、さっきの最後尾の女性の後ろにアルコールの缶を抱えた二人連れの男女が並んだところだった。有無を言わせず命令する男性客の怒りは一見して至極真っ当なもので、静菜に注がれる店内の客達の視線は控えめに見ても好意的なものではない。
静菜はじろじろと向けられる注目から逃れるようにそっと脚を交差させ、我慢を押さえ込みながら、先を続ける。
「違うんです、その、お手洗いを――」
「え……? んだよ、この忙しいのに……」
男性客に遠慮しつつ、おずおずと問いかける静菜だが、茶髪の店員は顔をあげるなり、静菜にもはっきりと聞こえるように舌打ちをした。
不快感をあらわにされ、静菜は思わず小さくあとずさってしまう。
「え、えっと……」
「使えないって書いてなかった? 他でやってよ」
「あの、でも、店員の人に声、かけてくださいって、書いてあったんで……」
「うっさいなぁ、見てわかんない? すっごい混んでんだよ今!! 悪いけど他んトコ行ってくんないかな、ガキじゃないんだからトイレぐらい我慢できんだろ?」
店員は不機嫌な声で言うと、再びレジを弄り始めた。
「いま店長いねーから、勝手に使わして汚されッと迷惑なんだよなぁ」
まるで静菜が悪いとばかりの言いようだった。もはや取り合う様子もなく、店員はレジの操作に戻ってしまう。
(そんな……使わせてくれたっていいじゃないっ……べ、別に、汚したりしないわよ……単に『おトイレ』に使うだけで……本当に、その、オシッコ――しちゃうわけじゃないんだから……)
静菜は、『おトイレ』のための場所が使いたいだけなのだ。実際にはトイレットペーパーも使わないし、水だって流す必要はない。まあ、音消しくらいはするかもしれないが、それだってやめろと言われればやめられないわけではない。
だが、ここで店員や大勢の客を前にそんなコトが説明できる訳もない。そもそも、静菜のような多感な年頃の少女には、人前でオシッコを我慢していることをはっきり知られるだけでさえ、できれば避けたい事態なのだ。
「なに? まだなんかあんの?」
不機嫌な店員が静菜を睨む。男性客も、いらいらと腕組みを続けて静菜を見ていた。
もはや、もう一度お手洗いを借りたいと言いだせる雰囲気は消え失せている。白けた空気に耐えかね、静菜は思わず頭を下げてしまった。
「す、すみませんでした……」
決して、いけないことなどしていないはずなのに。
このコンビニには、もはや静菜の居場所はなかった。
永久我慢の狂想曲 CASE:浅川静菜5
