公爵令嬢のお話・2

 
 ふらふらと当てもなくさ迷っていたリミエルが、森の中に小さな広場を見つけたのはそのすぐ後だった。力の入らない足を引きずって馬車に戻ろうとしていたとき、少女の耳は調子はずれな歌を聞きつけたのである。
「あ、あれは……?」
 そこは、木々を切り倒して作られた広場だった。いくつもの切り株を残した広場には、夕日が差し込み、小さな小屋を照らしている。丸太を組み合わせて作られた小屋は、煙突から小さな煙を吐き出し、そこに誰かが住んでいることをはっきりと示していた。
 無人と思っていた森の中、思わぬものをみつけリミエルは小屋のそばに立人影に目を奪われた。
 そこには、己を手に薪割りをする男の姿があった。
 無精髭を生やした大柄な男は、みすぼらしい服の袖をまくって、大して上手くもない歌を妙な節回しで歌いながら、傍らに積み上げられた丸太をリズムよく割っている。
「…………っ」
 木陰から男の様子を覗き見つつ、リミエルの心は震えていた。
 人が住んでいる――つまり、そこには生活の場がある。リミエルが渇望する、木こりも人間であるのだから、当然食事もするはずだろう。つまり、恥ずかしい排泄のための小部屋が、あそこには用意されているに違いないのだ。
(ど、どうしようっ……)
 わずかな小康状態を保っていた下腹部が、再び活性化の兆しを見せていた。次第に切迫しはじめた尿意に小刻みに膝をこすり合わせ、リミエルは自問する。
 足元に青々と茂る草むらと、むき出しの黒土。森とは言え人の手の入った木々の間は視線を覆い隠すようなものは少ない。ここで勇気を出してしゃがみ込んで、用を足すべきか――それとも。
 あの木こりにわけを話して――トイレを借りるか?
(でも、っ……)
 森の中で、いかにも粗野で乱暴そうな男に話しかけるのは、公爵令嬢ならずとも強い抵抗感があった。父や叔父たちに比べても、毛むくじゃらでむき出しの二の腕は丸太のように太く、背も見上げるほどに高い。日に焼けた赤ら顔は伝説に出てくる大鬼のようで、言葉が通じるのかも怪しく思える。
 そんな相手に、うまく話が通じるのか、リミエルははなはだ疑問だった。しかし、トイレを借りるのであれば――声をかけないわけにはいかない。
(――――っ)
 想像をめぐらせたリミエルは、ざわめく下腹部にぎゅっと手を添えた。
 消え入りそうな声で、ありったけの勇気を振り絞り。
 おしとやかな深層の令嬢がたった一人、息を荒げドレスの裾を乱して現れ、しかも切なげに腰を揺すりながらトイレの場所を尋ねる。ひっきりなしに擦り合わされている膝は、押さえ込もうとしてもままならない。むしろじっとしていろという方が無理だ。
 そうなれば、あの男にもリミエルがおしっこを我慢していることがはっきりと知られてしまう。乙女の秘密のティーポットに限界まで注がれた恥ずかしい熱湯や、噴出をこらえるべくくねくねと揺すられる腰、もじもじと擦り合わされる膝、所在無げに握り締められる手のひら、赤くなった顔――その全てを告白し、白日に晒すも同じことだ。
(い、いや……っ)
 想像しただけで、公爵令嬢の頭は沸騰しかけていた。
 とても無理、不可能、できない相談である。
 仮にも公爵家の令嬢が、身分を明かすも同然の格好で見ず知らずの男の家を訪れ、あろうことか我慢できないとトイレを借り、そこでおしっこを済ませる――格好の醜聞だ。
 それこそ、もし噂にでもなればいい年をして我慢できなかったことを理由に、何をされるかわかったものではない。
(……うぅっ……ぁああ……っ)
 恐怖に背筋が竦む。足元が小刻みに揺れる。
 羞恥と排泄欲、乙女のプライドと生理的な限界。
 手を伸ばせば届きそうな所にある排泄のための場所、正しくおしっこを済ませるために作られた施設――それを目の前に、リミエルの胸中では激しい葛藤が沸き起こっていた。
「んぅッ……」
 ぶるぶる、と腰が震える。ちくちくと乙女のティーポットを揺さぶる尿意が、一刻の猶予もないことを改めて強調した。
 いまはティーポットに辛うじて収まっている羞恥の液体も、またぐらぐらと沸騰を始めようとしている。縁を乗り越え溢れんばかりに荒れ狂うのは時間の問題だった。
(あ、ああっ……)
 『ちゃんとしたおトイレ』の抗いようのない誘惑が、公爵令嬢を招く。
 いつしか、リミエルの足は知らず、木こりのいる広場へと踏み出していた。
「あ……あのッ……」
 渇いた喉で、リミエルは声を振り絞る。
 そわそわと落ちつかない下半身をくねらせながら、ぴったりと寄せられた膝が小刻みに震えている。一刻の猶予もないのをひた隠し、一片たりとて覗かせまいとしているのだが、もはやおしっこが出そうでしょうがないのは誰の目にも明らかであった。
「ごめんなさい――わ、わたし、り、リミエルって……いいます……そ、そのっ、ぁあぅっ」
 挨拶の途中で突然危なくなり、びく! と硬直してしまう。ぐいぐいと腰をよじり、幼い令嬢は大柄な男の前で、必死に言葉を紡ぐ。
「と、――と、トイレ――お、お手洗いを……お借りしても――いいでしょうか……ッ」
「ぁあん? なんだ、お前ぇ」
 仕事を中断させられた木こりは、野太い声を上げて斧を下ろし、無遠慮な視線でリミエルを眺め回す。
 それはまるで値踏みをするような無礼極まりない視線だった。だがリミエルにはそれを咎めることはできない。近くで見上げる男はまるで山のように大きく、力強い腕でつかまれるだけで少女の身体はへし折られてしまいそうだった。
 すぐ間近には、大きな丸太を景気良く割っていた斧まである。少しでも男の機嫌を損ねれば、何をされてしまうか解らないのだ。
「す、すいません――でも、そのっ、お願いしますっ……お、お手洗いを……か、貸して、ください……っ、も、もう、が――」
(が、がまん、できないんですっ……!!)
 思わず口を突いて出そうになった限界を告げる言葉をのみこんで、リミエルは再度男に懇願する。
「お手洗い? トイレって、便所のこっだかぁ?」
「っ――」
「なんだあ、いぎなり出てきて便所がぁ? こっぱずかしい娘だなや。なんだべそっだらぐねぐねして、お前ぇ、家までションベンも辛抱できねえのかぁ? ガキじゃあるめえによぉ。がっははっ」
(……っ)
 聞き取るのも難しいほどの酷い訛りで、男は汚れた歯をむき出しにして笑った。唾を飛ばし、下品に目を歪めた男は、土と埃で汚れた手でフケにまみれたぼさぼさの頭を掻き毟る。
(い、嫌……ぁ)
 公爵令嬢の健気な決意は一瞬で揺らぎ、リミエルはこの男に声をかけてしまったことを後悔した。やはりこの男は大鬼なのかもしれない。迂闊に近づいた自分を取って食らう化け物なのかもしれない。おとぎ話なのだと思っていても、リミエルは半分以上本気で、そんなことまで考えてしまう。
「ごのへん滅多に人も来ねえのに、どっから来たべお前ぇ? 家は近ぇのが? 我慢できねえだか?」
 男の奇異の視線が、隠す風もなくリミエルの股間に向けられる。ドレスの上から肌に突き刺さる下卑た視線は、潔癖な公爵令嬢にとってあまりにも不慣れなものだった。下品な言葉でずけずけと尿意を指摘され、リミエルは頭から湯気を噴きそうなくらいに赤面してしまう。
(っ、嫌ぁ……見られて………が、我慢、してるところ……ッ、やだ、やだぁ……っ!!)
 それなのに、羞恥に煽られて、体内のティーポットがくつくつと沸き立つ。
 手持ち無沙汰の右手はせわしなくスカートの前を行き来し、布地を軽く撫でる。こみ上げてくる欲求のままに股間をきつく握り締めたい衝動を抑えながら、リミエルは必死に膝を擦り合わせくねらせた。
「それどもお前ぇ、ションベンじゃねえんが? 腹ぁ下してんのが? ぁん? 悪りぃモンでも拾っで食っただがぁ?」
「ぁ、っ……そ、その……っ、や、やぁ……!!」
 言い淀むリミエルを他所に、男は少女のもとにずかずかと近づいてきた。太い丸太のような腕が伸ばされ、鼻を付く異臭が立ち込める。一日二日風呂に入らない程度でここまで酷くなることはないだろう、猛烈な体臭がリミエルの気分を悪くさせた。
 寒気がするほどの恐怖が――幼い令嬢の羞恥心を奪い去っていた。
「ぉ……おしっこ……ッ!! おしっこ、ですっ……!!」
 男に触れられまいとする一心で、俯いた幼い令嬢の喉が、掠れるような声を絞り出す。
「お、お願い――お願いします……!! も、もう、おしっこ――っ、おしっこが、でちゃいそうで――が、がまん、できないんですっ……!!」
 たどたどしい言葉で自分の尿意が限界であるを告げ、リミエルは男に懇願した。はしたなくも『おしっこ』と口にして、粗野な男にもわかるようにトイレの欲求を伝えねばならない。
 本来ならば一生出会うことなく、口もきかないであろう、下賎な身分の男――しかし今や彼の許しがなければ、幼い令嬢はトイレを使わせてもらうことができないのだ。ここでトイレを使う事を断られれば、リミエルは森の茂みで用を足さざるを得なくなる。
 ここまでしておいて、そんな結末は――あまりに割に合わない。
「なんだべ、ションベンが。お前ぇみえでえな綺麗な娘っごでも、ぢゃんどオイラどおんなじに、ションベン出すんだなぁ……」
(いやァ……っ)
 無精髭の下から漏れた男のつぶやきはに、公爵令嬢の顔が火を吹きそうになる。可憐な美貌は羞恥に染まり、今にも泣き出してしまいそうだった。
「は、はい。そうですっ、おしっこです……!! お、おねがい……です、おしっこ……おしっこ、させてください……っ」
 もう、形振り構わずに公爵令嬢は桜色の可憐な唇を喘がせて、しきりに『おしっこ』という言葉を繰り返した。そうしなければ、トイレにたどり着けないと知っているかのように。
 脚を交差させ、お尻をモジつかせ、ドレスのスカートを握り締めて、リミエルは叫ぶ。綺麗に膨らんだスカートの生地には無残に爪が立てられて、見るも浅ましい皺が寄せられる。
 細い腰の下、屈辱と羞恥によって乙女のティーポットを炙る尿意の炎は弱火から強火へと変わり、ぐらぐらと煮立つ水面は激しくざわめいていた。
 あどけなくも無垢な、美しき公爵令嬢が恥辱に顔をゆがませ、涙を滲ませて、卑屈におもねって薄汚れた男に請い願う様――それは、ある種の嗜虐心を満たすのに十分な光景であった。
「ションベンなぁ……」
「うぅ……っ」
 男はなおも繰り返し、ジロジロとリミエルを見下ろす。何かを値踏みするような視線がさらに強くなる。
 槍衾のような視線に耐え、嗚咽を飲み込み、暴発しそうになるおしっこの出口を必死に押さえながら、リミエルはじっと俯いて堪える。
 今にも脚の付け根の注ぎ口からあふれ出しそうになる恥ずかしい熱湯を――両手の力まで使って塞き止め、公爵令嬢は惨めに、繰り返しトイレの許可を願った。
「けどなぁ……、お前ぇ、」
「ぉ、おトイレで、おトイレじゃなきゃ嫌なんですっ……ちゃ、ちゃんとしたトイレでなきゃ――っ、お願いします、おトイレ、使わせてくださいっ――おトイレでおしっこさせてくださいっ……」
 男の言葉を遮っての、あまりにも悲痛で浅ましい叫びに、男は軽く目を見開き、しばし沈黙する。
 痛いほどの静寂が数十秒も続いただろうか、やがて男は無言で小屋の後ろを指で示した。
「ぁ、――ありがとうございますっ!!」
 ようやくの許可に、リミエルは怒りも羞恥も忘れ、ぱぁっと目を輝かせた。それははっきりと、これからオシッコをすると宣言するに等しいものだが、それだけ今の尿意は切羽詰っていたのである。礼もそこそこに、おぼつかない足取りで丸太小屋の裏手へと回る。
 小さな丸太小屋よりも、さらに粗末で小さな屋根が――そこにあった。
(あったぁ……!!)
 はしたなくも、リミエルは胸中で喝采してしまっていた。くねくねと腰を揺すりながら屋根の下へと向かい、リミエルは何度もその屋根がなんなのかを確認する。
 確かにみすぼらしく汚いが、間違いなく――そこは排泄のための場所、トイレであった。
 おしっこを済ませるための場所が、オモラシ寸前の少女をようやく出迎える。下腹部の疼きはなおも激しく、熱い雫がじわじわと出口へと迫っていたが、もうこれ以上辛い思いをして我慢を続ける必要もないのだ。
 ほんのあと数十秒、我慢すればいいだけだった。公爵令嬢の懸命な我慢は、この瞬間のためにあったと言っても過言ではないだろう。
 錆びたちょうつがいを引き、リミエルは狭い小屋の中に駆け込む。鍵のようなものはなく、つっかえ棒が立てかけてあるだけであったが、リミエルはおぼつかない手でそれを閉めたドアの脇に押し込み、トイレを済ませるための密室をつくる。
「や、やっと、おしっこ――できるっ!!」
 震える唇で安堵を噛み締め、いよいよ待望のおトイレを始めようとしていたリミエルだが――しかし、そこで信じられないものを見て、声にならない悲鳴をあげてしまった。
 続く。
 (初出:書き下ろし)

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