その部屋は、お城の中でも一番高い塔にある秘密の場所でした。滅多に人の立ち入ることのないそこに、小さな足音が響いていきます。
「……さあ。……鏡よ、鏡」
こつ、こつ、こつ、と石畳の床を鳴らして響く、かかとの高い靴の足音。それに答えるように、部屋の片隅にかけられていた大きな鏡に、ぼんやりと何かが浮かび上がります。
まるで風に揺れる水面のように鏡の表面が、うっすらと光を帯びると、どこからともなく穏やかな声が聞えてくるのでした。
『おはようございます、魔女様』
「ふん、挨拶なんてどうでもいいですわ。それより鏡。今日もあなたに聞きたいことがありますの。お答えなさい」
礼儀正しい魔法の鏡にそう言うと、魔女は細い腰に手を当て、見上げるように大きな鏡を睨みます。
『なんなりとお申し付けください。魔女様。主さまのため、真実を写すのがわたくしめの役割にございます』
「そう。では教えなさいな。鏡よ鏡、この世で一番、きれいで可愛い女の子は誰ですかしら?」
魔女は自信たっぷりに、魔法の鏡に呼びかけました。
魔女がこの質問をするのは今日がはじめてではありません。王様に一目惚れされてお城に招かれて以来、魔女は毎日この質問を鏡に繰り返しています。
魔女は、つねづね自分の容姿を自慢に思っていました。鴉の濡れ羽のように美しくつややかな黒い髪、ガーネットの瞳、白い肌、どれをとってもそこいらのお姫様にだって負けることはないでしょう。
……ちょっとばかり背が小さいことと、胸がぺたんこなのは置いておくとしても、お行儀作法も、挨拶の仕方も、誰にも負けないくらいに立派にこなして見せる自信もありました。
だから、魔女は毎日、魔法の鏡に訪ねます。
「鏡よ鏡。さあ、お答えなさいな。この世で一番、きれいで可愛い女の子は、いったい誰ですかしら?」
魔女の呪文によって、波間のように鏡が揺れ、そこからぼんやりと顔が浮かび上がります。
『お答えいたします魔女様。この世で一番美しいのは――』
「…………ふふん。それは?」
ここで鏡は、毎日『それは、なんといっても魔女様、あなたでございます』と、そう答えるのです。それを聞いて魔女は毎日、上機嫌でお城の生活を送ることにしていました。
けれど、その日ばかりはちょっと様子が違っていたのです。
揺れる鏡に映し出されたのは、魔女とは違う、美しい雪のような銀髪をした小さな女の子でした。
『――なんといっても白雪姫さまにございます』
「ってちょっとぉ!? な、なななな、なんですのそれはっ!?」
昨日までとまったく違う答えが帰ってきたので、魔女はおもわずズッコケかけ、怒りもあらわに魔法の鏡に詰め寄ります。
「ちょっとお待ちなさい!? い、いつもと答えが違うじゃありませんの!! どこに目をつけているのかしら、鏡!? いま、この目の前にいるでしょう、この世で一番可愛い女の子が!? ほら!! よおく見なさいませ!!」
『――いえ、なんと言われましても、白雪姫さまにございます』
「いったいどういうことですのっ!?」
頑固に答えを変えない鏡に、魔女はかんしゃくを起こして鏡の枠を掴み、がくがくと揺さぶって顔を近づけます。
「ねえ鏡、どういうこと!? 理由をおっしゃい、理由をっ!!」
『なんといいましても美しい髪、可愛らしい瞳、白い肌――』
「そんなのはワタクシも同じでしょうっ!? あなたも昨日まではワタクシが一番世界で可愛い女の子だと言っていたでしょうっ!?」
『確かに、昨日まではそうでございました』
「なら、どうしてですのっ!? どうして今日は、あんなちんちくりんの白雪姫なんかを――!!」
『お答えいたします魔女様。白雪姫様は本日、誕生日をお迎えになり、一人前のレディーとなられました。確かに昨日までは、先ほどのご質問のお答えは魔女様でございましたが、今日からは違います。世界で一番お美しく、お綺麗で、可愛い女の子は――立派にお姫様となられた白雪姫様なのです』
「な、なんですの、その屁理屈は――!?」
『そして恐れながら、魔女さまもとくにお身体の一部、胸のあたりはけっして立派なレディとは申せぬほどに、年下であられる白雪姫様に負けず劣らずのぺったんこかと思われますが……』
「きぃーーっ!? ううう、うるさいですわねッ誰が断崖絶壁ですのっ!? そ、そんなことは余計なお世話、どーだっていいんですのよっ!?」
ばんばんと足を踏み鳴らして、魔女はかんしゃくを起こしました。
昨日までただのお子様だった白雪姫なんかに、世界で一番可愛い女の子の座を奪われるなんて、プライドの高い魔女には許しがたいことです。しかし魔法の鏡はいつもどんなときも真実を告げます。鏡がそうだというなら、それは本当のことなのでした。
魔法を使う魔女だからこそ、鏡の正しさはなによりも良く知っていたのでした。
ひとしきり暴れてから、魔法の鏡の言葉を噛みしめ、愕然となって俯いていた魔女でしたが――やがて肩を震わせて、大きな声で叫びます。
「……ふふ、そうですわ、じゃあ……白雪姫がお姫様でなければよろしいのね。そうすればまた元通り、ワタクシが世界で一番可愛い女の子ですわ!!」
そう。なんとも恐ろしいことを思いついた魔女は、鏡の部屋から外に出ると、ベルを鳴らして召使いを呼びつけました。
あわててやってきた召使いに、魔女はこういいます。
「いいですこと。この国で一番腕のいい狩人を呼びなさい。その狩人に、白雪姫を連れて、森の一番奥深く連れて行かせなさい。よろしいですの? もう白雪姫が、二度と戻ってこられないように、深い深い森の奥にですわ!! わかりましたわね!?」
「狩人さん、まだ行くのですか? とっても歩いたと思うのですけれど」
「……へ、へえ、あとほんのもう少しでございますので、ご辛抱くだせえ、白雪姫様」
「森ははじめてきましたけど、とっても素敵なところですね。動物も小鳥もいっぱいいますし、大きな木もいっぱい。わたし、とっても楽しいです」
「へ、へえ、喜んでいただいてなによりでさぁ」
ひたいから吹き出る汗をなんども拭きながら、狩人は、あどけなく笑いながらも時々、どきっとするほどに美しさの片鱗をのぞかせる白雪姫を連れて、だれも入ることのできないような深い深い森の奥へと進んでいきます。
この国のお姫様である白雪姫を森に置き去りにするなんて無体な命令、狩人には恐ろしくてとてもできやしないことでした。
「うぅ……」
そう思うと、狩人の額を流れる汗は止まりません。苦しげに呻きながら、狩人は重い足取りで先を進んでいきます。
白雪姫は、まだまだ小さくて素直な女の子でした。狩人の言うことをすっかり信じ込んで、ドレスのスカートを摘んでとことこと後を付いてくるのです。こんなにも純真なお姫様を、二度と帰ってこれないような森の奥でで一生迷わせ続けることの罪悪感に、狩人は暑くもないのにすっかり汗だくになっていました。
けれど、なんといってもこの命令をした相手は恐ろしい魔女です。逆らうことは許されませんでした。
「……お許しくだせえ、白雪姫様……」
「はい? 何かおっしゃいましたか?」
「い、いえ、なんでもねえです。そ、それより姫様、喉はかわいてねえですかい? よ、よかったらこいつを飲んでくだせえ」
森のなかの小さな広場、切り株に腰掛けてひとやすみしている白雪姫に、狩人はそっと水筒を差し出します。
「え、よろしいんですの? ありがとうございます! もう、お喉がカラカラだったんです!!」
ぱあっと顔を輝かせ、それを受け取って、こくこくとつめたい水をおいしそうに飲む白雪姫。すっかり自分を信頼して、疑うことを知らない白雪姫に、狩人は嘘をつき続けるのがだんだん辛くなってきていました。
「……ひ、姫様、ちっとここで待ってていただけますか? その、ええと、少々落とし物をしちまったようなんで」
まだ、魔女の命令にあった森の一番奥というにはずいぶん足りません。けれど、小さな白雪姫には簡単に戻ってこれない場所なのも確かでした。
どうせ同じことなら、深くて暗い森の奥よりも、少しでもおひさまの見えるようなこの場所で……それは、魔女に逆らえない狩人ができる、精一杯の妥協なのでした。
「あら、それは大変ですね。わたしもご一緒に探しましょうか?」
「え、いえその、ああ、ええと、だ、大丈夫でさあ、す、すぐもどりますんで!!」
首を傾げる白雪姫をひとり残し、狩人は一目散にその場を後にします。背中を向けて走り去るその間、なんどもなんども、心の中で白雪姫に謝りながら。
そうして、何も知らない白雪姫は、とうとうひとり、森の中に取り残されてしまったのでした。
最初のうちは、おとなしく狩人の帰りを待っていた白雪姫でしたが、やがてお日様が傾き、木々の影が長くなり、空が橙色に染まっても、狩人が戻ってくる気配がないことに、じょじょに不安になり出してきます。
「……狩人さん、おそいですね……なにかあったんでしょうか……?」
けれど、白雪姫は狩人のことに怒ったり、不平を言ったりはしませんでした。
それどころか、狩人の身に何か危ないことでもあったのではないかと案じているのです。狩人が魔女の命令で自分を騙していたのだなんていうことには、まるで気付かない白雪姫でした。
ほんとうに、雪のように美しく真っ白に、ひとを疑うことを知らない――純真無垢なお姫様なのでした。
けれど――いつまでそうとばかりも言っていられません。白雪姫は、だんだん別の理由でも困ったことになっていました。
「……ほ、ほんとうにどうしましょう……っ」
んっ、と小さく俯いた表情の下で、ドレスの脚が忙しなく重なってはきゅうっと閉じ、靴の爪先が地面をとんとんと叩きます。
切り株に腰掛けたおしりがもぞもぞと位置をずらし、両方の手は不安げにドレスのおなかの下のほうをさすります。
「はぁ……っ……」
ぴくん、とドレスの腰が震えました。そこから背中に伝わるようにぞぞぞっと震えが走り、白雪姫は首筋を縮こまらせます。
「んぅ……ふ……はぁっ……」
ぴくん、ぴくん、と立て続けに沸き起こる感覚に耐えかね、身体をよじるようにくねらせて、白雪姫は熱い息を繰り返します。
形の整った眉がそっとハの字に寄せ合わされるたび、閉じられた目がきゅうっと細くなります。暗くなってきたせいであたりはすっかり寒くなり始めているというのに、白雪姫のうなじはしっとりと汗に湿り、頬にはほんのりと赤い色がさしていました。
薄暗い森の奥で、白雪姫はだんだん不安になっていました。早くお城に帰りたい、普段の白雪姫ならそう思ったことでしょう。
「……お、お手洗い……っ」
けれど、今の白雪姫には、お城よりも先に行きたい場所があったのです。
きゅうっとドレスのスカートの前を押さえて、白雪姫はきょろきょろとあたりを見回します。
すっかり膨らんでしまったドレスのおなかとその下の出口をさすり、暴れ出しそうになるおしっこをなんとかなだめます。
空になった水筒の中身は、待っている間にぜんぶ白雪姫が飲んでしまっていました。狩人が居なくなってから、お昼も食べずにいたせいで、いけないとは思いながらも我慢できず全部飲みほしてしまったのです。
それがゆっくり時間をかけて、白雪姫のおなかの中の、『おひめさま』の奥にあるおしっこの容れ物にたっぷりと溜まっているのです。いまや大きく膨らんだ容れ物は、ぶるぶると震え出しそうにぱんぱんにはりつめていました。
足の付け根は自然に緊張し、大切な『おひめさま』がひくんひくんと収縮します。
もう、白雪姫はそんなに長くがまんできそうにありませんでした。
「でも……勝手に、ここを離れたりしたら……」
狩人は、ここで待っていて欲しいと言ったのです。勝手に動いたりしたら、迷子になってしまうかもしれません。そう思うと、ここを離れてお手洗いを探しにいくことはよくないようにも思えます。
実はもうとっくに、白雪姫は迷子になっているのですが、もちろん白雪姫はそんなことを知らないのでした。
「……で、でも……っ」
また、きゅうっとおなかの奥でおしっこがぶるりと震えるのを感じ、白雪姫はいてもたってもいられなくなってしまいます。
震える脚で立ち上がって、白雪姫はぐるぐると広場を歩き始めました。時折がまんできなくなって、ぎゅっと『おひめさま』を押さえてしまいます。
右回り、左回り、時には立ち止まって、またその場で足踏み。
そわそわと、狩人が走っていったほうを見ては、もじもじと膝を擦り合わせます。
「や、やっぱり、もう……っ」
交互にかかとを上げながら、白雪姫はとうとう小さく叫んでしまいます。ちょっと油断するとたちまち内側からふくらみそうになる『おひめさま』の圧力に耐えるため、ドレスの前から両手が離れなくなっていました。
おしりはちょこんと後ろに突き出して、アヒルのように不恰好な中腰。両脚はいまにもその場にしゃがみ込んでしまいそうにぶるぶると震えています。
「……お……お手洗いっ……。ご、ごめんなさい狩人さんっ、……すぐ、戻りますからっ……」
長いがまんの末に音を上げて、白雪姫はとうとう待ち合わせの場所を離れて、お手洗いを探す決意をしました。
すっかり暗くなった森の中に踏み込んで、白雪姫は慎重にあたりを確認しながら進んでゆきます。小さな枝を踏むぱきんという音にも背中をすくませながら、白雪姫はなんどもなんどもあたりを見回します。
「…………っっ」
けれど、当たり前のことですが、ここは深い森の中です。こんなところに、白雪姫がが用を足せるような、ちゃんとしたお手洗いなんてあるはずもありません。それどころか入り組んだ森の中は道もはっきりしておらず、白雪姫はすぐに迷ってしまいました。
「え、ええと……あれ? ……さ、さっき、こっちに来たはずなのに……」
慌てて元来た道を引き返した白雪姫ですが、もう手遅れです。ちゃんと元通りに来た道をたどったはずなのに、さっきの切り株のある広場に戻ることができません。
「あ……そ、そんな……」
不安にきゅうっと白雪姫の小さな胸が締め付けられます。
そして、それと連動するように、おなかの奥でもきゅうっと、おしっこの溜まった入れ物が縮まろうとします。
「ぅあ……っ!?」
きゅんきゅんとうずくお腹の圧力に耐えかねて、白雪姫はたまらずに『おひめさま』をスカートの上からぎゅうっと抑え込んでしまいます。
けれど、そうやってぎゅうっと握った『おひめさま』の奥では、白雪姫の気持なんか無視して、おしっこの出口がふくらみそうになるのです。
「あ、や、いやぁ……」
白雪姫はふわふわのスカートをバニエの上からきつく握り締め、口をかたく引き結んで、いっしょうけんめいがまんをします。
「あ、あっ、だめ、だめっ……」
小さく揺れる腰と、上下するおしり。
けれど一旦ふくらみだした熱い流れは止まることなく、まるで堰を切った鉄砲水のように、一目散に出口へめがけて殺到してゆくのです。
「ぁ、あっ、ぁっ……っ!!」
白雪姫がとうとう悲痛な声と共に、その場にしゃがみ込んでしまおうとした、そのときでした。
何の前触れもなくがさっ、とすぐ近くの茂みが揺れて、そこから小さな何かが飛び出してきたのです。
「……ん、なんだい、あんた?」
白雪姫は、あまりのことにびっくりして、答えることができませんでした。
(続く)
(初出:書き下ろし)
第12.3夜 白雪姫
