そこは、商店の立ち並ぶ大通りからも少し奥まった場所に位置していた。
雨風にさらされて古びたブロック塀が、ちょうど具合良く凹凸をつくって周囲からの視線を遮るその場所は、通りに面していながらも意識の死角にあるようで、誰もが見過ごしてしまうようなそんな場所だ。
いま、そんな路地の隙間に、息せききった少女が小走りに駆けこんでくる。
「あ……っ」
切羽詰った表情に、余裕なく足踏みを繰り返す革靴。はっきりと、限界を訴える下半身。
ぶる、と身を震わせ、少女の強張っていた表情がわずかに緩む。
ブロック塀の足元の部分に、あるものをみつけたからだ。
(あった……っ)
適当な木切れで造られたのであろう、赤塗りの小さな鳥居。
昨今ベッドタウンとして発展を続けるこの街には不似合いな、古い風習である。
この小さな赤鳥居はいまでこそ見られなくなりつつあるものの、数十年前までは良く知られていたものだ。
読者諸兄の中にもご存知の方はいるだろう。
この鳥居は――神社、つまり神様のいる不浄ならざる場所であることを示す。転じて、ここが『ご不浄』ではないことを表し、『立ち小便禁止』を意味する符号である。
だが――この赤鳥居に、実はもう一つの意味が含められていたことを知る者は少ない。
今日は我が国のとある地方に伝わる、興味深い風習についてお伝えしようと思う。
さて、先程の少女はなんどかの逡巡ののち、いよいよ覚悟を決めたようだ。
数度、あたりを見回し周囲の視線がないことを確認して、息を飲むと、慎重にブロック塀の傍まで歩み寄ると、スカートの内側に手を差し入れた。
もはや余裕も無いのだろう、ためらうことなく秘所を覆い隠していた下着を膝元まで引き下ろし、スカートを腰上まで引き上げて、ブロック塀の前にしゃがみ込む。
そして、少女は鳥居に向かい、そのしゃがんだ姿勢のまま小さく手を合わせ、ギュッと目をつぶって頭を下げた。
(ごめんなさい、神様っ……も、もう出ますっ……!!)
必死めいたその表情が、ついに限界となる。
「んっ……」
わずかに湿ったコンクリートの上、軽く足場を確認して、少女が吐息をこぼすと。
その足元には勢いよく水流が解き放たれた。溜まりに溜まった恥ずかしい水流が、少女の股間から噴き出してコンクリートの地面に跳ね、ブロック塀の根元に泡を立てながら広がってゆく。
その水流は大きく前に飛び、古びた小さな赤鳥居に、激しくぶつかった。
じゅぅ、じゅじゅぅうっ、じょごぉおーーーーーっ!!
じょっ、ぢょぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぉー…………
よほど我慢していたのだろう。ホースで水をまくようなはしたない音が響き、少女は顔を赤らめた。ブロック塀の根元、湿って苔の生えた区画に、あっという間に薄黄色い水溜まりが広がっていく。強い水流と共に水溜まりは水深を増し、水面に注がれる音はさらに大きく変化する。
「はぁ……っ」
安堵の吐息と同時に、頬を紅潮させながらも少女はそっと手を合わせ、おしっこが直撃する小さな赤鳥居に向かって小さく頭を下げた。
(ごめんなさい、ごめんなさい神様……ガマン、できませんでした……)
なおも下品に水音を響かせながら、少女のおしっこは止まらない。波打つ水流はばちゃばちゃと木造りの鳥居をなんども直撃し、びちゃびちゃと音を響かせる。
神様のいる場所になんて罰当たりな――とお怒りの方もあることだろう。
しかし、これは決して、少女が責められるようなことではないのだ。
彼女は必死に我慢を続け、トイレに入ることもできず、いよいよ限界を覚えて、ここを使わざるを得なかったのだから。
……考えてみてほしい。いかに物陰であろうとも、往来からすこし足を踏み入れれば丸見えになってしまうようなこんな場所で、人一倍羞恥心の強い思春期の少女が用を足さねばならないということは、どれほどの精神的苦痛であろう。
姿は見えずとも、すぐ傍を通りかかった相手に音やにおいに気付かれることは間違いないし、切羽詰まって駆け込むところと、全てが終わった後に出てゆくところを、商店街の人たちに見られてしまうのは避けられないのだ。
無論、この商店街の住人達も少女の事情は汲んでいるため、できるだけ知らんぷりをしてくれるが、そんなもので彼女の羞恥がやわらごうはずもない。
そんな状況で、ここで排泄を選んだということからも、彼女にもはや“ここ”以外の選択肢がなかったことをご理解いただけるだろう。
そう――
『ごめんなさい神様、もう出ます(詣でます)――』
神社に参拝するという意味の「詣でる」と「もう、出る」を掛けた、駄洒落めいた言葉遊び。
しかしそれこそが、どうしても我慢できなくなった少女達が、屋外で排泄に及ぶことの最後の言い訳なのである。
読者諸兄も、くだらない駄洒落と馬鹿にするなかれ。こうした言葉遊びこそが、我が国の慎みと恥の文化をはぐくんできたのは周知の事実なのである。
“お花摘み”や“雉撃ち”と同様。
神社に向かうという意味合いで、少女達は『おしっこが我慢できない』という危機を、決して直接的ではなく皆に伝えるのだ。
この風習は、十数年ほど前まではひっそりと全国のあちこちで見られていたらしい。
本来、この赤鳥居はここが神聖な場所であり、決して汚してはならないことを示すものであることはすでに述べた。
だが、本当の本当に我慢できなくなった少女達にとって、ここは逆に、他では許されざる排泄を許可された場所だというのである。
さまざまな倫理や決まりごとを飛び越えて、必死の必死、最後の最後の手段として。神様であれば、こうした無体な振る舞いも、きっと許してくださるのではないか。……屋外での排泄を詫びる少女たちの真摯な姿からは、そんな追い詰められた祈りが聞こえてくるようにも思う。
これは主に、思春期から若い女性たちの間でだけ伝えられる、都市伝説めいた性格のものらしい。どこが発端であるのかは諸説あり、この場でそれを論じていると紙面がいくらあっても足りないため割愛するが――その起源については、いくつかの材料から推測することが可能である。
つまり、多くの都市伝説同様、最初はささいなきっかけであったのだ。
今この場で用を足している少女同様、尿意を堪えに堪え続け、余裕をなくしもはやのっぴきならぬ事態に追い込まれた若い女性――あるいは少女が、この風習のはじまりを形作ったのであろうことは想像に難くない。
なぜなら、『立ち小便』がダメであっても、『しゃがんでオシッコ』するのならば大丈夫――そんな屁理屈を使ってまで、ここで排泄に及ぶことを正当化しようとしたのだから。
いまや、多くの公衆トイレが整備され、衛生教育も進み、立ち小便をとがめるようなことも少なくなった。年配の方ならともかくも、若い男性諸氏は道端での立ち小便の経験のない方も多いだろう。赤鳥居の表向きの意味『立ち小便禁止』がトリビアとなる昨今、その事を知らない方も少なからず居らっしゃるのではあるまいか。
けれど、今もなお我が国の各地でひっそりと赤鳥居の風習が残されているのは、こうした事情があるからかもしれない。いざとなればなんとでもなる男とは違い、さまざまな事情を抱えた女の子達のため、赤鳥居はこの現代にも静かに残されているのかもしれない。
読者諸兄も、もしどこかで――路地裏の古びた赤鳥居と、その根元に大きな水溜りを見つけた時などは、このことを思い出してみてはいかがだろうか。
――霧雨澪の世界探訪
『地域の風習に見られる少女のトイレ』より
(初出:書き下ろし 2010/08/03)