モンスター・ペアレント

 高野女史の抗議は、3時間にもわたって続いていた。
 時計を見ればすでに7時。応接室に詰めた職員達の顔色にも疲労と困惑が濃い。それは私も同じことで、パイプ椅子に張り付いた腰骨がめきめきと嫌な音を立てる。まだやらなければいけない仕事は残っているのだが、いったいいつになればこの牢獄から解放されるのだろう。気付かれないようにそっと溜息をつく。
「ねえ、一体どういうことかと聞いてるんですよ!? それをさっきからあなた達は、わけのわからないことばかり言って……こんな人たちが先生だなんて、世も末ね!! きちんと説明をしてください、説明を!!」
「ええ、ですから、ことの経緯は――」
「ああほらご覧なさい!! そうやって誤魔化そうする!! まったくもうっ!!」
 とは言え、ただの関係者としてこの席に同席している私など、今もこうして矢面に立たされている学年主任と担任のに比べれば天国のようなものだろう。
 感情をたかぶらせてエキサイトを続ける高野女史は、まるで他人の意見に耳を貸す様子がない。意見どころかほとんど口封じのような勢いで、女史の批判は事件当時の担任の対応、学校の態度から始まり現在の学校制度、若者への抗議、は政府への不満に幅広く及んでいた。
 受験を来年に控え、そろそろ幅広く視点を持つ必要がある時期だとは言え、この場で現在の政府の弱腰外交と利権をむさぼる政治家を批判する演説をぶちあげられても、こちらとしては頭を下げるばかりである。
「ちょっと!! 何とか言ったらどうなの!! だいたいそれが教師の態度ですか!? 生徒すべてに、平等にチャンスを与えるのが当たり前でしょう!?」
「ええ、はい、それはごもっともですが……」
「だったらどうして言うことがきけないの!! 子供でも悪いことがあったら謝りますよ!! このウソつき!! 税金どろぼう!!」
「はあ……」
 私学に税金はあまり関係ない気もする。
 マシンガンのような抗議の盾になってくれている担任と学年主任の背中に感謝をしつつ、良くまあ耐えているなあ、と他人事のように思う。実際、高野女史の言っていることはあまりに滅裂で、真面目に受け取ってしまうと本気で怒鳴り返してしまいそうだった。
 ……実際のところ、私は問題になった試験当時も別の場所におり、事件についても完全に後になってから知った身であるからなおさらである。
「秋穂ちゃんがどれだけ苦しい思いをしたのか、わからないの!? ええきっと分からないわ!! 人の心なんかわかりもしないのよ!! 冷血動物のあなた達は!!」
 どちらかといえば、絵にかいたような三角眼鏡の高野女史のほうが失礼ながら爬虫類のようにも見えたりしたが―――さておき。
 そもそもの事件――(というほどのことなのか、私にはやや判断しかねる)は、3日前の6時間目の授業で起きた。
 その時間、3-Aでは担任教諭による国語のテスト(担当教科だ)が行われており、高野秋穂を含むクラス28人全員がそれに取り組んでいた。
 しかし、試験開始から15分ほどで秋穂の様子がやけに落ち着きなくなっているのに気付いて担任が声をかける。
 秋穂は大丈夫と答えたものの、数分後にはまたそわそわと身体を揺らし始め、再度担任が具合を聞いた。このやりとりは数回行われ、ついに秋穂が尿意を催していることに担任が気付いてしまう。
 異性の、それもまだ若い男性教諭ということで言い出しづらかったのだろう。ようやくそれに気付いた教諭は、秋穂にトイレに行ってくるように勧めるが、秋穂はこれを拒否。理由は回答時間が足りなくなるからというものだった。
 それを説得する際にやや押し問答となるも、結果的に秋穂は試験を中座し、教室をあとにトイレに向かう。これが試験開始からおよそ20分とすこし。
 その後、10分ほどして戻ってきた秋穂は、そのまま試験終了まで回答を続けた。
 ことの経緯は以上である。
 この対応が何かの問題になるなどとは、担任含め私も学年主任も、まるで思っていなかったのだが――試験の結果発表後、この経緯を知った秋穂の母親である高野女史が、秋穂が不当な扱いを受けたと猛抗議をし、こうして学校にまでやってきて相談会を開くという事態となったのである。
「いいですか!? ちゃんとお聞きなさい!! あなた達はね、自分勝手な都合と押しつけがましい偏狭な価値観で、前途ある子どもの将来を傷つけたんですよ!? 本当にこれがどれほど重大な過失であるのか理解しているの!?」
「ええ、はあ、はい……」
「ウソつき!! そんなうわべだけ謝ってれば済むって思ってるんでしょう!! 本当に嘘ばかり!! ……すでに教育委員会ともお話はさせていただいています。この不当な扱いが、秋穂ちゃんの心をどれだけ傷つけたのかわからないの!? このろくでなしの人でなし!!」
「ああ、いえいえ、そんなことは決して……なにとぞ、穏便にですね……」
 汗だくの学年主任は、もはやなにを言っても無駄と、女史の怒りを鎮めるのに精いっぱい。担任も何か言いたそうな顔はしているものの、女史の前で大人げない対応を取ることはなかった。狭量な私にはとてもできそうにない忍耐で、見習わなければならない。
 しかし、実際のところ二人とも内心、気が気ではないに違いあるまい。
 そう、女史の隣で、うつむきソファに腰掛ける――ボブカットの少女。件の高見秋穂である。
 くせのない黒髪、整った顔立ち、化粧っ気もないおとなしめの外見は、昨今の流行とはかけ離れた、清楚で落ち着いた雰囲気で、同性の私から見ても好感が持てる。優等生然と知性を感じさせる切れ長のまなじりは、しかし今は困惑と苦悩に溢れて、落ち着きなく絨毯を行き来していた。
 いやはや、それに比べて隣でヒートアップを続ける高野女史ときたら、ビヤダルを二つ三つ重ねた上に布団をかぶせたような、実に恰幅の良い格好で。編み目タイツの胸元や脚はまるでお中元のボンレスハム。よくもまあ似なくて良かったものだと、当の高野女史以外はそう思うだろう。
 実際、秋穂は礼儀正しく、実に真面目で優秀だった。
 何事にも興味を持ち、積極的に取り組み、気配りもする。内申にも非の付けどころがなく、と言って部活や同級生との交流を避けるでもない。実に絵に描いたような優等生なのである。
 それだけに今回のような問題が起こるとは、誰も思っていなかったのだ。
「ねえ、聞いてるのあなた達!! 返事をなさい!!」
 女史の主張はこうだ。
 試験において、秋穂はもともと中座するつもりなどなく、試験時間終了まで回答を続ける意思があった。それを、担任がむりやり廊下に連れ出して、10分以上も回答時間を浪費させたのだという。それによって秋穂は試験を完投できなかった。これは教師によってわが子の成績が不当に貶められた行為である――云々。
 事によると秋穂に対して特別視――言葉を飾らなければ、秋穂に対して邪な思いを抱いて、弱みを握ろうとした変態の卑劣漢でではないか。言えきっとそうに決まってる!! そんな誹謗中傷まで、女史の口からは飛びだした。
 誤解のないよう言っておけば、試験での秋穂の点数は86点。クラスの平均点である62点から見てもかなり上であり、空欄だった回答欄も二か所だけ。これでいったいどう不当に貶められているのかと疑問に思うが、高野女史いわく、秋穂なら満点が取れて当たり前なのだという。
 つまり担任が秋穂を中座させ、10分以上、試験時間を削られ、さらには精神的苦痛を与えられたことで、満足な実力を発揮できなかった――それが女史の言い分であるらしい。
 実にむちゃくちゃな主張であるが、女史の荒唐無稽な論舌はこれだけにとどまらないのである。
「差別よ、これは差別です!! だいたい教師が、子どもの意志を尊重しないなんてことがありますか!? 自分勝手な正論を押しつける教育なんて、前時代的もいいところよ!! 子どもの成長は自由にさせるのが一番でしょう!! それを――あんな破廉恥な!!
 秋穂ちゃんは、試験を最後まで受けるつもりだったんです!! ――いいですか、もう一回言いますけどね!! 女の子が、お手洗いなんて行くはずがないでしょう!?」
 そう。
 ――女の子はトイレなんか行かない。
 冗談も誇張も抜きに、高野女史は、そう主張しているのである。
「はあ、ですが、その――」
「ええ、よそ様の子はどうか知りませんけどね。失礼ながら先生方もたくさんの生徒さんを見てらっしゃいますから、中には躾のなっていない――こんな、誰が使ったかもわからないような不衛生なお手洗いを、平気で使うような子もいるのでしょうけどねぇ。……ああいやだ。
 ですけど、普通、女の子が人前でお手洗いに立つなんて、そんな非常識なことがありますか!?」
 いやはや、最初にそれを聞いた時は正直、正気を疑った。馬鹿かとアホかと。そのまま『は? あんた何言ってんだ』と、本気で口に出しかけてしまった。
 それは担任も学年主任も同じ気分であるらしい。先程から話題がこの件になるたび、学年主任のほうを困ったように見ている。主任もそれは分かっているようで、困惑は見せながらも、しかし女史の圧倒的安剣幕に圧されて反論はできずにいた。
 だがもっとかわいそうなのは、当の秋穂だ。
 当事者としてこの席に同室している彼女は、エキサイトを続ける母親の隣で、今もなおしきりに腰を揺すって、息も荒く顔も赤く、表情を強張らせている。
 すでに両手は人目もはばからずスカートの間に差し込まれ、下腹部をきつく握りしめている。
 ただでさえ人一倍他人の視線を気にする年頃だ。その羞恥はいかばかりだろう。時折身体を強張らせ、『んっ……』と短く息を詰めるたび、閉じ合わされた膝の間でスカートがぎゅうぎゅうと握り締められる。
 秋穂は切羽詰まった表情で額に薄く汗を浮かべ、しきりに母親のほうを気にしているのだが――高野女史はそれを知ってか知らずか、まるで秋穂のことを顧みようとはしなかった。
 もじもじと小さく揺すられた腰が、ソファの上で揺れ、爪先が絨毯をぐりぐりと擦る。
 速く浅い吐息は、少しでも油断した瞬間に、少女の崩壊が訪れることをはっきりと知らせていた。
「まあ、じゃああなた達は秋穂ちゃんが悪いっていうの!?」
「い、いえっ、決してそのような事は――」
「嘘つき!! いま言ったじゃないの!! だからあなた達は信用ならないのよ!! そうやって適当にたらい回しにすればいいって思ってるんでしょう!! いい歳した大人が自分のことも自分でできないで他人を頼るなんて!!」
 実の母親のくだらない見栄で、トイレにもいかないお嬢様に仕立て上げられてしまった少女は、足の付け根に懸命に指を食い込ませ、激しく腰をよじって、腿を擦り合わせている。
 しかも、部屋の半分は成人男性だ。その心中はいかばかりか。
 私とて、流石に見過ごせない。途中何度か、休憩を申し出てみようとした。しかしそのたびに女史の『結構です!!』『逃げるつもりなの!!』『私が諦めて帰るまで適当に相手してればいいと思ってるのね!!』と散々な言われよう。
 秋穂の様子がおかしいことを、遠まわしに指摘して、少し休憩をと言ってみても、『んまあ呆れた!! あなたまで秋穂ちゃんを馬鹿にするのね!? もう一体どうなってるの、この学校は!?』と今にも噛みつかれそうな勢いで迫られたため、あえなく断念せざるを得なかった。
 今まさに迫る、少女の危機をまるで無視して叫び続けるモンスター・ペアレントの罵声は、なお途切れることはなかった。
 (書き下ろし)

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