(トイレ、トイレ……っ)
氷川朋絵は慣れない制服、慣れない寮の廊下を早足で急ぐ。
転校生を出迎える、クラスメイト寮生総出での歓迎会は宴もたけなわ。アルコールこそなかったものの、差し入れのジュースやお菓子を食べすぎてしまったか、朋絵の下腹部、乙女の貯水タンクははやばやと満水の警告を訴えていた。
歓迎会の主役が途中で席を立つのは少々抵抗があったが、まさかあのまま我慢し続けるわけにもいかない。朋絵は目下、寮のトイレを目指して一直線だ。
(早く戻らなきゃ……。でも、お嬢様学校だって聞いてたけど、みんな優しかったし……これならすぐに仲良くなれるかな)
思わず、自然と口元に安堵の笑みが浮かぶ。
厳しい寮生活で、幼稚舎から大学までの一貫教育を行っている学院での生活に、自他共に認める庶民派の自分が馴染めるかどうか。口に出しこそしてないかったが、朋絵にはそれが大きな懸案だったのだ。
不安半分緊張半分で望んだ転校初日は、しかし朋絵の予想以上に穏やかなものだった。最初は緊張もしたもの、すぐにそれも採り越し苦労とわかり、今はすっかりクラスメイトとも打ち解けている。
格式と伝統を重んじる校風は確かにその通りだったが、理不尽なほどに厳しいというわけでもなく、寮暮らしの先輩達も快く朋絵を歓迎してくれた。
(でも、ちょっと不便なのがねえ……)
学院と同様、歴史のある寮には、各部屋にトイレ・洗面所が設けられてはおらず、それらは浴場込みで共同である。トイレの度に長い廊下を歩かねばならないのはそれなりに面倒なことでもあった。
「んっ……」
節制を保つ校風らしく廊下にも暖房はないため、11月の寒風に背筋を震わせて、朋絵は込み上げてきた尿意にそっと腰を揺する。
(……急ご……)
じん、と湧き上がるいけない感覚に、ぶる、と身体を揺すって。朋絵は縮みそうになる歩幅を早める。
ほどなくして、廊下の突き当たりにあるトイレの入り口が見えてきた。
「わ……」
3階建ての各階にひとつずつ、計3か所の寮生用のトイレの中には、すでに数名の先客がいた。他のクラスか、あるいは別学年の先輩たちだろう。寮での義務である体操服をしっかり着こなして、彼女達は4つある個室の前に、フォーク並びで一列に並んで、順番を待っている。
(うぇ……混んでるなあ……)
思ってもみなかった光景に、朋絵は思わず眉を寄せてしまう。
つい、まだ家に居る感覚でいたため、トイレに着いてからさらに待たねばならないという状況は想定していなかったのだ。
トイレまで辿り着き、ドアをくぐればすぐに用が足せるつもりでいたせいか、身体の方はそのつもりで準備を始めている。
(ぅ……)
予定を外されて、下腹部で尿意がむずがるように暴れる。
しかし流石に人目のある中でそうそうはしたない格好ができるわけもなく、朋絵は膝を寄せながら、おとなしく列の後ろに並んだ。
(……がまん、がまん……)
前に並んでいるのが4人と言うことは、個室が全部空いても朋絵の番は回ってこないということになる。一瞬、ほかのトイレに行くべきかと迷って、朋絵はすぐにそれを打ち消した。
寮長からは各階のトイレを使用するようにと事前に説明を受けていたし、他のトイレもこんな風に混んでいるのかもしれない。慌てて駆け回るよりも、大人しく順番を待つ方がましだろうと判断したのだ。
白いタイル張りのトイレの中は妙に寒々しく、朋絵の尿意はいっこうに和らぐ気配がない。少女は小さく踵を踏みならし、身体をわずかに揺すって、下腹部の切迫した事情を散らそうとする。
そんなそわそわとした様子の朋絵に、生徒の一人がちらりと視線を向けて、わずかに眉を潜める。その態度に、すこしだけ朋絵の心はささくれ立つ。
(……なによ、我慢できないんだから……しょうがないじゃない)
トイレの時くらいもう少し余裕があってもいいのに、などと考える朋絵をよそに、ゆっくりと列は進んでゆく。
ほどなくして3人目の少女が空いた個室に入り、朋絵の前には1人を残すのみとなった。
(ん……あと、ちょっと……)
心持ち前屈みとなってもじもじと腿を擦り合わせながら、朋絵は残る人数のカウントを続けていた。
もうすぐ順番が回ってくる。ほんの数分と経っていないはずだが、思わぬ我慢の延長戦に焦らされた下腹部は、部屋を出た時よりも随分と激しく尿意を訴えていた。
なにしろ、いい歳して我慢のしぐさを外に隠せないほどなのだ。開き直ったつもりでも朋絵だって年頃の乙女だ。恥ずかしくないわけがない。さっきから、すれ違う寮生たちの視線を感じ、朋絵も頬をわずかに赤くしていた。
(うー……恥ずかしいっ。今度はもっと早く来ないとだめだなぁ……)
こんなにはっきりトイレの我慢をしてしまうのは、もう何年振りだろうか。寮生活の課題をひとつ心に積み上げ、朋絵が反省をしているうち、またひとつ、個室が空く。
最後の一人となった朋絵の前の生徒が個室に入るのを見て、朋絵は大きく息を吐いて一歩、前に出た。いつの間にか行列は朋絵一人になり、ふさがった4つの個室を除けば、トイレの中には人影はない。
「うー……っ」
人目がなくなったのをいいことに、もじもじと揺れる腰がさらに大胆になり、足踏みも激しさを増す。上履きがきゅきゅっとタイルを踏み、スカートの前を押さえる手がはしたない部分にまで届いてしまう。
脚をすり合わせながら、朋絵は早く自分の番にならないかと、4つの個室のドアを見つめた。
……と。
(……あれ?)
ふいにおぼえた妙な感覚に、朋絵は首をかしげた。何かの勘違いのような、間違い探しのような、形にできない違和感が頭の隅にひっかかっている。
気のせい――というわけではない。それどころか、意識すればするほどますます引っかかりが強くなっていた。
非常に重要な、重大な見落としをしているような、喉の奥に秘密を抱え込んだような。振り払えない不可解なイメージに、朋絵は眉をよじる。
「えっと……」
思わず周りを見回すが、違和感の正体はつかめなかった。
思考を巡らせようにも、次第に切羽詰まる尿意のせいではっきりと思考がまとまらない。訳のわからない不安感に急きたてられ、妙な焦りが朋絵の緊張を高めてゆく。
(な、なんだろ……?)
実に落ち着かない気分で再度、朋絵がトイレの中を見回していた時。4つ並んだ個室の一番右から、用を済ませた少女が姿を見せる。
「あ」
呆気なく訪れた解放の機会に、朋絵は思わず声を上げていた。洗面台へと向かう少女とすれ違いながら、朋絵はいそいそとドアに飛びついて個室へと駆け込み、後ろ手に鍵を閉める。
(……まあいいや、トイレ済ませてから……)
「え」
しかし。そこで朋絵は身体を硬直させ、ぽかんと口を開けてその場に立ちつくしてしまっていた。
その、トイレの中には。
何も――なにも、なかったのだから。
そこには。女子トイレの個室であれば、本来、当然、当たり前のように無ければならないはずの、用をたすための設備が、なにひとつ。そこには存在していなかった。
――便器も、水を流すためのレバーも、後始末のためのトイレットペーパーも、身づくろいのための汚物入れすらも。
なにひとつ、個室の中には見当たらなかったのだ。
ただ、平坦なタイル張りの床だけが、個室の四方を区切る壁と、内開きのドアだけを残して、ただ無情に広がっている。
(……え?)
理解できない光景の中、朋絵は呆然と個室の中を見回し、数度瞬きを繰り返す。白昼夢でも(もう昼日中ではないけれど)見ているような気分だった。
しかし、狸に化かされているわけでもなく、夢でも無く。目の前の空間は、ただそれだけの小さなタイル張りの床として、朋絵の前から消えてくれない。
「あ、あれ?」
疑問を口にしながら、朋絵はもう一度、個室の中を見回した。
やはり何も変わらない、ただのスペース。ただの灰色のタイルの目地の中には、隅に排水溝すら見当たらない。ただただ、まっさらな1平方メートル強の小さな部屋を眺め、最初に朋絵が考えたことは、
(……入るとこ、間違えた?)
というものだった。
朋絵は恐る恐るドアを開け、そっと個室の外に出る。
無人のトイレの中には、いまだ誰の姿もなかった。自分の居た個室のドアを見るが、そこには何かの注意書きがあるでもない。そしてまた、朋絵の入った個室とは寸分たがわぬドアが三つ、隣に並んでいるばかりだ。
「え……っと」
さらに、さまよわせた視線の先には、どう見ても間違えそうにない壁の反対側に、『清掃用具入れ』とパネルを付けたドアがあり、小さく開いたその奥にデッキブラシやホースなどを収納しているのが見て取れる。
「……なに、これ?」
意味が分からず、朋絵はもう一度、自分の居た個室の中を覗く。
しかしやはりそこにあるには、白いタイルの平坦な床。トイレのためにしゃがみ込むことも、座ることもできない、ただの床があるだけだった。
いっそ間違いや勘違いであればよかっただろう。トイレトイレと焦って、つい個室と間違えて清掃用具入れに入ってしまったというのなら、恥を掻いたとは言えまあ、笑い話ですむ話だ。
だが、ここはいったい『どこ』だと言うのか。――この何もないドアで区切られただけのスペースが、いったい何なのか、朋絵にはまったくわからない。
(えっと、……? え? なに? これ、トイレ? ……な、ワケないよね……? え、でも……え? あれ?)
理解を超えた事態に、困惑する頭をぶるぶると振る。
そもそも、このドアから他の生徒が出てきたのを、朋絵ははっきりとその目で見ているのだ。ココがトイレではないとしたら、何のために彼女が中に入っていたのか、意味が分からない。
すっかり混乱している朋絵をよそに、朋絵の居た隣、右から2番目の個室のドアが開いた。
「……あ」
そこから出てきた少女は、戸惑うばかりの朋絵にかるく会釈すると、流しへ向かい、手早く身づくろいを終えてトイレから出てゆく。
朋絵は慌てて、いま少女が出てきたばかりの個室へと向かう。
(……、ま、まさか、ね……)
嫌な予感と共に、一呼吸を挟んでから。朋絵はそっとドアを押しあけた。
「…………嘘……」
するとそこには予想通り――と言うべきか。
決して当たっては欲しくなかった予感通り、そこもまたトイレの面影すらない、平坦な床があるだけのスペースだったのだ。
(ど、どういうこと……なの、これ?)
まったく意味が分からない。とうとう朋絵はトイレの入り口へと駆けもどり、そこの案内パネルを確認する。
するとどうだろう。そこにははっきりと、『女子トイレ』と記されているのだ。
どうみてもトイレであるはずの、部屋の、当たり前のようにトイレの構造をした部屋の中に、必然としてそうでなければならないはずのスペースに、けれど用を済ませるための設備が、ひとつもない。
訳が解らなかった。
キツネにつままれた気分で目を擦る朋絵を、せっつくように、忘れていた尿意が激しく押し寄せる。
「んぅ……っ」
きゅうっ、と出口に迫る恥ずかしい熱水の気配に、朋絵はたまらず腰をよじり、スカートの前から手を押さえこんでしまう。
「ぁ……ふ…ぅ……っ」
ぶるぶると内腿が震え、さらに増した尿意が少女の出口へとぶつかる。高まる水圧を押しとどめるため、股間をぎゅっと握りしめ、もじもじとつきだしたお尻を左右に振りながら、朋絵は高く足踏みを繰り返した。
(な、なんで? ここ、トイレでしょ…!? な、なんで何もないの……?!)
まったく、理解が及ばない事態に、朋絵はぐるぐると渦巻く思考に困惑する。
冷静に考えてみようとしても、波のように引いては返す激しい尿意のせいで、上手く思考がまとまらない。
まさか、本当に妖怪とかに化かされたのではとか、そんな怪談みたいな馬鹿げた想像まで脳裏をよぎる。
「ぁ、あっ……」
しかし、身体の方はそれを考慮してくれない。排泄孔のすぐそばまで押し寄せた熱い奔流が、じわ、とわずかに出口を押し開いて噴き出そうとする。
それを必死になって押さえている朋絵の前で、さらに3つ目の個室がドアを開けた。
今度もまた、同じように。中に入っていた少女は怪訝そうな顔で、もじもじと震えている朋絵を一瞥し、そのまますぐ傍を通り過ぎてゆく。
「あ……!!」
「…………?」
思わず上げた声に、少女が足を止めるが。朋絵はそれ以上声を上げることはできなかった。我慢が精一杯でそれどころではなかったのと、そもそも何を聞いていいのか分からなかったのだ。
――ここ、本当にトイレなの?
――どうやってオシッコすればいいの!?
あまりにも当たり前にここに出入りしている彼女達を見ていると、そんなことを聞いていいものかどうかも分からなくなってしまう。
まさか、庶民の自分にはわからないような、お嬢様なりのトイレの使い方があったりとか、転校生の自分には見えないトイレがあったりするんだろうか――?
すっかり不審な様子の朋絵をちらちらと見ながら、少女がトイレから出て行く。
そして朋絵はまたもや、一人トイレの中に取り残されていた。勿論すぐに3つ目の個室の中を確認する朋絵だが、やはり、そこも前の二つとそっくり同じように、何もない床があるばかりだった。
もう確実だ。
――まだもうひとり、空いていない個室の中も少女が居るはずだが、恐らくそこも同じなのではないかという想像は容易だった。
「こ、これ……えっと……っ、な、なんで……?」
そうして。ようやく朋絵は、さっきから覚えていた違和感の正体に気付く。
それは――トイレの中から一度も、水の流れる音がしなかったということだった。
女の子のトイレと言えば、まず一般的なマナーとして音消しがつきものだが、それどころかこのトイレではさっきからあれだけの少女が出入りし、利用しているのにもかかわらず、用を済ませた後に水を流す音すら一度もしていなかったのだ。
(そ。それって……それって……!!)
つまり。
本当に、ここでは、誰も――中に入ってきた誰も、トイレをしていないということの証明だ。至ったその結論に、朋絵は慌てて首を振る。
「そっ、そんなことあるわけ――くうぅっ!?」
激しい同様に、さらなる尿意が呼び起こされる。
もはや余裕を失い、少女の下腹部は今すぐにでもと排泄の許可を訴えている。しかし、朋絵はどうすることもできなかった。
目の前にはすでに3つの個室が空いているが、そのどれにもオシッコをするための設備がないのだ。それでオシッコができるわけがない。
朋絵の身体は、今すぐにでもオシッコを噴き出させようとしている。だというのに、いくら床の上にしゃがみこんで、下着を下ろしてスカートをたくしあげたくても、このままでは床の上をびちゃびちゃにおしっこで汚してしまうだけだろう。
そして少なくとも、これまでにトイレに入った少女達が、そんな事をしていた様子はないのだ。
(ど、どうしようっ……どう、なってるの、これ……っ!?)
訳のわからない事態に、朋絵の混乱は拡大の一途をたどる。まるで裸の王様だ。この寮には朋絵には見えないトイレがあるとでもいうのだろうか。夢かと思って頬をつねってみる朋絵だが、そこに走る痛みはまごうことなき現実のものだった。
そして下半身に押し寄せる女の子の切迫した事情は、そんな戸惑いすら許してくれない。
「あっ、あっああっ」
トイレを求める下半身は、辛抱しきれずに、とうとうじわあっ、とわずかな先走りを滲みださせてしまう。
押さえたスカートの奥、下着に広がる熱い感触に、朋絵は顔を赤くした。
(だ、だめええ……っ)
いい歳してついにおチビりまではじめてしまった股間を思い切り握り締め、朋絵はもう一度、トイレの中を見つめる。最後の一つとなった『使用中』の個室。あれが空けば、朋絵の前にはフリーになった4つのトイレが出迎えてくれることになる。
だが。仮にそうなったとしても、もはやあの奥にだけはきちんとしたトイレが――オシッコをするための設備が用意されているのだとは、とても思えなかった。
一縷の望みをかけて、我慢を続ける朋絵の前で。
がちゃり、と最後の個室が空く。
もちろん今回も、水を流す音はなかった。
3つも個室が空いているのに、突っ立ったままの朋絵はさぞ奇異に映っているのだろう。個室を出、洗面台に向かった少女は、首をかしげながら朋絵に声をかける。
「ねえ、空いたよ?」
「……あ、ぅ、……え、っと」
答えられずにいる朋絵に、彼女は『ヘンな子』と呟いて、背中を向けた。そのままトイレの出口から廊下へと向かおうとする。
立ち去ろうとした小さな背中に、朋絵はたまらず走り出していた。
「ま、っ、待ってっ!!」
「……なに?」
朋絵に呼び止められた少女は、さっきよりもさらに不信感を露わにして視線を返してきた。その気配に尿意の他にもぶるりと背中を震わせながら、朋絵はこくりと唾を飲み込んでしまう。
「あ、あの……」
「なあに? 急いでるんだけど」
もはや躊躇っている暇すらない。朋絵は覚悟を決めて、疑問を口にする。
「え、えっとっ、ここの、トイレのことなんだけど……」
「トイレ?」
少女はさらに視線の温度を下げ、不審げに眉をひそめる。今お前が出てきたのはどこなんだ――と言わんばかりの表情だった。
「トイレがどうかしたの?」
「あ、あの……こ、ここのトイレって、みんな“こんな”なの……っ?!」
もはや後戻りできず、質問を絞り出す朋絵に。
少女は、――はあ? と不機嫌そうに眉を動かした。
「……何言ってんだか分かんないんだけど」
「だ、だからっ……、こ、ここ……」
「ああ。他にもあるけど。1階と3階にも」
「そ、そうじゃなくて……」
まるで会話が噛み合わない。薄々予感はしていたことではあったが、実際にその事実を目の前に突きつけられて、朋絵の思考はますます混乱の度合いを深めてゆく。
「だからなによ? ……あのさ。はっきり言ってくれないと分かんないんだけど」
「っ……だ、だって、トイレって……ないじゃないっ」
「はあ?」
本格的に、朋絵のことを馬鹿にしたような表情で。少女は口元を歪める。
はっきりと侮蔑の感情――頭の可哀想な子だと見下すような視線で、少女は口早に先を続ける。関わり合いになりたくないと言わんばかりに。
「あのさ、良く分かんないけどそれ、私に聞かなきゃいけないこと? ……あなた2年でしょ。ルームメイトに聞けば? じゃあね」
「っ、あ、あの、待って――」
追いかけようとした朋絵だが、もはや少女には取り合う気はないようだった。
トイレがない――明らかに異常であるはずのその事実が、訴えても聞いてすら貰えない。
(お、おかしいわよっ、だ、だって……だってぇ……っ)
オシッコができないのに。皆、ここに並んでいた子たちは、朋絵と同じように、トイレを使えていなかったはずなのに。
取り残された朋絵は、もう一度だけトイレの入り口に視線を戻し……それから、よろよろと覚束ない足取りで、廊下を元来た道へと歩き始めた。
「あ、朋絵ちゃんお帰り」
「トイレ混んでたー?」
長い廊下を歩ききり、ようやく歓迎会の開かれていた部屋まで戻った朋絵は、ふらふらと青い顔をしたまま輪の中へ迎え入れられる。クラスメイト達は皆にこやかで、トイレを済ませてこれなかったのだとは、誰も考えていなさそうな様子だった。
「ね、ねえっ……」
テーブルに、机に、ベッドに。思い思いに座るクラスメイトの中。自分の位置に戻った朋絵は、隣の裕美にそっと耳打ちする。
「ん? どうかしたの? なんか飲む?」
「ぅ、ううんっ。ち、違くてっ」
もう何も飲める気がしない。少しでも水分を採ったら、その分がすぐに下から出てきてしまいそうだ。ぱんぱんの膀胱をさすりながら、朋絵は慌てて首を振った。
「? なんか、顔青いけど……」
「あ、あのね……そ、その、こ、ここのトイレなんだけど……」
「? なに? だって朋絵ちゃん、行ってきたんじゃないの?」
「そ、そうなんだけど……っ」
裕美はきょとんとしたように瞬きをする。お芝居や嘘の様子は無く、まったく朋絵の言っていることが不思議だというように。
「あ、見つけられなかったの? 普通に廊下の突き当たりにあるけど……」
「んぁっ……ち、違くてっ」
不意に押し寄せてきた尿意の波。ぴくんと下腹部を伝播する感覚に思わずぎゅうっと身をよじりながら、朋絵は首を振り、早口にまくしたてた。
「そ、そうじゃなくてっ、こ、ここのトイレって、その、どうすれば……」
あの。床板だけのトイレで、いったいどうすればいいのか。あやふやで伝わりにくいその質問はまさに、朋絵の混乱そのままを表していた。
「どうすればって……普通だよ?」
裕美のその反応は、やはりトイレに居た少女と同じものだった。あれを、あの何もないトイレを、裕美も普通だという。今日一日、転校して来たばかりの朋絵の世話を焼いてくれた裕美ですら、そんな事を言う。
まさか、違うものが見えているのは朋絵だけだというのだろうか? しかしそんな不条理あり得るはずがない。寮の全員が話を合わせて、朋絵をからかっているとでも考えた方がまだ筋は通るだろう。
あるいは――イジメ、とか。
(んぁ……っ)
辛い下腹部を懸命にさすり、正座の太腿をもじもじと擦り合わせながら、朋絵は小さく身悶えする。
しかし、そもそも現実問題として、トイレのはずの場所、皆がオシッコのために並んで入って行った個室の中に、何もないことを、朋絵は確認してしまっているのだ。だからこそ、それらの想像は全て、あり得ない。
「こ、ここ、トイレ……その、ないよね?」
「……何言ってるの?」
意を決して口にした朋絵に、しかしきょとんと裕美は瞬きをするばかり。
「え? ……なに、ギャグかなにか?」
「だ、だって……、個室の中、なんにも……なかった、のに」
「……えっと…………」
裕美は困惑に言葉に詰まり、眉をハの字に寄せる。そんな裕美には、朋絵を騙している気配など微塵も感じられない。不自然さのかけらも見つけることはできず、もしこれが嘘なのだとしたら、裕美もさっきのトイレに居た子たちも、揃って天才的な演技力の持ち主であろう。
「お手洗い、出来なかったの? ひょっとして朋絵ちゃんって、……和式とか使えない?」
「っ……!!」
和式? 朋絵は思わず叫びそうになる。
そんなものありもしなかった。
4つの個室を隅から隅まで確かめて、腰を下ろす便座など、跨ぐ便器などひとつもないことを確認している。あれが全部幻だったとでもいうのだろうか?
それとも。寮の中のトイレは、朋絵の知らない特別な使い方でもあるというのだろうか? 世間ではそれが当たり前で、和式というのも全然別のトイレのことを指していて、朋絵がそれを知らないだけとでもいうのだろうか?
(な、なんなの、これ? わ、私がおかしいの? ち、違うよね?)
朋絵の知る限り、女の子のトイレというのは、洋式と和式のどちらか――下着を下ろし、スカートを脱いで、しゃがみ込んで便器にまたがるか、便座に腰をおろして済ませるものだ。男の子の方には別の、立ったままするやりかたがあることも知ってはいるが、だからと言って、個室の中に何も、オシッコをするための装置がないことなんてありえないはずだった。
けれど、この寮の中ではそれが普通であるらしい。最後の望みだったクラスメイトにまで答えられてしまい、もはや朋絵に縋りつく相手は残されていなかった。
(う、嘘、こんなの嘘だよっ……。だ、だって、だって……っ)
みんなはオシッコしたくならないの?
みんなはトイレに行かないの?
「ヘンな朋絵ちゃん……」
結局、裕美は朋絵の質問を、何かの冗談だと解釈したらしい。そのまま皆のお喋りの輪の中に戻ってゆく。
(あ、あっ、あ……)
尿意と共に溢れそうになる混乱が、ぐるぐると思考の中で渦を巻く。しばらく怪訝な顔をしていた裕美だが、ふたたびお喋りの輪の中に戻ってゆく。その時、さりげなく、わずかに朋絵との間に距離を取ったのを、朋絵は見逃さなかった。
(へ、へんな子だって、思われちゃったの……?! 今の、で? ……そんな、だって、おかしいのって、みんなの方じゃないの? ど、どうやってあんな所でオシッコするの……!?)
あんなトイレ、朋絵の常識には絶対にありえない。精々思いつくのは、例えば検尿カップみたいなものを持ちこんで、それに済ませてからどこかで処理するとか。あるいは、オムツみたいなものを使うとか。それくらいが関の山だ。
仮に、もしも、万が一。年頃の女の子が使うには余りにも抵抗のある、そんな無茶苦茶なシステムなのだとしても。その痕跡すら、あのトイレには見当たらなかったのだ。
(……なんなの、よ……っ)
もし。このまま、この寮のトイレの使い方が分からないのだと、正直に白状したとして。
皆が、『え? 普通だよ?』と、答えられてしまったら。
そのあと、どうすればいいというのだろうか。一緒に個室に入って、どういうふうにオシッコをするのか教えて欲しいとでも言えばいいのか? 目の前で、オシッコして見せてとでも? 二年生にもなって?
――そんなこと、できるわけがない。
「あ、あっあっ」
混乱と共に押し寄せる尿意の波は、ますます激しく、朋絵の防波堤を突き崩そうと高くうねりを上げる。
(ど、どうしようっ、トイレ、トイレ、トイレぇ……っ、オシッコ、オシッコ出ちゃう、オシッコ我慢できなくなっちゃう……っ!!)
寮のトイレは使えない――それだけは間違いなく、確固たる事実だった。
朋絵はもじもじを腰をクネらせながら、必死に考えを巡らせる。
……他のトイレなら使えるのだろうか? 1階や3階や、あるいは事務員さんとか、職員用のトイレなら? それとも、もう一度誰かにトイレの使い方を聞いてみる?
でも、もしそこで、『何言ってんの?』みたいに返されたら?
「……そ、そうだ、が、学校っ……!!」
追い詰められた朋絵は、咄嗟にそのことを思い出して腰を上げた。
そう、今日、転校してきたばかりの校舎――これから通うことになった学校には、ちゃんと、普通のトイレがあったのだ。朋絵は昼間のうちにそこを何回も使っているし、間違いなく、寮のトイレとは違って、ごくごく普通の、当たり前のトイレだった。
あそこなら普通にオシッコできる。――救いの糸が朋絵の目の前をよぎった。
「え? 学校?」
「う、うん……、そ、そのっ」
今から学校に行くなんて、かなりの不自然さがある。懸命に腰を揺らしながら、なんとか言い訳を探す朋絵。
しかし、皆はああ、と頷いて首を小さく横に振る。
「忘れものか何か? ……でもダメだよ? もう6時過ぎてる。門限厳しいんだから」
「そだね、明日取りに行くしかないかも。宿題なら見せてあげるからさ」
「えっ、えええっ!? そ、そんなっ……」
「そんなーって言われても、規則だから。しょうがないよ。言っとくけど破ったら罰もあるんだよ? ルームメイトも連帯責任とか取らされちゃうし。本人もみつかったら停学なんだから」
「厳しいけど、しょうがないよねー」
切羽詰まった悲鳴を上げてしまう朋絵に、優しく諭すように。無慈悲なまでの現実が救いの道を断ち切ってゆく。まるで朋絵一人を包囲するように。
この寮では8時を過ぎると玄関は施錠され、事務室を通らないと外に出ることはできない。チェックは厳重を極め、事前の許可がなければドアをくぐることすら許されず、厳しく理由を問いただされるという。
つまり。朋絵は学校のトイレどころか、寮の外へ出て、近くの茂みでオシッコをすることすら禁止されてしまっているのだ。
(あ、あっあ……っ)
最後の最後のはずの手段、女の子にとって禁忌中の禁忌である、野外排泄という禁断の手段すら封じられて。
間近に迫ったタイムリミットの前に、朋絵はただ、困惑の中、腰をゆすり、懸命に脚の付け根を握り締めるばかりだった。
「あ、っあ、あっあ……っ」
トイレがない。トイレと言われている場所では、朋絵はオシッコができない。
……それならば他の場所でオシッコをするしかないが、寮の建物からは一切出ることができない。
そして、寮の中にはトイレがない。
見事な三段論法で、もはや朋絵の逃げ道はどこにも残っていない。こっそりオシッコをすることすら許されないという、完璧な八方塞がりだ。
(ど、どうしようっ、どうしようっ……!!)
トイレの個室の中は排水溝すらないタイル張りなため、勿論そこに済ませるというわけにもいかなかった。個室の外には排水溝の蓋があったが、まさかあんなトコロでしゃがみ込んでオシッコをできるとでも?
あと、濡らしてもいい場所と言えば精々、洗面台かお風呂場くらいだが――
(でっ、できるわけ、ないよぉ………っ!! み、皆も一緒に入ってるのにっ……!!)
しつけは厳しかった朋絵は、お風呂でのオシッコなど一度も経験がない。
しかも、お風呂の利用方法だって厳しく時間が定められている。一人きりでならともかくも、これから学校だけではなく、三食の食事に寝ている間、生活までも共にするクラスメイト達が一緒にいて、身体を洗い、湯船につかるすぐその隣で――オシッコをする? 溜まりに溜まったおしっこを、全部、ありったけ、排水溝の上で?
(うぁ、あっああ、あ……)
寮という密室の中、もはや逃げ場を失った朋絵の、おなかのなか。
際限なく詰め込まれてゆく黄色の熱湯が、出口のない膀胱の中をぱんぱんに膨らませてゆく。遺された最後の二択は、オモラシか、おねしょか――あるいは、朝まで我慢する。そのどれかなのだ。
(初出:書き下ろし)
寮の中にトイレがない
