そして――再び、競技場であるグラウンドから、少し離れた河川敷へと目を向ければ、そこにもまた、およそ常軌を逸した光景が広がっていた。
グラウンドから歩いて5分ほどの、小さな茂み。
そこは背の高い草の生え揃ったコンクリートのたたき――覚えておいでだろうか、数時間前に孝乃がみつけた、『おトイレ難民』の女の子専用の緊急避難用・臨時仮設屋外トイレである。
そこにはいまや、10人を超える少女達が列を作って並んでいた。
――なんということだろうか。本来、トイレでも何でもないはずの、ただの河川敷の茂みにすら、そこで用足しの順番を待つ少女達の列ができてしまっているのだ。
しかし、そこは背の高い草むらが周囲を囲っているとはいえ、十人を超える少女が次々に出入りするにはあまりにも不自然な場所だ。河川敷に生える茂みはすっかり踏み荒らされ続け、羞恥を堪え排泄する少女達の下半身、最も大切な部分こそ周りの視線から覆い隠しはしてくれるものの、彼女たちの姿を完全に覆い隠すにはとても足りていない。肝心のしゃがみ込んだ少女達の胸から上は丸見えなのである。
――つまり、かなり距離の離れた堤防の上からでさえ、草むらの中で少女達が群れるようにして不自然にしゃがみ込んでいるのは丸見えなのだ。
いくら背中を丸めても、茂みの中に隠れることはもはや不可能。
少女達が脚の付け根の『おんなのこ』の場所からから堪えに堪えた恥水を迸らせているその瞬間の、安堵と解放、羞恥と屈辱の入り混じった至福の表情を窺うことは、その気になれさえすれば容易であった。
草むらの外で、体操服の股間に手を添え、太腿を激しく擦り合わせ、腰をよじり、ばたばたたと足踏みを繰り返して順番待ちをする少女達の行列も。
茂みに身を隠してオシッコを済ませる数多くの少女達が噴きこぼしたオシッコが混じり合う、強く篭った独特の匂いも。
限界を超えて溢れだす猛烈な勢いのおしっこが、コンクリートの地面を激しく叩き飛び散る様子や、草むらの剥き出しの地面の土を抉り、じゅぶじゅぶと泥混じりに泡立ったぬかるみを広げてゆく一部始終も。
耐えに耐え続けた色の濃い恥水が、草叢めがけて激しく噴射され、猛烈な水圧で細い茂みを薙ぎ倒してしまう音すらも。
その気になりさえすれば、誰をはばかることなく目にすることができた。
当たり前のことだ。ここには、そもそも女の子がオシッコをするための設備などなにひとつ備えられていない。ただの野原の茂みなのだ。きちんとした衝立も、オシッコを流し込む便器なども当然ない。
トイレでもなんでもない、ただの河川敷の草叢にすら、おしっこをする順番待ちの少女達が先を争って並ぶという、あまりにも非現実的な光景。
しかし、そんな屋外のただの茂みが、絶対的なトイレの不足と、長い長い放浪に苦しむ『おトイレ難民』の少女達にとって、耐え難く永劫と思える苦痛からの解放を与えてくれる楽園なのだった。
――もう、我慢できない。
――トイレが混んでて、入れない。
――ここなら、みんなしていたから。
だから、ここが『お手洗い』。
本当は文字通り、手を洗うこともできないこの場所を、けれど少女達は敢えてそう呼んでいた。
どうしても我慢できず、さりとてオモラシなんてできるはずもなく――そんな少女達が、切羽詰まった限界の中で極限状態の行動に出るには、些細なことであれ、建前が、正当化のための理由が必要だったのだ。
そして切羽詰まった集団心理は少女達の中に徐々に、しかし確実に広がっていった。
ひとり、ふたりとここを訪れ、オシッコを済ませる少女達は少しずつ、少しずつその数を増やし、ついにはここを事務棟横、仮設トイレに続き、第三の『お手洗い』として定着させてしまったのだ。
おおよそ、トイレとは呼べない、女の子がオシッコをするにはあまりにも相応しくないこの場所。けれど、彼女達にはこの『お手洗い』を使う利点があった。
何より大切で、大事で、重要な事。
ほとんど順番待ちの必要がないということだ。
なにしろ、ここは元々ただの草むら。正確な人数制限なんてものがあるわけがない。
正式なトイレであれば、たとえどんなことがあったとしても、個室の数――便器の数以上の少女が同時にオシッコを済ませることはできない。が、ここはそもそも、ただの屋外、野原の茂みでしかないなのだ。人数が増えたら詰めることもできたし、まだ誰も“して”いない地面を選んでしゃがみ込んでしまっても、誰も咎めることはない。
ここにいる少女達は硬く張りつめた下腹部を握り締め、みんな同じ苦しみを共有している。本当の本当に限界なら、もう絶対に我慢できないのなら。
もうなにも気にせず、そこらでオシッコを始めてしまったとしても、誰もそれに文句などいうはずもない。
だからこそ、ここは聖地だった。
だれも我慢せず、辿り着きさえすればすぐにオシッコを始めることができる――人一倍繊細な年代の、思春期の少女達が羞恥心をかなぐり捨て、倫理を放り投げて、オシッコを始めるために必要なそのための大義名分も、理由も、状況も、全てが揃っていた。
この『聖地』たる茂みへは、いまやぽつりぽつりと少女たちの姿が続く『巡礼』の道ができていた。
決して少なくない少女達が、グラウンドから、この茂みへと向かうようになっている。行く道は、前屈みの重い足取りで、荒い息をつきながらの険しい苦難の道。
帰途は、尿意から解放された天国と至福――あるいは、トイレでない場所で用を足してしまったことへの烙印を押され、罪に俯き、顔も赤く恥いる道。
グラウンドの西に生まれたその『聖地』の噂は、徐々に少女達の間に広まり始めていた。
西に向かえばオシッコできる――人から人を経るうちに詳細のぼやけ、漠然としたものとなった言葉は、しかしその分だけ甘美に少女達を誘惑する。常識では、グラウンドには二か所しかトイレがないと分かっているはずの、運営委員側の少女達の中にもそれを真に受け、持ち場を離れて西へ旅立つものが現れる始末だった。
少女達の苦難の巡礼の旅は続くのである。
そんな『聖地』への道の途上、美紀はただひたすらに、困惑をしていた。
(な、なんなのよ、これっ……)
茂みの前にできた10人ばかりの列――茂みでオシッコをするために順番待ちをするという、本来ならば本末転倒な光景である。
もじもじと激しく身を揺すり、腰をよじって、脚を踏み鳴らし。
美紀は真っ赤になった顔を懸命に伏せ、周囲に内心を悟られまいと必死だった。
(なんで、なんでこんなことになっちゃったのよっ……!! みんなこんなに……ここ、お外なのに、こんなにたくさん……オシッコ、しにきてるなんて――!!
お外なのに、トイレじゃ、ないのに……っ、順番待ちなんて、ヘンよぉ……っ!! ぜ、絶対、おかしいよぉっ…!!)
困惑を表に出すこともできず、美紀は懸命に歯を食いしばって、怒涛のような尿意に耐え続ける。
そんな彼女の前で、また一人順番待ちの列が進む。こぽこぽと下腹部に湧き上がる羞恥の泉を、あどけない股間部分の排泄孔からほとばしらせ、地面を汚してゆく。言い訳にするにはあまりにも脆弱な、野外の臨時仮設トイレ。オシッコの水たまりには次々と新しい飛沫が注がれ、その大きさを増してゆく。
「いやぁあ……っ」
叫び、違うと首を振りたくなるのをこらえ、美紀は唇をきつく噛んだ。
(どうして、こんな……っ、やだ、やだ、よぉ……っ)
『聖地』の存在がひっそりと、しかし多くの少女達に知られるようになるにつれ、少しずつではあるものの、その巡礼への旅も性格を変え始めていた。
周りの事も顧みず、辿り着くなりいきなり、見境なくその場でオシッコを始める少女達を、疎ましく思うような空気が生まれ始めていたのである。
その空気は、最初にこの『聖地』でオシッコをした女の子――『始まりの乙女』を崇拝するように、この野外排泄場所の在り方を変えていった。
ここに居る以上、きちんとトイレに行けもせずに、野原でオシッコをしてしまう恥ずかしい女の子だという事に変わりはない。
ドングリの背比べであるにもかかわらず、彼女達の中には『最初』の場所、一番最初に使われ始めた茂みの中以外でオシッコをするのは『正しくない』のだ、という、妙な空気が生まれていたのである。
多くの歴史を紐解くまでもなく、特定の習慣を持つあるコミュニティが成長を続けてゆくと生まれる、原理主義のようなものだ。
そんな複雑な雰囲気も、美紀にとっては針の筵。自身を苛む拷問にも等しい。
「…………っ」
何を隠そう、美紀はこのコンクリートの茂みで、一番最初におしっこをした少女である。
――そう。彼女こそ、この『聖地』を崇める少女達の中にあって、その崇拝の対象となるべき『始まりの乙女』なのだった。
もう4時間近くも前の事だ。寝坊と夜更かしが原因で昨晩からトイレに行きそびれていた美紀は、運動会の開会式からすでに切羽詰まった状態にあった。
開会挨拶の間も、もじもじと身体を揺すり続けで、周りの参加選手から不審げに思われながらどうにか乗り切ったくらいだ。
すでに仮設トイレにも事務棟横のトイレにも行列ができており、その順番待ちをする余裕がなかった。せめて人目につかないところを、とグラウンドから思い切り離れた場所を選んで、こっそりとオシッコを済ませることにした。
生涯最初の野外排泄。
けれど、それがきっかけとなって、この茂みはいまや、美紀と同じように限界のトイレ不足に苦しみ極限のオシッコ我慢を続ける少女達の心の支え、憧れの場所とも言うべき小さな聖地となっているのである。
(な、なんなのよぉ、これっ……)
しかし彼女は脚の付け根を握り締め、腰をくねらせる少女達の中にあって、讃えられることなく、ひたすらに己の罪に恥いっている。
尿意に耐えかね『イケナイこと』をしてしまったはずの自分の行為が、知らず、多くの賛同者を生み、いつしかひとつの潮流となっている。それは美紀にとってあり得ないほどの羞恥だった。
この『聖地』――古びたコンクリートのたたきを濡らすオシッコは、全て美紀のオシッコにも等しいのである。
「はぁああ……っ」
草むらの向こうから、強烈な放水が地面を叩き、同時に安堵と開放感に満ちた少女の声が聞こえてくる。
噴きこぼれる羞恥の水流の音に、美紀はとうとう耐えきれず、耳を塞いでしまう。
この、トイレでもなんでもない草むらを汚すオシッコのすべては、美紀がその発端、原因であった。このコンクリートのたたきでオシッコを済ませたのは、イケナイことで、恥ずかしいことで、女の子としてはありえないことで。絶対に、誰にも秘密のことだったのに。
(や、だ、いや、いやぁあ……っ
幾重にも重なる放水音。少女達の排泄。
誰も知ることのない中、その身に、草むらを利用する少女達の罪を、羞恥を背負い。
一人の救世主となった美紀の姿に、気付く者はいない。
そして、その極限の羞恥に耐えかねて。二度目のオシッコをこの草むらで済ませることもできずに。ふらふらと草むらに続く列を離れてゆく彼女を、だれも見送ることはなかった。
(初出:書き下ろし)