御令嬢我慢のバリエーション。
街中を、曇り一つない黒い車体を輝かせ、高級そうな送迎車が行く。
ほとんどエンジン音も響かせない車内の後部座席には、一人の少女の姿があった。
冬の穏やかな日差しにも美しく輝く深い黒髪は、絹を紡いだように乱れなく、すべらかな肌は処女雪のように無垢で。触れただけで溶けてしまいそうに淡い桜色の唇は、我を忘れてそこに触れてしまいたくなるほど。
少女はひとめ見ただけで忘れようのない美しさを備えていた。
そしてその美しさは外見だけに及ばない。行儀よく並ぶ膝は、革張りのシートの上に慎ましやかに揃えられ、重ねた手のひらがその上に乗せられている。伸ばされた背筋もぴんと芯が通っているようにまっすぐで、わずかな気の緩みも見えない。
真新しい制服は、この春から通うことになった進学校のもの。御仕着せの制服でさえ、少女が纏えば神々しく光に包まれているかのようだ。
少女の名は橘霧香。政財界には名の知れた橘家のご令嬢であった。
戦後の混乱期でその勢力を大きく弱めたものの、いまだに旧橘財閥の名は広く知られ、その影響力は計り知れない。そんな名家の一人娘である霧香が、都内有数の進学校とはいえ、私立の学校に通うことになったというのは、一部ではかなりの驚きをもって迎えられた。
橘家のご令嬢ともなれば、進学先と言えどもそれ相応の品格を持つ学院であるというのが普通のことだからだ。場合によっては海外の学校への留学もありうる。
だが、一般の学舎への進学は霧香の強い希望によるものだった。いまの時代、前時代的な橘家令嬢としての特別扱いを嫌うゆえの行動であり、その為に霧香の父はあちこちを奔走し、説得を試みたのだが――最終的には霧香の強情さに折れたという結果となる。
最初、霧香は電車通学を希望していたのだが――それだけはやめてくれ、と父に懇願され、運転手による送迎ということになったのだった。
狭い道をほとんど振動もなく進む送迎車の後部座席。シートベルトを着けた霧香の表情は、しかしどこか硬いものを含ませている。
ハンドルを握る運転手は、わずかに視線をあげ、ミラー越しに霧香を見る。
「あと5分ほどで到着いたします」
「……そうですか」
運転手の言葉にも、霧香はわずかに表情を強張らせ、小さく頷くのみだった。
その表情が硬いことに気付きつつも、運転手はフロントガラスへと視線を戻し、黙って車を走らせる。
年に不似合いな落ち着きを見せてはいても、まだあどけない少女なのである。慣れない体験に緊張しているのだろうと、そう考えたのだ。
この時、この場に居合わせたのは彼だけで、最後に霧香と言葉を交わした使用人も彼であった。それゆえに、この時彼が気を利かせていれば、これから起こる悲劇も回避することは容易だったろう。
だが、それを理由にこの初老の運転手を責めることはできまい。
不意の事態にも対応できるよう、心を砕くことが一流の使用人の務めであるとはいえ、なにもかも予想して行動できる人間など居る筈もない。
まして、彼にとってはあまりに予想外だった。
まさかこの時。橘家のご令嬢が、既にもうどうしようもないくらいに猛烈に、トイレを催してしまっていたなどということは――
来賓室の調度は丁寧に整えられていて、霧香の目にも品良く映るものだった。
学院に到着するなり大勢の教員に出迎えられて面食らったまま、まるで召使いにかしづかれる姫君のような対応で来賓室に通されてはや10分。
すぐにやってくると言っていた理事長はいまだ、姿を見せなかった。
テーブルの上には上等なティーセットで紅茶が湯気を立て、半分ほど中身の減ったティーカップが置かれている。
今日は休日と言うこともあり、窓の外の校庭には人影もなく、野球のフェンスが風になびいているばかりだ。
「っ…………」
辺りにも人気はなく、部屋唯一の出入り口である樫のドアは重く閉ざされたままである。来賓室の中に一人、じっとソファに腰を下ろし。
霧香は、耐えがたいほどの尿意と戦っていた。
「……っ、は…ぁ……っ」
あどけなさを残す整った顔立ちは困惑に歪み、荒い吐息が形の良い唇を震わせる。
無駄な装飾もなく整えられた爪をもつ小さな手のひらは、紺の制服に包まれた細い腰の上、脚の付け根に近い下腹部にぴったりあてがわれていた。
革靴のかかとを持ち上げ、爪先だけを揃えて絨毯の上に下ろし。浮かせ気味の腰を揺らしてはきしきしと椅子を軋ませて。
はしたなくも片方の手を脚の付け根へと重ね、せわしなくそこをさする姿は、深窓のご令嬢がいままさに、恥ずかしい欲求に屈せんばかりの瀬戸際にあることを知らせていた。
「っ、ふぅ……、っ」
ぴくん、と汗のうっすらと滲むうなじを震わせ、霧香はもう一方の指先を口元へ寄せた。
こぼれそうになる喘ぎ声を堪えるため、曲げた小指にそっと歯を立てて、己のうちから湧き上がる衝動に必死に耐え続ける。
きつく足の付け根と押し当てられる手が、プリーツのスカートを脚の間に巻き込むようにして皺を寄せているものだから、小刻みにせわしなく擦り合わされる太腿の動きまでもが手に取るように見て取れる。
「ん、ぁ……っ」
プリーツスカートを握り締めた白い指先が小さく震え、はしたなくも脚を隠す布地を絞り上げるような皺をつくる。休むことなく擦り合わされる内腿は、上等なソファをなおギシギシと軋ませるほどだ。
ひとけのない来賓室の中、深層のご令嬢の催した尿意はますます猛烈なものへと激しさを増ず。美しき少女は、必死に息を詰めながら、身体をよじって込み上げてくるはしたない衝動に抗い続けていた。
「あっ、あ……っ……ふぁ……ぁあっ」
桜色の唇が小さく開閉し、甘く切ない吐息を繰り返す。
ぎゅっ、ぎゅっ、と細い腕が撫でつける手のひらの下では、石のようにぱんぱんに張り詰めた下腹部が、硬く指先を押し返す。
押さえこんだ足の付け根、一番脆い部分をびりびりとむず痒い痺れが刺激し、乙女の秘密の出口はわずかな油断を突いて大きく緩みそうになる。
(……だ、だめ……お、お手洗いぃ……っ)
来訪途中の送迎車の中で、すでに限界に近かった尿意は、時間の経過とともに大きく膨らみ、いまやあどけないご令嬢の身体を余すところなく支配していた。
「んぅ、……くぅぅ……ぁっ……」
(だ、だめぇ……っ。あ、あっ、こんな……っ……お、お手洗い……お手洗い……っ!!)
たとえ天上の美しさを備えた可憐な乙女であろうとも、一日に数度の“ご不浄”を済ませないわけにはいかない。身体の内側に膨らむ下品極まりない衝動に身をよじるように耐えながら、霧香は『おトイレ』を欲していた。
どうして先に用を済ませなかったのかと問われれば、不運なめぐり合わせと、とてもそんな事を切り出せる雰囲気ではなかったからだとしか言いようがない。霧香とて年頃の少女であり、年上の男性に囲まれる中でお手洗いを申し出るのは口にし辛いことだった。
様々な偶然の積み重なりで、なんと霧香は今朝から一度もお手洗いに行っていない。昨夜から済ませることができていない排泄欲求が、もはや限界だと下腹部で激しく暴れ回る。
もはや猶予は残されておらず、一刻も早く、排泄を許された場所へと駆け込まねばならない状況なのだが――
(あ、あっ……だめえ……っ!!)
仮に部屋を抜け出してお手洗いに立ったとして、その間に理事長がやって来てしまったらどうするのか。
進学を決めるにあたって、父がこの学院にあれこれと無理を言ったことは、霧香にも理解できていた。そんな霧香を快く迎え入れてくれた、言わば恩人でもある学院の理事長を放り出して、先にお手洗いを優先させる訳にはいかないのである。まかり間違えば、学院を出かけ先のお手洗いにしたとも取られかねないのだ。
霧香の常識に照らし合わせてみれば、お手洗いを借りることが許されるのは精々が来訪の予定がすべて終了した帰り際である。訪ねて行った早々にトイレに駆け込むなど、はしたないを通り越して言語道断だ。滞在が長時間にわたる場合であれば、一段落したところで申し出ることも不可能ではないかもしれないが――それにしても失礼にあたることに変わりはない。
一般大衆とは少々かけ離れた社会通念に、幼い頃から触れて育ってきた名家の令嬢にしてみれば、そんな己の育ちへの矜持もあったのかもしれない。
かち、かち、と柱時計が振り子を刻む中、霧香は半分意地にになって我慢を続けているのだった。
だが、遅い。
霧香の来訪を歓迎していたはずの理事長が来賓室を訪れる気配はいまだない。
誰も居ないのをいいことに、そわそわと落ち着きない様子を隠すこともせずに、霧香は何度もドアの方を伺う。これだけでも十分なマナー違反だが、幼い頃から繰り返し躾けられた礼儀作法を忘れてしまうほどに、霧香の我慢は切羽詰まっているのだった。
さほど広くはない来賓室はしかし、作りつけの窓に重い樫のドアと、柔らかなソファに壁紙に至るまで調度を統一し、美しい調和を保っている。床に敷かれた絨毯は、霧香も知らない見事な飾り織りで、部屋の彩りを増していた。
しかし、退屈な時間をくつろいで過ごすための工夫が随所になされた一室は、いまや霧香とって牢獄に等しい空間である。
「あっ……ああっ……」
身体の内側で渦を巻き荒れ狂う恥ずかしい熱湯は、制服の下腹部をパンパンに張りつめさせ、ぐらぐらと下品な欲求を湧きたたせる。
堪えようとしてもどうしても抑えきれず、小刻みに揺れ動く腰の上、石のように硬く張り詰めた下腹部には、少女の身体が長時間かけて作り出した恥ずかしい水が、今にも溢れんばかりになみなみと湛えられていた。
(お、お手洗い……っ)
今すぐにでも、トイレに駆け込んで熱い本流を思い切り身体の外へとほとばしらせてしまいたい。慎み深い令嬢にあるまじき想像が、霧香の脳裏をかすめる。
あまりにも恥ずかしく、はしたない想像に、少女の白い頬がすうと赤くなってゆく。
しかし、幼い頃から厳格な躾を受けて育った深窓の令嬢をして、いよいよ高まる尿意はなお耐えがたく、紺の制服に包まれた細い肢体にはさらに強く、激しく、身体の内側で膨らみ続ける圧力が圧し掛かる。
(ま、まだなのかしら……)
本来、迎えてくれる側の理事長を急かすようなまねはしてはならない。無論相手側の不作法もないわけではないが、それを表だって責めるようなことは、自信の品格にも関わることだ。
こうして尿意に苦しめられているのは、あくまで霧香の都合であり、どんな理由があれど訪問前にお手洗いを済ませていなかった霧香の自業自得なのである。
しかし、耐えがたいほどの尿意に晒され続け、霧香は、いまだ訪れる気配すらない理事長に対し、自分の立場も忘れて苛立ちを覚え始めていた。
(だ、だめ……こ、このままじゃ、本当に……)
後に続く言葉を飲み込んで、切羽詰まった表情をみせ、霧香は何度も室内を見回す。なんでもいいから、何か頼れるものが欲しかった。
最初この部屋に案内された時、霧香は名家のご令嬢らしい思い込みで、来賓室というくらいだからご不浄が備え付けられているのではないかと期待していたのだが――勿論、市井の学校にそんな特例があるはずもない。
それどころか来賓室の中には余計な装飾はほとんどなく、精々がテーブルの上のティーセット程度だ。
少し冷めた紅茶が視界に入ってしまい、霧香は慌てて視線をそらした。
手をつけないのも不作法にあたる。無理をして半分口をつけはしたが、もう一滴も水分は身体の中に入れたくはなかったのだ。
(は、はやく……ココ、空っぽにしたいのに……っ)
きゅうっ、と下腹部をさする手のひらに力がこもる。
本当は思い切り脚の付け根を握り締めてしまいたいのを堪え、何度もうねる尿意の波を、意志の力と、乙女の秘密の場所、水門の力で懸命に押さえこむ。
だが、少女の事情なとお構いなしに、水の誘惑はますます激しさを増すばかりだ。
下半身は切に排泄を訴え続け、わずかに口にした紅茶すらも、早々と恥ずかしい熱水へと変わり、乙女の下腹部へと集まって行くようにすら思えてならない。
(お手洗い……はやく……、はやく……っ)
冷静に考えれば、果たしてこのまま最後まで我慢が続けられるかは怪しいものだ。橘家の令嬢の直接の来訪なのだから、まさか『これからよろしく』の一言で話が済むはずもない。理事長との面談の後には学内の見学や教師の紹介などもあるはずだった。
その途中で、訳を説明してお手洗いを借りるべきか? 霧香の心が揺れる。しかしこちらから訪ねていった学院での歓待の最中、さして時間も経っていないうちにお手洗いを要求するのは、やはり礼儀に反する行いだ。
たとえば。そう、仮に。
ありえない仮定としても、霧香は想像を巡らせてしまう。2時間や3時間、学院に居たというなら、常識的に考えて女の子がお手洗いに立ってもおかしくはないだろう。では一体、どれくらい待てばお手洗いの場所を訪ねても良いものだろうか? 1時間? 30分? 10分などというのは論外だろうか? しかしうまく理事長が話を切り上げてくれれば、そのタイミングを見計らって――
はしたないにも程がある想像を繰り返してしまうのは、それほど霧香が追い詰められていることの証だ。
もっとも、たとえ3時間だろうが5時間だろうが、本来は出先でお手洗いを汚すなんてこと自体が霧香の礼儀の基準からすれば、できる限る慎むべきことで、余程切羽詰まったことがなければ避けるべきだと言っている。
だが。いまの霧香はそんな選り好みを出来る状態にはない。家に戻るまでどころか、今すぐ理事長がやって来て、面会の最初のあいさつが終わるまでの10分の我慢すらできないかもしれないほどに追い込まれているのだ。
(そ、そうよ……こ、こんなところで、お粗相してしまったらっ…………)
不意に、霧香の心の中で恐怖が膨らむ。
確かに礼儀作法も大事だろう。でも、まさか。もしも、万一。
無理に意地を張って、我慢しきれなかったら――そんな最悪の事態の想像が頭をよぎったのだ。具体的な『お粗相』という言葉に、これまでにも何度か浮かしかけた腰が、躊躇と困惑の袋小路の中で、再びソファから持ちあがろうとする。
(やっぱり、先にお手洗いに――あ、後で、お詫びすれば……っ)
差し迫った下腹部の事情に衝き動かされ、霧香はかたく張りつめた下腹部を庇うように、腰を浮かせる。
その体制で、霧香はしばし静止してしまった。じっとしているでもない、行動に移るでもない、実にぐずぐずとしてみっともない姿。しかし霧香はなお迷ってしまう。
(…………っ)
あと少し、あと少しだけ待てば。ちゃんと我慢して、失礼のないように――家に戻るまでは無理だとしても、せめて不自然でないくらいまできちんとして、それからお手洗いを借りれば。乙女の、令嬢の羞恥心が必死に自制を叫ぶ。乗り切ってしまえば、一切の恥をかかずに済むかも知れないのだ。
こんなに迷っている暇があったら、もっと早く、こっそりとお手洗いに行っておくべきだった――そんな後悔も一緒に頭をよぎる。そもそもこんなに我慢を続けてしまうこと自体、令嬢としてどころか、一人の乙女としてあってはならない話なのだ。
躊躇と逡巡、諦観と決断。いくつもの選択肢が、令嬢の中でせめぎ合う。
それでもなお、刻々と高まり続ける尿意は決して和らぐことはないのだ。
(や、やっぱり……も、もう駄目……!! が、我慢できないわ……!!)
おそらく1分以上もそうしていただろうか。
とうとう、霧香は恥ずかしい尿意に屈したことを自ら認め、席を立ってしまう。
理事長に挨拶もなく、勝手に外のお手洗いを使ってしまう――それだけ自分が切羽詰まっており、もうどうしようもないくらいおしっこを我慢していたと宣言しているのに等しい行為だった。
後ろ髪を引かれる中、霧香はゆっくりとソファから身を起こす。
身体を曲げた瞬間、じんっと膨らむ尿意に思わず声をあげそうになる。敏感になった下腹部の重みをずしりと感じながら、本当は忙しなく擦り合わせたい脚を、驚異的なまでの自制心で押しとどめ、焦る気持ちを押し殺しながら、そろりそろりと脚を進めてゆく。
霧香は重い樫のドアにそっと手をかけ、ドアの向こうの気配を伺い、誰も居ない事を確認する。
(…………し、仕方ないのよ……も、も、本当に……)
最後の躊躇を振り切って、霧香はドアをそっと、静かに押し開けた。
廊下はひんやりとした空気に満ちていた。
勝手の分からない校舎ではあったが、あまりゆっくりしていて誰かに見咎められる訳にもいかない。出来れば誰にも知られないままお手洗いを済ませ、手早く戻り――可能なら気付かれないように振舞う。それがベストな選択だ。
(……本当なら、お手洗いを借りたこと、言わなければいけないけれど……)
礼儀に反していると頭は理解していても、もし誰もに気付かれないまま、きちんとお手洗いを済ませられたなら。一人の少女として、わざわざそれを口にすることには強い抵抗があった。
そんな事を考えていた霧香の背中に、ぶるりと震えが走る。
悠長なことをしている余裕はないのだ。後のことは後で考えるとして、いまはこの差し迫った事態を解決することが最優先である。霧香は廊下の左右に視線を巡らせる。
来賓室から出た廊下のすぐ近くには、職員用と兼用の来賓向けのお手洗いがあったが、霧香はそこに入るべきか、しばし足を止めてしまう。
確かに今日、霧香は来賓者として迎えられてはいるが、春からは生徒としてこの学院に通うのである。そんな立場で、図々しくもこのお手洗いを使っていいものだろうか。
(……そうよね)
理事長を待っている間に、勝手にお手洗いに立ってしまうのだ。せめて最低限の礼儀は守るべきだろう。使うなら生徒用の方であるべきだ。
そんな思いと共に、霧香は廊下の反対側、渡り廊下を通って教室の並ぶ校舎のある方へと歩き出す。
折角目の前にあるお手洗いから遠ざかることに、少女の下半身ははしたなくも強く抗議をしたが、霧香はそっと下腹部を撫で、それを押さえこむ。
まさか堂々と脚の付け根を押さえるようなものではない。ごく自然に、女の子として大事な下腹部を庇うような慎ましやかな動作だったが、見る者が見ればはっきりと、尿意を堪えていると明白な体制。人目がないとはいえ、橘家の令嬢にあるまじき行いであった。
(は、はやくしないと……)
いよいよ限界が近い。羞恥に頬を染めながら、霧香はわずかに震える脚を速める。
市井の進学校の構内は、霧香の知っているものとは大きく異なっていたが、同じように大勢の生徒が通う学舎であることに違いはない。まさかお手洗いが存在していないなんてことはないはずだった。
(こっち……で、いいのよね?)
歴史ある進学校という名の通り、修繕はされていでも深い年月の重みを感じさせる校舎の中を、わずかに逡巡しながらも進んでゆく。
寒風の吹き抜ける渡り廊下を通り抜けて、霧香は教室棟へと辿り着いた。
幾分、暖かな気配のある廊下はやはり無人で、物音一つない。まっすぐな廊下にはずらりと並んだ教室と、黒地の板に白ペンキで書かれたと乏しき達筆な漢数字表記の組番号の案内が続いている。
その間に、同じ案内板に記された『女子便所』の文字を見つけ、霧香は僅かに安堵した。
霧香の感覚からすると、少々直接的な物言いすぎるが、これも仕方のないことだろう。この学院が古くからの伝統を持ち、築百年を超える校舎をなお使っていることは有名でもある。黒地の板に白ペンキの達筆な『女子便所』の文字も、恐らくは年季の入ったものなのだろう。
少なくとも分かり辛いよりはよほどいいはずだ。
――しかし“お手洗い”の本当の目的を全く隠すこともなく堂々と晒している『女子便所』の文字に、自分がこれから何をしようとしているのかを否が応でも思い知らされ、見せつけられている気分ではあった。
頬がわずかに赤くなるのを感じつつも、それもいったん脇にどけておくつもりで、霧香は廊下を、小走りにならない程度に急ぐ。
(間に合った……)
緊急警報を発令しつつある下腹部をかばい、スカートの裾を乱さぬように辿り着いたお手洗いの前、霧香はそっと胸元を押さえ、丁寧に何度もペンキの塗り重ねられた薄桃色のドアを、そっと押しあける。
年季を感じさせる漆喰塗の壁を、天井付近に小さな窓からの明かりがぼんやりと照らしている。
右手前には、清潔ではあるが長年使いこまれたと思しきホーローの流し台と鏡が並び、その反対側の壁に4つ、茶色のペンキを塗られた板張りの壁に仕切られた個室が仲良く身を寄せ合うように並んでいる。
何度も漂白されたであろうタイルの目地を踏まないようにして、霧香はお手洗いの奥に並ぶ4つの扉のうち、一番右端へと向かってゆく。
かつ、かつ、と響く固い音は、否が応でも霧香に緊張を強いていた。ここは霧香にとって未知の領域、異邦の空間なのだ。
個室を仕切る壁は、管理のため上下に大きく隙間を空けており、覗き込もうと顔を床に押し付ければ、中の様子が見えてしまいそうだった。
分けてもわずかな衝立だけが視線を隠しているだけの、個室同士が隣り合った構造のトイレである。衝立も上からのぞきこめるような高さではないが、天井までつながっているわけではなく、個室は真上が完全に解放状態である。
さらに個室のドアも、足元には5センチばかりの隙間があき、その気になれば身を伏せて顔を近づければ中を窺うことも可能だった。
霧香は思わず身を硬くしていた。
(…………、)
橘家ご令嬢という立場もあり、霧香にはごく普通の『公衆トイレ』などに足を踏み入れた経験などほぼ皆無である。これまでに通っていた学校や施設のお手洗いは、ここまであけすけに無防備なものではなかった。
かつり、と靴底がタイルを叩く。
(……あ……)
静けさの中で、冷たい壁は足音すら大きく反響させる。
もし他に誰かがいれば、お手洗いの最中に立てた物音は隣の個室はおろか、あたりにまで丸聞こえになってしまうだろうことが一目で見て取れた。
そのことに気づいて霧香は顔を赤くしてしまう。
本来、誰にも気付かれてはならないはずの、“お手洗い”という秘密の行為。下腹部の恥ずかしい部分に溜まった、薄い琥珀色の液体を、女の子の一番大切な部分から迸らせる排泄という行ないは、誰かに“そう”と悟られるというだけでも恥ずかしい行いである。また、それゆえに決してそうと気づかれぬように振る舞うこともまた、乙女としての嗜みであった。
だが。この学院のトイレは、霧香の想像していた『お手洗い』とは大きく基準を異にしていたのだ。
(…………郷に入っては、郷に従え、ということよね……)
自分にそう言い聞かせはしても、すぐ隣に自分の用足しの音をそのまま聞かれてしまうような構造のお手洗いで安心できようはずもない。
建物に文句を言っても仕方ないとはしても、プライバシーへの配慮が大きく欠けた前時代的な『女子便所』の構造は、あまりにも慎みに欠けているように、霧香には思えてならなかった。
これ以上ここにとどまることにすら多少なりとも抵抗を覚えながら、霧香は個室のドアに手をかけた。
すっかり色の落ちた金属製のノブを握る。
ぎぃ……。
かすかに軋むドアの奥にある光景を見て、霧香は絶句した。
(え……!? な、なに、これ……っ!?)
信じられないという思いで、霧香は瞬きを繰り返す。
しかし、目の前の光景は消えてはくれず、幻や夢ではない現実であることを告げている。
(そ、そんな……っ……)
思わず揺れ動きを激しくしようとする腰を、ぐっと脚の内腿に力を込めて自制する。
個室に鎮座していたのは、霧香の予想していたのとはまるで違うモノ。前後左右を仕切る衝立の中、四角いスペースの床に沿うように設えられていたのは、大きく天井に向けて口の開いた白い陶器。先端でゆっくりと反り返り、跳ね返りを受け止めるようなカタチになっている緩やかな曲線――
『女子便所』に相応しい古式ゆかしき和式便器が、その役目を全うせんと控えていたのだ。
(あぁ……う、嘘……)
そう。何を躊躇うことがあろうか、あとはそのまま踏み入れて、スカートをたくしあげ下着をおろしてしゃがみ込み、存分にお手洗いを済ませればいい。
しかし、待望の『オシッコのできる場所』を目の前にしながら、霧香は困惑を深めてゆくばかりだった。
ふらふらと後ずさった霧香は、儚い願いを込めて隣の個室を覗く。さらにそのまま隣、また隣と順に個室を確認してゆき……最後の個室の前で、顔を覆ってがくりと窓枠にもたれかかった。
(そんな……ぁ……)
空席ばかりの4つの個室。
そのどれを選んでも、限界寸前の尿意を解放するには十分すぎる場所だというのに。霧香にとってはそのどれもが、まるで意味のないものばかりだったのだ。
(せ、折角の、お手洗いなのに……っ。……ど、どうして、こんな……っ)
そう。
海外留学の経験もある霧香にとって、お手洗いというものは生まれてこの方“洋式”でしかない。
霧香は今まで一度も、洋式以外のお手洗いを使った経験がないのだ。無論、知識としてそのようなモノがある事は知っていたし、その使い方もおぼろげながら理解はしている。
しかし、彼女の生活範囲にそうした場所は一つたりとて存在せず、目にする機会すらなかったのである。
「あ……っ」
慎みのかけらもなく下品に床に据え付けられたカタチの和式便器は、そこに大きくスカートをたくし上げ脚を開いてしゃがみ込むはしたない姿を強制するものだ。
当然ながら音消しのための設備もなく、大切な場所から勢いよく噴き出した水流は、高い位置から便器の中に直撃して、大きな音を響かせることは間違いないのである。
しゃがんで、おしっこ。
この学院の生徒――否、普通の女の子ならば当たり前のようにできるその行為が、霧香にはできないのだ。
しかし、曲がりなりにもお手洗いをを目の前にして、令嬢の下腹部でははしたない衝動がはげしく込み上げてくる。繊細な秘密の入れ物の中では恥ずかしい熱湯がぐらぐらと沸騰し、いまにも吹き零れてしまいそうに悲鳴を上げている。
「ぁあぅ…っ」
か細い悲鳴を押し殺し、霧香はふらりとトイレの壁に寄りかかった。
ぞくぞくと背中を這い登るイケナイ感覚が、限界が近いことを知らせている。
(ど、どうしよう……っ……で、でも、こんなお手洗いなんかじゃ、とても……)
震え出しそうになる膝をぐっと押さえつけ、霧香は余裕の失われつつある頭で思案を巡らせる。
恐らくは、霧香以外の少女達は普通にしていることだ。この学院のお手洗いが“こう”だというのだから、霧香以外の生徒全員が、問題なくこのお手洗いを使えているのに違いない。
だが――霧香は、それが出来ない。
(い、いや……わ、私、ち、違うの、っ、お、お手洗いのしつけも、できていないなんて……っ)
突き付けられた現実の前に、令嬢の困惑は、ますます深まるばかりだった。
(初出:書き下ろし)