社会見学バスの話・03 佐野真彩

 公園を出発して3時間。もうとっくに学校に戻っていてもおかしくない、どんなに遅くとも、もう高速道路からはおりていていい時間のはずだった。
 バスの中程の窓際席に座る佐野真彩は、次第に落ちつかなくなりはじめた下腹部に手を添え、出来るだけ気を反らすようにカーテンを開けた窓の外を眺めていた。
 高速に入った当時は順調に走っていたバスが、渋滞に飲み込まれ、全く動かなくなってしまってもう1時間以上過ぎている。
「…………はあ……」
 しかし、窓の外も青空や野原が見えるような爽やかな光景の訳もなく、防音のための高いフェンスに、灰色のアスファルト、びっしりと並ぶ大渋滞の車の列。緑と言えば申し訳程度の路側帯の茂みくらいだ。真っ赤なテールランプがどこまでも続き、エンジン音が低く唸る光景は、かえって真彩の気を滅入らせるばかり。
 それもそのはず、この渋滞にはまりこんで動けなくなっているのは2年A組を乗せたバスだけではない。バスを取り囲む渋滞の列の乗用車と、それに乗る人々もまた同じように、数時間も、ほとんど動かない渋滞の中で立ち往生していた。
 時折響く、先を急かすクラクションの音が、神経を逆撫でするように響く。耳を澄ませば文句や苛立ちの怒声すら聞こえてきそうで、陰鬱な雰囲気を敏感に感じ取った真彩は再度吐息をこぼす。
「……ふぅ……」
 窓越しにすら、張り詰めてぴりぴりとした緊張感と苛立ちを孕んだ空気が染み込んでくるようで、お世辞にも気の休まる光景とは言い難い。ざわざわと落ち着かない下腹部に要らぬ緊張を強いる、不安定な気配に、真彩は眉をしかめる。
 映画を流していたモニタも黒地に緑文字のの出力だけを表示するバスの中には、少女達がこぼす小さな喘ぎ、かすかな吐息、ひそやかな呻きだけが響く、不自然な静寂が満ちていた。
 無論、遠出の社会見学の帰途で思わぬ長時間バスに閉じこめられて疲れたことも理由の一つだろう。
 しかし、2年A組の少女達の大半は、より切実で逼迫した生理的欲求という事情を抱えているのである。脚をぎゅっと閉じながら俯いている少女、車内を見回し、運転席のほうを覗くクラスメイトの顔も、どこか青ざめている。脂汗を流している生徒までおり、そんな子は既に辛抱できないようで露骨に前を押さえたり、忙しなく貧乏ゆすりのように落ち着かない様子で腰を揺すったりしながら、顔を見合わせ、周囲の様子を窺っている。
 バスの中はどちらを見ても多かれ少なかれ、オシッコ我慢の真っ最中のクラスメイトの姿があり、見ているだけでも引き込まれるように『催して』しまいいかねない。
 真彩も程度の差こそあれ、他のクラスメイト達と同様に強い尿意に苦しんでいるのは同じだった。
(……やっぱり、外見てる方がマシよね)
 出来るだけ車内の要旨は視界に入れないようにして、真彩は窓の外へと顔を戻す。
 傾いた陽射しを遮るレースカーテンの隙間に視線を向けた時、その向こうの動かない渋滞の列の中で、乗用車の一台が路肩に寄って停車しようとするのが見えた。
 停車したのは銀色のワンボックス。そのドアがスライドし、車の陰から母親に抱えられるようにして伴われる小さな姿が見える。
(あ……っ)
 まだ幼稚園くらいの小さな男の子だった。
 母親に何事かを言い含められた男の子は、足早に路肩のフェンスに向かう。
 真彩はその目的を察して顔を赤くした。
「…………っ」
 何かイケナイことをしているような気がして、思わず目をつぶりかけるが――それよりも、興味のほうが勝ってしまった。
 あるいは、トイレを訴え続ける落ち着かない下腹部の乙女のダムが、その光景に共鳴してしまったのかもしれない。
 良くないことだと思いながらも、真彩は背中を丸め、咄嗟に顔の前にかざした指の間から、こっそりと窓の向こうを覗く。
 そこでは、母親に背中を向けたさっきの男の子がフェンスに向かって立ち、足首までズボンとパンツを下ろして、可愛いおしりを丸出しにしている姿があった。
 男の子は勢いよく、フェンスに向けて立ちションを始めたのだ。
 真彩にはちょうど背中を向ける格好で立ったその姿に、真彩は頬が熱くなるのを感じてしまう。
(あ……いいなあ……男の子って……)
 まだ幼稚園くらいであろうその後ろ姿に、しかし真彩ははっきりと異性を意識してしまう。
 立ってオシッコ。
 あんなに幼く、小さくても、男の子ならああして、簡単に、立ったままでオシッコを済ませる事ができるのだ。真彩は我知らず、その背中に羨望を抱いてしまう。
 同時に、少女の身体では早く不要な水分を放出しようと急かす切なくも激しいむず痒さが、真彩の下腹部に一気に広がってゆく。
「ん……っ」
 強まってはいても、我慢できないほどではなかった尿意が、ぐんとその勢力を増したような気がした。思わずスカートの上から足の付け根を抑えてしまい、真彩は慌てて周囲を窺う。幸い、クラスメイト達はそれぞれ自分の事に手がいっぱいの様子で、真彩にも、窓の外で繰り広げられている光景にも気付いた様子はない。
 小さな身体の割に、男の子のつくる水流はなかなか立派なものだった。かなり我慢していたのだろう。傍らでそれを見守る母親も、どこか落ち着かない表情を見せている。
(立ちションって、キモチ良さそうだな……)
 ずるいな、私もしたいな、と。
 はしたなくも真彩は思わずそんなことまで考えてしまう。
 もう長い間、尿意を抱え続けている真彩には、少々目に毒な光景であったのは確かだ。
 こと、オシッコという面では不自由な女の子の事情など、あの男の子には知る由もないことだろう。バスの中に閉じ込められて3時間、知らずもじもじと腰の動きも多くなり始めた今の真彩には、特にそう感じられた。
 けれど、女の子にはあんな風にはいかない。
 我慢できないからと言って、バスの外に駆け出して済むような問題ではないのだ。
 そうこうしているうちに、男の子の放水は終わっていた。お尻を揺らすようにぷるぷると雫を切って、ズボンを上げ、男の子は母親に伴われ、ほっとした表情で車内へ戻ってゆく。
(……羨ましいかも……いいなあ、あんな風にオシッコできて……)
 男の子ってずるい。
 あんなにも簡単にオシッコを済ませる事ができるなんて――真彩はそう思いながら、なお収まらない下腹部の切なさをなだめるようにそっと股間に手を這わせる。
「で、でも、いくら小さな子だからって、良くないわよね」
 羨望がはっきりと覗くつぶやきを小さく口の中で転がして、なお、車の中に戻った男の子に恨めしげな視線を向けることは止められずに、真彩は諦めと共に吐息をこぼすのだった。

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