「羽衣ちゃん……だいじょうぶ?」
「っ……」
そっと声を潜めて聞いてくる羽衣に、乃絵は答えずぶんぶんと強く首を振った。答える余裕なんかないほどに切羽詰まっているのは本当だったが、それ以上にこちらを案じてくる乃絵が鬱陶しくてたまらなかったのだ。
(なんなの……もうっ……、なんで、こんな、私ばっかりっ……!!)
少しでも気を抜くと緩みそうになる脚の付け根の細い孔をきつく閉ざし、ぎゅうぎゅうとオシッコの出口を握りつぶすように抑えつける。視線は宙に固定され、荒い息はまるで蒸気機関車のようだ。
「んっ、ふ、ふぅ、んぁ……く、んぁあっ……」
ぱんぱんに膨らんだ女の子の水風船が、懸命の我慢を嘲笑うかのようにせり上がり、脚の間へ向けて膨らむ。じりじりと下降してゆく膀胱の出口が、狭い排水孔へと猛烈な水圧を押し付けてくる。
「羽衣ちゃん……」
不安そうな乃絵の声が聞こえる。こちらを励まそうとしているつもりなのだろう、まったく逆効果なそのおどおどとした声に、羽衣はぎりりと歯を食いしばった。
乃絵は羽衣といつでも一緒、クラスでも一番の仲良しだ。何をするのにも一緒で、どんな時も二人でお互いを励まし合い、喜びあってきた。
――けれど。
(なんで、乃絵ばっかり、平気な顔してるのよ……!!)
今日の社会見学でも、羽衣と乃絵は同じ班で、一緒に過ごしてきた。お昼ごはんも、休憩も、喉が渇いた時のジュースだって一緒に、半分こして交換し合った。
トイレだって、そうだ。
二人がトイレに入ったのは、学校を出る時と、午前中の見学の途中での2回だ。二人連れだって隣の個室に入り、同じようにオシッコを済ませた。
誓って、乃絵が羽衣の傍を離れたことはないし、そに羽衣が一人で別行動を取ったりしてはいないことを、断言できる。
だから、2-Aをバスが渋滞に巻き込まれて3時間というこの状況でならば、乃絵だって同じように、オシッコを我慢していなければおかしいのだ。
それなのに――羽衣は話もできないくらいに激しい尿意に責め苛まれ、今にもオモラシという限界ギリギリの戦いを繰り広げているのに、乃絵ときたら、まだ他人を思いやる余裕すら見せている。
それが、羽衣には納得いかない。
(…………)
羽衣の落ち着かない視線は、乃絵の下腹部へと吸い寄せられる。もちろん乃絵も我慢をしていることは間違いなく、膝裏に折り込まれた制服のスカートの膝がきゅっと揃えられているし、手のひらが控えめに下腹部をさすり続けている。けれど、そんなのは幼稚園児みたいに股間を握り締めてバタバタ脚を踏み鳴らし、何度も無頭がる用に首を振り続けている羽衣に比べればあまりにもささやかで、比較するのも馬鹿らしい。
乃絵のおなかの中にだって、羽衣と同じくらい、恥ずかしい液体が詰め込まれ、バスの振動にたぷたぷと揺すられていなければならないはずなのに、乃絵の様子はどう見てもそうとは思えないのだ。
「んぁあ……は、っ、あ、ぅっ……」
びりびりと股間に響く刺激に、羽衣は目に涙をうかべ、ぎゅっと脚の付け根を握り締めた。それでもじんわりと、熱い湿り気がスカート越しにも広がってゆくのがわかる。絶えず絞め続けた括約筋は痺れて感覚を失くし、おチビりの瞬間すら感じ取れないほどだ。
同じように過ごしているのに、どうして自分ばかり。情けなさと羞恥に俯く視線は、それでも恨めしげに乃絵を追うことを止められなかった。
(不公平だよ……おかしいよっ、こんなのっ……乃絵、の、やつっ……)
己を襲う理不尽に、羽衣はまた胸中で激しく声を上げ、親友を罵ってしまう。良心が強くそれを咎めるが、追い込まれた少女の精神は、攻撃的に心をささくれ立たせて、オモラシと我慢の羞恥を転嫁しようとしていた。
そうだ。おかしい。
こんなのは変だ。
羽衣は思い出す。乃絵と二人でいる時、トイレに先に立つのはいつも決まって羽衣のほうだった。まだ羽衣がぜんぜん平気な時にも、乃絵は『羽衣ちゃん、おトイレ行きたくない?』と誘ってくるのだ。
そう。だいたいいつもそう。乃絵の方が我慢が聞かないはずなのだ。オシッコが我慢できなくなるのは、乃絵の方が、早いのだ。
だから。
今日だって、乃絵のほうが先に我慢できなくなるのが自然、だった。。
「羽衣ちゃん……?」
「、……さいっ……」
「え? なに、どうしたの? 羽衣ちゃん」
「ぅる、さいって、言ってるのっ……!!」
ついに、羽衣は親友の手のひらを払いのけてしまう。ぱしん、と決して弱くない力で手を叩かれ、乃絵はしばし言葉を失って、呆然としていた。
それを見、けれど羽衣は考えを改めようともしない。むしろ、驚いた顔をする乃絵をいい気味だとすら思っていた。
(そうよ……そんな、全然まだ余裕って格好してるくせに、裏切られたなんて顔したって騙されないんだから!! 乃絵のやつ、勝手に……自分だけ、トイレ行ってたんだよね……!!)
そうとしか考えられなかった。
機会はあったはずなのだ。そう、特にあの、公園を出発する直前の、バスに集まっていた時。ちらりと乃絵が、あの公衆トイレ――汲み取り式の、汚くて臭い――と手も使う気にならないと、二人で入ることを諦めたあのトイレに。
乃絵はきっと、こっそり、独りで入って、オシッコを済ませてきたのに違いない。
だって、そうでなければ。
「っ、あ、ぁっ、だめ……っで、ちゃっ……ぅ……」
こんなに辛い自分より、長い間我慢できる筈がない。
そうだ。乃絵は裏切ったのだ。一緒に、こんなトイレ、入らなくても学校まで我慢できるよねと、もし辛くなったら、励まし合おうね、と約束したのに。乃絵はそれを裏切って、自分だけトイレに入って、思う存分、一滴残らず、このおなかの中の意地悪な熱水を絞り出してきたのだ。
羽衣の脳裏には、個室の小さな便器を跨いで、白い陶器の底に勢いよく黄色い水流を叩きつける乃絵の姿がありありと浮かびあがる。小さなころからずっと一緒に過ごしてきた大親友の彼女には、その姿はもはや想像の域を超えてありありと思い浮かべることができる。
(ぉ、オシッコ……!! 私も乃絵みたいに、オシッコしたいぃッ!!)
羽衣の中では、乃絵は既にトイレを済ませたことになっていた。便器の中に解き放たれる猛烈な水流と飛び散る飛沫、緊張から一気に弛緩へと転じる下半身と、極限の我慢からの解放がもたらす恍惚の表情。
(なんで、なんで、乃絵、だけっ、オシッコしてるのよぉ…!!)
まるで、たった今、目の前で乃絵にそれを見せつけられているかのように、羽衣は強烈な羨望を、隣に居る親友へと抱く。
「っ…………!!」
羨望と嫉妬、そして憎しみすら滾らせた視線で鋭く乃絵をにらみ、羽衣はひときわ強く、どん、と床を踏み鳴らす。ひ、と突然の友人の豹変に驚いて乃絵が姿勢を跳ねさせた。
どんな時も不動だった二人の友情が、何を持ってしても分かつことのできない絆が、動く密室と化した高速バスの中で、無残にも引き裂かれようとしていた。
羽衣は知らない。乃絵がいつも先んじてトイレに立とうとするのは、彼女が幼い頃、失敗をしてしまった経験から、前もってトイレを済ませるように努めているからに他ならないと。その時、同じように意地を張ってオモラシをしてしまった羽衣を案じて、一緒にトイレに誘うようになったことを。
辛いものが苦手な羽衣が、お昼のお弁当を分け合った時に、喉の渇きを覚えていたことを。そのせいで飲料工場の見学の時に、紅茶を一杯、余分に飲んでしまっていることを。
社会見学バスの話・13 雪村乃絵&日向羽衣
