「だ、大丈夫よ、みんな。外からは見えないし、誰も見てないから、安心して!! ……ね?」
清水先生が励ますようにみんなを見回して言う。
けれどいくらそんなことをしたって、佳奈達が2年生にもなって、遠足の帰り道にトイレが我慢できず、無理やりバスを停めさせてしまったという事実は変わらない。
しかもこれからそのバスの陰にしゃがみこんで、死ぬよりも恥ずかしいことを始めなければならないのである。それで安心しろなんて無茶な話だ。
「ほ、ほら、ぜんぜん平気よ。大丈夫!! ……誰も見てないわ! ここなら回りにも聞こえないし、先生も秘密にするから、ね?」
【意訳:はやくオシッコしなさい!!】。
なお煽るような蓉子の台詞に、無責任なクラス担任の言葉に追い立てられるように少女達の羞恥は過熱し、いまや沸騰せんばかりに湧きたっている。
(そ、そんな言い方……しなくたって……っ)
佳奈も、陽菜も、紗絵も。少女達は徐々に『清水先生』のあまりにも無神経な言動に苛立ちを覚えはじめていた。
みんな、死にそうなくらい恥ずかしい思いを強いられているのに、清水先生はその事を一切斟酌してくれない。いまや彼女の株は9人の少女達の中で、現在進行形で最安値を更新中である。
(見てないとか、そんなの、嘘に決まってるじゃない……っ)
蓉子の言っていることはまったくのでたらめだと、佳奈は思う。
ここでオシッコを済ませたとして。佳奈達を苦しめているオシッコが、きれいさっぱりどこかになくなってしまう訳ではない。その後始末に使ったティッシュや、溜まりに溜まった恥ずかしい水が思い切り地面に噴き付けられ、大きな水たまりを作って流れたその痕跡は、しっかりこの場所に残ってしまうのだ。
今はバスの陰になって見えなくなっていても、バスが動き出せば、2-Aの少女達9人がオシッコを済ませた臨時仮設野外トイレは文字通り白昼の元に曝け出されてしまう。
誰にも見られてはいけない筈の、秘密の行為――女の子のトイレ。その痕跡を、高速道路を通る大勢の人々――それこそ、十人や百人どころで済むはずもない数の人たちに、余すところなく知られてしまう。
それは、思春期の少女にとって死ぬよりも辛いことだ。
(っ……嫌ぁ……そ、そんなの、恥ずかしすぎるよぉ……っ!!)
パンパンに張り杖めた下腹部を撫でさすりながら、佳奈は込み上げてくる羞恥に小さく首を振った。
どこまでも続く渋滞の中の、道路の片隅に広がる大きな水たまり。しかも回りにはちらほらと、使用済みらしきティッシュも散らばっていて、よく見れば地面を踏み締めた靴底や、立ち去るときに点々と残った足跡も見つけることができるかもしれない。
周囲には水気もなく、不自然に並ぶ九つの水たまり。路肩に突然そんなものが出現すれば、いったいここで何があったのかを想像するのは簡単なことだ。よっぽど想像力のない者でなければ、新鮮で大量の水分を放出した犯人に思い至るに違いない。
さすがにそれだけで佳奈がその犯人であることまでは分からないかもしれない。
しかし、使用済みのティッシュによって、ここでオシッコをしたのが女の子であることまでは、簡単にバレてしまうはずだった。
地面をたっぷり濡らす、大きな大きな水たまり――それは、どれだけ佳奈がオシッコを我慢していたかを知るのに十分だろう。一目確認しさえすれば、下腹部をはち切れんばかりに膨らませていた恥ずかしいオシッコを、ついに我慢しきれず、サービスエリアに着く前に無理矢理車を止めさせて、路肩でオシッコを済ませるしかなかった――その経緯までをありありと描き出してしまうに違いない。
さらに。普通に考えれば、偶然にも9人分の水たまりが同じ場所に並ぶことなんて、まずあり得ない。
少なくとも、何十人もの乗員がある大型車――たとえば、バスのような大きな車に乗っていた子たちである事まで考え及んでしまうかもしれない。そうなれば、この渋滞の中でその条件に当てはまる車はごくわずかだ。
佳奈達の乗る高速バスの前面にははっきりと、今日の社会見学の目的地と、2年A組の生徒達が乗っていることが示されていた。ここまでくれば、名探偵でなくとも推理は簡単だ。もう消去法で、2-Aの生徒達が一斉に路肩に並んでしゃがみ込み、オシッコをしたことまで分かってしまうはずだった。
たとえこの場に出くわしていなかったとしても、途中のサービスエリアや渋滞の中で、制服や身につけている校章から、佳奈の乗るバスを見つけてしまう人も出てくるかもしれない。
もし、その時。
たとえばサービスエリアのトイレで、他の子たちがまだモジモジ我慢をしながら順番待ちに並んでいたりしていて、そんな中で佳奈だけが平然としていたら。
佳奈が、高速道路の隅でオシッコを済ませた子だと、気付かれてしまうかもしれないのだ。
冷静に考えれば、そこまでの偶然が続くとは考えにくい。しかし、絶え間ない羞恥に晒され続けた佳奈の頭の中では、悪い想像だけがぐるぐると巡り、際限なく膨らんでゆくばかりだった。
自分のトイレの跡を――それも、この高速道路を通る大勢の、十や百では聞かない数の人たちに、オシッコを見られてしまう。殊更に強くそれを意識した佳奈は、さらに出口のない羞恥の袋小路へと迷い込んでゆく。
「だ、大丈夫よ、みんな、気にしないでいいのよ? ね? ほら、もう、おトイレ、我慢しなくったってもいいんだから……!! 恥ずかしがらないで、ね?」
(っ、な、なんで、先生、そんなに、恥ずかしいこと、ばっかり……言うのよっ……!!)
なぜかバスの傍に立ちつくしたままの清水先生に、佳奈は強い反発を覚えていた。たぶん心配してくれているのだろう。そう思いはするものの、バスの中で受けた恥辱は忘れたくても忘れられない。
他のみんなに気付かれないように、できるだけこっそり伝えたはずの尿意が、いつのまにかこんな大袈裟なことになってしまったのも、元はと言えばみんな先生のせいなのだ。
いくらクラス担任の先生でも、女の子のトイレを覗いていいなんて理由にはならないし、オシッコするところを見られるなんて、たとえ親や大好きな人にだって許せないことだ。
それなのに清水先生は視線を背けるでも、バスの外からやってくる不埒ものを警戒するでもなく、じっと佳奈達が、トイレを済ます様子を今か今かと待ち受け、食い入るように様子を窺っているのだ。
「ねえ、みんなお願い、はやく!! はやくしてぇ……!!」
蓉子が、どの生徒たちよりも猛烈な尿意を必死に我慢している真っ最中で、佳奈ををダシにしてバスを停め、この隙に自分もトイレを済ませてしまおうなんて企んでいることは、佳奈たち9人には知る由もない。
一度崩れた、クラス担任と少女達の信頼関係は、もはや修復不可能なまでに亀裂を走らせていた。
社会見学バスの話・24 恥辱の迷路
