男子トイレ閉じ込めの話。

 上手くまとまらなかったのですごく中途半端。


 いったい、なんの冗談だろう。
 人に話したら笑われてしまうような現状を、私はけれど決して笑い飛ばすことなどできないままに、口を噤む。
 私がここで目を覚まして2時間――つまり、私がこの部屋に閉じ込められて2時間以上が過ぎている。――私の携帯の時計が狂っていなければ、だけど。
「んぁ……っ」
 身じろぎとともに、思わず小さな声が漏れる。
 腰上を伝う、耐えようのない刺激が、ちくちくとおなかの中を刺激する。まるで焦げるようにむず痒い感覚は、刻一刻と激しさを増していた。
 決して綺麗とは言い難い床の上に、力なく腰を下ろしたまま。私は懸命に、『そこ』から意識を遠ざけようとしていた。
 けれど、気を失う前にたっぷり口にしたジュース2杯が、いまや耐えがたいほどの水の誘惑を伴って、足の付け根に押し寄せてきている。
 『そこ』から視線を逸らそうとすればするほど、私はちらりちらりと、部屋の片隅を見つめてることを止められずにいた。
「っ…もぉっ…」
 憤りとともに、怒りが口を衝いて出る。
 何もかも自由にならず、やがてはこの状況を仕組んだやつの思い通りになってしまうことが、たまらなく癪だ。
「っ、ねえ、見てるんでしょ!? いい加減、馬鹿なことはやめてよっ!!」
 振り仰いだ天井。
 たぶん、どこかで見ているであろう誰かに向けて、私は叫ぶ。声が届いているかは果てしなく怪しいが、叫ばずにはいられなかった。
「まだ今なら、大したことにはならないんだから!! 早く、ここから出して!! ドアを開けなさいよっ!!」
 無駄と分かっていでも、叫ばずにはいられない。もう何十回も、何百回も同じことをして、けれど一度も反応はなかったのだ。
 でも、だからと言って、やめるわけにはいかなかった。
 私にはもうそれくらいに、余裕がない。
 今はまだこうして考えている余裕があるけれど、そのうち本当に切羽詰まってしまえば――もう、きっと形振り構わなくなってしまうだろう。それこそがこの部屋を用意したやつらの目的なのだとわかっていても。
 私はまた、ちらりと。ほとんど無意識に、見まいと心に決めていたはずの部屋の隅視線を向けてしまう。
 そこにずらりと用意された『設備』は、白く輝いて、私の忌々しい視線を受け止めていた。
 『それ』は、馴染みこそ薄いものの、決して知らない構造ではない。
 たぶんどんな女の子だって、小さな頃には一度くらい目にしたことはあるんじゃないだろうか。お父さんに連れられてとか、学校の掃除の時間に、とか。
 けれど、『それ』は私たちには生涯ずっと、関わることのないはずのものだ。
 ……よっぽど特殊な趣味や、専門に関わるような仕事をしているのでもなければ、まともな神経でそれを欲することなんて普通はないだろう。
 そもそも、それを言い出すならいま私が閉じ込められているこの部屋自体、私の人生にとって縁遠いもののはずだった。
 ――男子、トイレ。
 幼稚園やら小学校低学年の頃ならいざ知らず、まさか今になってこんな場所に踏み入れるなんて、それ自体が屈辱だ。けれど私は理不尽にも、この異性専用の排泄設備の中に、閉じ込められてしまっていた。
 歓迎一色のムードの中、美味しいジュースとお菓子を振舞われて、ふいに猛烈な睡魔に襲われ、気付いたら男子トイレの床の上。
 あまりにも最悪な目覚めに、気分も最悪だった。勿論すぐに手も顔も洗ったけど、まだ少し吐き気もした。
 ……あまり自分のことは言いたくはないけれど、私はどちらかと言えば、異性には(同性にも)人気のあるほうだ。告白された回数だって少なくない。
 そんな女の子をわざわざこんな場所に閉じ込めるなんて――どう控えめに考えても、不埒な目的があるとしか思えなかった。
 鞄は無くなっていたけれど、お財布や生徒手帳は無事。携帯もポケットに残っていたものの、電波は全く入らない。現状、ほとんど時計代わりぐらいにしか役に立たない。
「…………ホント、信じらんないっ……」
 苛立ちまぎれに床を蹴る。かつん、と高い音を立てるタイルの音が、室内に反響する。
 靴底に響く衝撃に軽く背中を竦ませ、身震いした。
「んっ……」
 最初はもっと悪い、犯罪的な、誘拐とか拉致とか、別の想像をしていたのだけど。どうやらここに私を閉じ込めた連中の目的は、もっと全然、違うところにあるらしい。
 その理由が、この男子トイレの……私の監禁されている部屋の構造だった。
 たぶん、どこかの大きなデパートみたいな建物の中なのだろうと思う。大声を出しても誰の返事もないし、小さく唸るモーターのような音以外何も聞こえないことから、近くに人は誰も居ないのだろうと分かった。
 壁のどこにも窓がないことと、天井の換気扇から、なんとなく地下なのじゃないかと想像していた。
 全体の広さはだいたい教室の4分の1くらい。女の子1人が座り込んでいるには、少々手広いくらいだ。
 天井の照明は蛍光灯で、わずかにちらついて点灯していた。床の汚れ具合から見ても、あんまり使われている場所ではないらしい。
 入り口は当然のように一つだけで、そこにはご丁寧なことに、無数の南京錠とチェーンロックが駆けられており、体当たりでもびくともしないほどに執拗に閉ざされていた。ことによると、ドアの外にも何かかんぬきみたいなものが用意されているのかもしれない。
 洗面台がひとつと、個室がふたつ。掃除用具入れが一つ。そして――壁に並ぶ、小用便器がよっつ。それが室内の全てだ。
 このうちの個室と掃除用具入れは――男子トイレにだって『大』用の個室があることは、流石に私だって当然の知識として知っているが――それらの個室のドアも、入り口と同じように徹底的に封印されていた。個室の上と下にわずかな隙間はあるが、とてもそこを登ったり潜り抜けたりできるような余裕はない。
 要するに。ここには洗面台と男子トイレの小用便器だけが、ずらりと壁に並んでいるだけなのだ。
 このトイレの訳の分からないロケーションは、不可解であると同時に不快であり、恐ろしくもあった。目を覚まして最初の1時間くらいは一体これから何をされるのかといろいろと嫌な想像もしたし、怖くなって泣き出しそうにもなった。
 つまり、誰かがやってきて、私を動けないようにして酷い事をするのじゃないかとか。どこかに連れて行かれる途中で閉じ込められているのじゃないかとか。このまま誰にも見つけてもらえずに、ここで飢えて死んでしまうのじゃないのかとか。
 けれど恐らく、私をここに閉じ込めたやつの目的は、そんな事じゃないのだと、しばらくするうちに分かってきた。
 時間の経過と共に、私はこの部屋の構造の意味を、嫌でも思い知ることになったからだ。
 そう。こんな場所に閉じ込められて、時間が経てば。やがてどうしても、困ったことになってくるものがある。
 ……トイレ、だ。
 初めのうちからその事に気づいてはいた。けれど、少なくともその時まだ、私は尿意なんて欠片も覚えていなかったし――困るとしてももっとずっと先のことだと考えていたのだ。けれど、わずか数十分で、私はもう形振り構わずに股の間を押さえ込んでいなければならないほど、オシッコが我慢できなくなっていた。
 けれど。この部屋の中には、洗面台のほかは男子用の小用便器しか残されていないのだ。
 その事実に気づいたとき、私は少なからず動揺していた。閉じ込められてから1時間近くが経ち、急激な尿意が迫っていた頃だったからだ。
 そうなってみると、私をこの部屋に閉じ込めた連中の意図は、それ以外あり得ないような気がしていた。
「じょ、冗談もいい加減にしてっ……ねえ、はやく!! はやく、ここ、開けなさいよッ!!」
 震える爪先をぐりぐりと床にねじ付け、引けた腰を左右に揺すり。一時も同じ姿勢を保てないまま、ぐるぐるとその場を歩き回り、大きく足踏みし、ぴょんぴょん飛び跳ね、両手をきつくスカートの上から脚の付け根に押し当てる。
 遠からず限界が来るのは明らかだった。
「ね、ねえ!! はやく!! 早く出してよおっ!! あ、あとで、なんでもするからっ……わ、私っ、も、もうっ……!!」
 オシッコ我慢できない。
 最後の一言を飲み込んで、狭い部屋の中を何度も見回す。けれどそこにある光景はさっきと変化のないまま。
 このまま――もし、本当に我慢できなくなってしまったら。
 洗面台と、男性用の小用便器。
 あとは、せいぜい床の隅にある、清掃用の排水口。
 私はそのどこかで、オシッコを済ませるしかないということになる。
「っ……」
 ぶる、と込み上げてくる衝動に、背中が震える。
 できるだけ弱味を見せまいと、懸命に堪えていたのが仇になってきた。スカートの上からでもわかるくらい、ぱんぱんにオシッコを溜め込んだ下腹部が、大きく前にせり出してきている。
 自然、視線は壁に並ぶ白い、男性用の小用便器へと吸い込まれていく。決して綺麗とは言い難く、誰が使ったのかも想像したくないような、薄汚れた、女の子のためのものではないオシッコの設備。
 けれど、――私はいつか、あそこでオシッコを済ませなければならない。
 それが嫌なら、オモラシか、あるいはあの洗面台か、このトイレのどこかの床の上で、オシッコを垂れ流すしかない。
 それが恐らくはこの部屋用意した奴等の目論見ということなのだろう。
 一体どこの変態どもか知らないけれど、思い通りになるのは癪だった。折れかけた心を奮い立たせて、背筋を伸ばす。
「負けるもんですか……っ」
 いつ終わるとも知れない我慢は、続く。
 (初出:書き下ろし)

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