dans la prairie 03

 雨の続く6月。今日もまた昨日と同じような雨が続き、代わり映えのないネズミ色の空がビルの谷間を覆う。
 織江は傘の柄を握る手に力を込めながら、雨の通学路を早足で歩いていた。
 靴底が水たまりを跳ね散らかし、防水の十分ではない足元にはいくつも飛沫が跳ねる。靴下まで染み込んだ雨の冷たさは、不快感を通り越して脚を重くさせていた。
 けれど、織江は歩みを緩めない。
「…………、っ」
 ぎゅ、ときつく力を込めた手のひらが、少女の切羽詰まった事情を訴えている。
 ――おトイレに、行きたい。
 確かに6時間目の授業中から、確かに軽い尿意を覚えていたのは間違いないが――ほんの数十分でここまで余裕がなくなるなんて、まったく予想していなかったことだった。家までは間に合うだろうと見切りをつけて昇降口を出てほんの10分で、織江は自分の軽率な判断を激しく後悔することになる。
 梅雨の寒気が買えたばかりの夏服のスカートを通り抜け、足元を冷やす。まるで湧き上がるように下腹部を満たしてゆく恥ずかしい液体。一旦意識した尿意は瞬く間に織江の水風船をぱんぱんになるまで膨らませてしまった。
 通学路は片道30分。まだ半分も来ていない。カバンと傘で両手が塞がって、織江はスカートの上から前押さえをすることもできなかった。もどかしく制服の上から脚の付け根に押し当てられた鞄の角が、下腹部の緊張をなお高めてゆく。
 ――家まで、間に合うだろうか?
 その問いかけに、当たり前だと答えることすら怪しかった。毎日続く雨に濡れた道路は普段よりも体力を奪い、歩くのにも余計な時間を要する。歩道のタイルは泥をかぶり、靴底が滑って歩くのも慎重にならねばならない。
 ふとした油断ですら、恥骨の奥にじんと甘い痺れを走らせる。もじもじと膝を擦り合わせていなければ、いつ足元に雨水以外の雫を迸らせてしまうかもわからなかった。
 ――だめ……オシッコ、ガマンできない……。
 身体が我慢の限界を訴え、早急にオシッコ済ますための場所へ向かうよう要求するのは当然のことだった。けれど、近くにトイレなどは見当たらない。通い慣れたはずの通学路に、織江の求める場所は見つからないのだ。毎日行き来する学校への道は住宅街を通り抜けるルートで、近くには大きな公園も、コンビニや店舗もほとんどない。今からそちらに向かうには大きく回り道をする必要があった。
 ――おトイレ、はやく……!
 織江の求める『オシッコの場所』が周囲のどこにも存在しないと言う訳ではない。むしろ住宅街という立地には、住人の数と同じだけのトイレがあるといっても過言ではなかった。
 だが、それらを使うには、織江自身が見ず知らずの近くの家を訪問して、住人に直接、どうしてもオシッコが我慢できないこと、だからトイレを使わせて欲しいことを申し出るしかなかった。それは、年頃の少女にはあまりにもハードルの高い行いだ。
 無数のトイレに囲まれながら、織江の入ることのできるトイレはどこにもなかったのだ。
 ……そんな最中。
 織江がふと眼をとめたのは、路肩に停車した一台の乗用車だった。
 標識のない場所を選んで停めてあるらしい車内には人影もなく、ブロック塀の傍で雨に冷たく濡れながら、まるで何年も昔からそこにあるかのように風景の一部に溶け込んでいる。
 なぜその時、織江が『そこ』を選んだのかは、織江自身にもよく分からない。ただの偶然、理由などなかったか。あるいは魔が差したというべきなのか。
 後になってみればもっと他にもふさわしい場所があったようにも思えるし、そもそも本当に家まで間に合わなかったのだろうか。いずれにせよ、それらの言葉は過去を振り返るもので、今となっては意味のないものでもある。
 そもそも、『そこ』で『そんなこと』をしようなんて、その瞬間まで織江には考えてもみないことだったのだ。
 ――ここで、おしっこ……しちゃおう……
 この時。まるで天啓でも舞いおりたかの如く。下腹部に迫りくる排泄欲求に従うまま、織江は、そこを人生初の『お花畑』にすることを選んでいた。
 今日のような雨の日の午後ともなるとたまに走りゆく乗用車かスクーターがせいぜいで、ひとけもまばらだ。
 織江は早足で車の裏に回ると、傘を首と肩にはさんで、その陰に隠れるように背中をかがめる。
 雨の中の気配を慎重にうかがって、誰もいないことを3回確認すると、ポケットからハンカチを出して折りたたんだまま端を口にくわえた。そのままスカートの中に両手を差し入れ、素早く下着を膝まで引き下ろす。
 スカートの中に吹き込んでくる雨に濡れた外気に、きゅん、と織江の『女の子』が震える。スカートの布地に隠れて大事なところは見えないはずだが、これから織江がしようとしていることはそれよりも恥ずかしいことかもしれない。
 緊張に詰まる息を、鼻から吐き落して、織江は車の陰に身をかがめてゆく。完全に腰をおろしてしまうと足元が濡れるので、中腰としゃがみ込むのの間くらいの中途半端な態勢。一度も野外でのトイレ――『お花摘み』の経験のない織江には、正しい屋外でのオシッコの方法など分からなかったのだ。
 けれどそんなもの勉強している暇もないし、家まではどうやったって間に合わない。かと言って、織江が使えるトイレはどこにもないのだ。お漏らしをせずに済ますには、ほかに選択肢はなかった。
 ――でちゃう……っ!
 織江はスカートの裾をつかみ、おしりのほうにも飛沫が回り込まないように注意しながら、徐々に腰を落としてゆく。
 地面は雨に濡れ、傘の端からこぼれる雫がいくつも波紋を描いている。流れる水の中に紛れて、織江のおしっこの痕跡はすぐに見えなくなってしまうだろう。
 高鳴る胸を抑え、荒くなる息をつめて、視線は自然、足元へと向かう。織江がいよいよ震える脚の付け根に『放水』の許可を出そうとしたその時。
 雨音の中に混じる物音が、はっきりと聞こえた。
 はっと顔を上げた織江の、霞む視界の向こうに、ぼんやりと浮かび上がるオレンジのランプ。こちらに向かってくる乗用車の存在をすぐに理解し、織江はあわてて下着を引っ張り上げた。
 せっかく開きかけた水門を再度閉じるのは、並大抵のことではなかった。ギュッと目を閉じ、言葉も発せず、織江はその場に立ち尽くす。腰が震え、脚の付け根をこすり合わせるように、左右の足が交互にもう一方の足をこする。
 路肩に停めてある車を迂回するように、乗用車が走り去ってゆく中。
 織江は、じっとその場に立ち尽くしていた。
 ようやく戻ってきた静寂の中、いまさらのように鼓動が激しくなってくる。耳元で聞こえるくらいに高鳴る動悸は、安堵とともに恐怖にも似た感覚を織江にもたらしていた。
 再度、誰もいなくなった通りだが、織江はもう、その場にしゃがみ込もうとすることはできなかった。
 車の影、織江がきつく握り締めた傘の下。雨音よりも強く激しい雫が少女の革靴とソックスに振り注ぐ。ふくらはぎを膝の裏を伝い溢れる水流は滝のように、少女のスカートの奥、ぴたりと寄せ合わせた腿の隙間から噴き落ちていた。
 無理に引き上げたせいでぐっと脚の付け根に食い込む下着に、お茶をこぼしたような熱い湿り気が拡がってゆく。しっかりと傘に守られていた制服のスカートに、水たまりに思い切り飛び込んだみたいな大きな染みが広がり、みるみる織江の下半身を包み込んでゆく。
「………っ」
 こぼれそうになる叫びを噛み殺す、織江の荒い息づかいが傘の下に響く。
 雨音は強く、けれど織江の足元にばちゃばちゃと溢れる雫の音はなお激しい。黄色い滝は足元の水たまりに融けるように広がり、降り続く雨と混じりながら緩やかにアスファルトの上を流れてゆく。
 ――あ……ぁ……。
 ぎゅっと押さえた脚の奥から、底の抜けた樽みたいに、中身がこぼれおちてゆく。満水のダムは見る見る水位を下げ、そのそう快感に頭がすうっと軽くなる。
 ぱくぱくと口を静かに開閉させながら、織江は呆然とその場に立ち尽くしていた。
 ……そのまま、5分も過ぎただろうか。
 織江の下腹部にずっしりとのしかかっていた重みは嘘のように消え、ちくちくと脚の付け根を苦しめていた重苦しい尿意はどこにもない。
 雨はなお続き、びちゃびちゃに濡れたスカートが脚に絡み付く。徐々に冷えはじめた下半身が、失われる熱を求めるようにぶるりと震えた。
 びしょびしょの制服、濡れぼそった下着、たっぷりと水分を含み、がぼがぼと音を立てる革靴。
 まぎれもない、『オモラシ』の証拠。
 ――やっちゃった……。
 織江の『お花摘み』はあえなく大失敗に終わってしまったのだ。それどころか、きちんと『お花畑』まで我慢することもできなかった。
 唇をきつく噛んだ織江の手から、傘が落ちる。
 まだ織江のオシッコの混じる水たまりに落ちたお気に入りの傘を振り返る事もせず、少女は早足で、その場を駆け出してゆく。
 なお振り注ぐ雨が、その身から恥辱の全てを洗い流してくれることを願いながら。
 (初出:書き下ろし)

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