社会見学バスの話・41 花藤涼子

「あっ、ぅ、はぁ、もっ、もぅ、もぉ、っんぁあ、くぅ、ダっ、ダメッ、駄目っ、駄目ええぇぇええええぇぇっ!!!!」
 白い喉を震わせて響くソプラノの叫び。
 バスの後部通路、座席背もたれから伸びる手摺にしがみつくように、がくがくと腰を震わせて立ち上がっている生徒に、車内の視線が一斉に集まる。
 ほとんと爪先立ちになるようなへっぴり腰で、身体を半分に折り曲げて。アイロンの掛かっていたスカートのプリーツをぐちゃぐちゃに乱してしまうほどにまで猛烈に足の付け根を押さえ、ぐぐぐぎゅうううっと太腿をきつく閉じ合わせ、後ろに突き出したこしを左右に振り立てる。
「んぁ、はぁあっ、だ、ダメっダメだめぇえ、っ……お、お、ぉし、おしっこっ、おしっこ、ぁ、ぁああぅうっ、ぁ、おしっこ、も、もれっ、んぅもれちゃうぅぅぅうううっ!!」
 幼稚園くらいであればまだしも、年頃の乙女として、たとえ同性の前であっても発することは赦されない、あまりにもみっともなく、無様で、はしたない告白だった。
 あろうことか、そんな恥ずかしい叫びの主が花藤涼子であったことは、車内の少女達を少なからず動揺させた。
 涼子は今日日誰も守ってやしない校則の教本にそのまま掲載されそうな、お下げ髪に黒縁眼鏡の、とにかく真面目な少女なのだ。席替えでもいつも教室の前の席を進んで選び、授業も真面目にノートを取って、先生にしっかり質問し、板書も進んでこなす。皆勤賞でも目指しているかのようにHR30分前には登校して席に着き、遅刻早退、サボり居眠りなんてもってのほか。
 休み時間にちょっと背伸びをしたグループが、雑誌の恋愛特集記事なんかを読んでいるのを見るだけで、頬を真っ赤にして顔をそむけてしまうような潔癖で純情な少女である。
 少なくともクラスのほとんどの生徒が、涼子が人前で狼狽することなんて一度も見たことがない。そんな彼女が、全身全霊をもって、『オシッコが我慢できません』と叫んでいた。
 つまり、涼子にとってこのバスでの時間は、形振り構わず外に助けを求め、今すぐ『どうにか』してもらわない限り対処不可能な、極限限界の窮地だったのである。
「お、オシッコ、オシッコ、っ、トイレ、降ろしてっ、ねえっ、んぁ、あっあ、ダメ、出る、出ちゃううっ、トイレ、オシッコっ、トイレ行かせてええ!!!」
 とてもまっすぐ歩くことも出来そうにないふらふらの足取りで、涼子はバスの前方、出口へと進み始める。数歩で座席に寄りかかり、背もたれに身体を預けて両手でぎゅぎゅぎゅぅと脚の付け根を押さえ込み、おしりを左右にクネクネと振りながら。
 香と思えば、びくっと背筋を反らして眼を見開き、眼鏡のレンズの内側に涙を滲ませ、口を半開きにして『ぁ、あっあぁっ』と喘ぎ、その場で大きく足踏みを始め出す。
 常軌を逸した涼子の様子に、他人の事などもう構っている余裕のなかったはずの他の生徒達も、思わず注目せざるを得ない。
「ちょ、ちょっと、花藤さん……!?」
 運転席の傍でタイトスカートの下、ストッキングの太腿を擦り合わせ、バスのフロントガラスを凝視していた蓉子も同様だった。バス後部の通路を、のたうつ様にして進もうとする涼子に圧倒されながら、現実に引き戻される。
 この時。蓉子の手には、スイッチを入れっぱなしにした車内アナウンス用のマイクがまだ握られていた。咄嗟のこととはいえ、蓉子はマイクを持ったまま席を立ち、涼子の元へと駆け寄ってしまったのだ。
「だっ、だめ、だめだめ、だめえ……!! おしっこ、おしっこっ!! オシッコぉ!!」
 8つのスピーカー備え、後部座席にまではっきりと音を届ける音響設備を通じ、涼子のオシッコ出ちゃう宣言は、必要以上の音量になってバスの中に響き渡ってしまう。
「ぉ、降ろして降ろして、バス、停めてええ!! んぁ、っ、もぉ、でるっ、でちゃうっ……!! おしっこ、漏らしちゃうよぉお!! あんぅ、っくぅ、ぉ、おっ、お願い先生、っ、ぉ、おしっこさせて!! お外で、オシッコ、させてよおお!! も、もれっ、もれちゃう、もらしちゃう、お、おひっこ、もれひゃうよぉお……!!」
 呂律の回らぬ舌で、涼子はまるで幼稚園の子のように我慢できないと叫び、激しくバタバタと足を踏み鳴らす。いますぐ、ここで、涼子はトイレを――『オシッコ』を要求していた。
 しかし、いくら少女が叫ぼうとも、バスはいまだ道路の途上。サービスエリアへ向かう車の列の最中にある。一列に並ぶ車道は狭く、当然ながら追い越しなど不可能だ。むしろ、まださっきまで――片側3車線の高速道路本線にいた時のほうが、可能性の高い選択肢だったのだ。
 この狭い1車線では。2年A組の生徒28人を乗せるバスは大きく、いくらバスを路肩に寄せてたところで、後続の車を塞いでしまう。停めることは不可能だった。

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