ようやく、ぱちん、とマイクのスイッチが切られる。
長い長い涼子のバケツオモラシが終わって、バスの車内には重苦しい沈黙だけが満ちていた。 紆余曲折はあったものの、サービスエリアでの臨時トイレ休憩という救いの手が差し伸べられた直後の悲劇だった。
沈み切った雰囲気の車内には、少女達が尿意を堪える身動ぎの絹擦れたかすかな呻きに混じって、涼子がすすり泣く声が聞こえる。クラスメイト達は皆、できるだけ彼女の方を見ないようにして、顔をそむけ、あるいは俯いていた。
あまりにも悲痛な姿であるというのがひとつ。そして、迂闊に見えていたら自分もつられてオモラシを始めてしまいかねないからだというのが、その理由だった。
サービスエリアまではわずか数百メートル。けれど、歩くよりも遅い渋滞の車列速度では、そこまでの距離は絶望的に遠い。……次は自分がああなってしまうかもしれない。そんな恐怖が少女達に重くのしかかる。挫けそうになる心を必死に励ましてきたところに、痛烈な現実を突き付けられた形だった。
(お願い……!! 早く着いて、はやく、はやく、はやくっ、はやくぅう……!!)
佳奈は両手を脚の付け根に押し付け、懸命にスカートの上から足の付け根を揉み押さえ、バスがサービスエリアに到着するのを待ち続けていた。座席シートの上に身体を深く折り曲げ、あるいはぐうっとブリッジをするように仰け反らせ、激しく身体を動かして少しでも尿意の波をやり過ごそうとする。無論その間、左右の手のひらは一時も脚の付け根を離れない。
(でちゃう、でちゃうう、でちゃうよぉおお……!!)
あと数秒、涼子のオモラシが遅ければ、佳奈もまたはしたなくもバスいっぱいに届く声で『もうだめ、おトイレ!』の宣言をしていたに違いなかった。まさに口を開きかけた瞬間に、涼子のバケツオモラシが始まったのだ。
幼稚園の子であればともかく、それより大きくなれば女の事にって決して許されないであろう、『先生、オシッコ!』。佳奈はまさにその羞恥の行為へ至る寸前の勇み足を、ぎりぎりのところで踏みとどまったのだ。
そう。常識的に考えれば。たとえ今ここで大声で叫んだところで、既にサービスエリアへの路線へ入ったバスはもう止まれない。十分な道幅もなく、非常にのろのろとした速度とは言え進み続けている車の列の中で、バスの路肩駐車などできるはずもない。
一度は断念した、路肩に留めたバスの物陰でのオシッコ――道端にしゃがみ込んではしたなく激しい水流を迸らせることすら、今の佳奈には許可されていない。
サービスエリアに入るまで、道端でオシッコすることも許されないのだ。
だとするなら、この状況でトイレを訴える事は、ただただ、バスの中に居るクラスの皆に、オシッコが我慢できない事を全力で叫ぶことに他ならない。2年A組28人の中で、一番最初にトイレに行きたいとバスを停めさせ、路肩での野外排泄を申し出た佳奈が。
また、オシッコが我慢できないと叫ぶのに等しい。
そんなのは嫌だ。もう駄目だ。女の子なんだから。もう、大人なんだから。涼子が引き起こした惨劇は、佳奈にトイレに行きたいと、オシッコがしたいと叫ぶ事すら禁じてしまっていた。
股間を押さえる両手に力が入る。滴り落ちる汗、震える身体。
(オシッコ……オシッコでちゃう、オシッコ……したいしたいオシッコしたいオシッコしたいオシッコしたい……っトイレ、トイレでるでちゃうトイレおトイレ……っトイレしたい、オシッコしたいぃ、トイレ、先生トイレ、トイレ行きたい、っせんせいオシッコ、おしっこぉッ……!!)
声を大にして叫びたい主張を、頭の中だけに押しとどめ――いくらかは胡乱なつぶやきとして唇からこぼれてしまっていたが――佳奈は、じっとバスの前方、変わり映えのしない車のを睨む。もし視線に力があれば、並ぶ車の大渋滞を全て吹き飛ばしてしまわんばかりに、ひたすらに。
(トイレ、トイレ……オシッコ……っ、か、神様、かみさま、っ、お願いします、どうかお願いですからっ、が、我慢する力を、ください……っ)
いつしか佳奈の願いは、いじましいものへと変わっていた。尿意を消し去る事も、おしっこをせずに済ませる事も諦めて、トイレまでオモラシをしないようにと、我慢の助力を願い続ける少女の悲壮な願い。
想像の中で、神様にも一緒になって脚の付け根を押さえて貰いながら、佳奈は耐える。サービスエリアまでの最後の時間を、残った少女のプライドに縋って、必死に、必死に。
けれど、いくら願おうとも虚しく、少女の股間にはいつしか、しゅるしゅるという水音と、おチビりの先走りが膨らむ熱い感覚が滲むのだった。
社会見学バスの話・46 井澤佳奈その3
