【合同誌寄稿再録】クラスの藍原さん

 2019.5.3の「し~むす!19」にて頒布され、後に電子版も頒布されたCRもちづきうずめ様の「おしっこおもらしガール小説誌 SWEET∞SPLASH!!」に寄稿した作品です。
 このたび公開許可が出ましたことから公開いたします。


 
 藍原さんの様子がヘンなのに気付いたのは、2時間目が始まってすぐのことだった。
 前の席から話しかけられても上の空だし、じっと俯いていて回ってきたプリントに気付かなかったり、授業はじまりの挨拶も上の空だったり。
 前の時間の授業だってそうだ。先生に指されても授業がどこまで進んだかが分からなくて、慌てて教科書をめくり始めるなんて、あまりに藍原さんらしくない。
 いつもまっすぐな姿勢で授業を聞いている藍原さんは、真面目で厳しくて、隣で僕がなにかに気を取られていようものならすぐに『ほら、よそ見しない!』なんて注意してくるのに。
 今日の藍原さんは、普段とはまるで様子が違っていた。
 右手はぎゅっと握られたまま机の上に押しつけられ、左のペン先はノートの上を当てもなく彷徨う。
「はぁ……っ」
 何文字かを書き進めてはぴたりと手を止め、きゅっと口を引き結んでは、熱っぽい溜息。きゅっと寄った眉はなんだか少し怒っているようにも、イライラしているようにも見える。
 藍原さん、どこか具合が悪いんだろうか。登校してきた時にはあんまりそんな様子には見えなかったけど。
「で、あるからして、ここで語られているのは彼女が心の中で思いながら、口にできない心情であり――」
 先生が板書をしていくチョークの音。授業は佳境にさしかかっているけれど、なんだか不穏な様子の藍原さんの様子が気掛かりで、先生の話はなかなか僕の耳に入ってこなかった。
 ぎっ、ぎしっ。
 板書の音に混じって、椅子の脚が床を擦る音がする。
 藍原さんが小さく身を揺するたび、椅子の足がぎぎっと軋む。一度や二度なら気にもならないけど、藍原さんはさっきから何度も座る位置を直し続けていた。落ち着かない上履きの爪先が、交互に床を行き来する。
「では、ここで主人公が疑問に思ったことは何か。鈴守、わかるか」
「えっと……」
 突然当てられたクラスメイトが驚いて立ち上がる。頭を掻きながらしどろもどろになる鈴守に、先生は呆れ顔。
「なんだ、聞いてなかったのか? しょうがない奴だな」
 教室の中でくすくすと笑い声がする。
 僕はふと我に返って今日の日付と出席番号を見比べた。
 ……19日。倍にしても十と一の位を足しても7にはならない。これならたぶん回ってくることはないだろう。ちょっと安心して黒板に向き直る。
 すっかり上の空だった間に、板書は一気に増えていた。慌てて授業の内容をノートに写そうとペン先を動かし始める。
 そして。
「っ……ふぅ……ッ」
 ぎしっ、ぎっ。
 さっきよりもはっきりとした、椅子の足が軋む音。こぼれそうになる吐息を堪える苦しげな声。
 つい、それにつられて視線を横に向ければ。
 ぎゅっと唇を噛み締めて、荒い息を押さえ込んで。目を閉じ、俯く藍原さんの姿があった。
 藍原さんはもうノートを取ってはいなかった。ペンとノートを放り出した左右の手は、机の下に潜り込んでいる。
 揃えた腿の間に、スカートと一緒に両の手のひらを挟み込むみたいにして。藍原さんはぎゅうっと、足の間を押さえ込んでいる。
 真っ白いノートに顔を伏せる藍原さんの頬は赤く染まっていた。視線はぼんやりと白紙の罫線を追い掛け、ぎゅっと小さな唇が噛み締められる。椅子を軋ませ、ゆらゆらと揺れる上半身はさっきより振れ幅が大きくなっていて、椅子の上では落ち着きなく、スカートのおしりがもじもじと動く。
「……ぁ……くぅ…ッ」
 懸命に苦痛を堪えるような、呻き声。
 ああ。やっぱりだ。
 もしかしたらと想像して、できれば違って欲しいと思っていたけど。これはもう間違いない。
 藍原さんは――トイレを我慢している。
 それも、もうあんまり余裕がないみたいだった。授業を受けているフリもできないくらい、必死になって前を押さえなきゃいけない状態なんだ。
 どうしよう。その事に気付いてしまった僕まで、急に落ち着かなくなってくる。もちろん見てはいけないのは分かっているけど、こんな間近で、苦しんでいる藍原さんの様子を見せつけられてしまっては、無視するのも難しい。
 僕のすぐ隣の席で、クラスメイトの女子が――今まさに差し迫った危機と戦っている真っ最中。緊張するなって言われても無理だ。
 藍原さんの様子に気付いているのは僕だけのようだった。教室の一番後ろ、廊下側の最後列の藍原さんとその隣の僕。授業中はめったに誰も見ようとしない場所だ。
「…………」
 見上げれば時計の針はまだ文字盤の真ん中。授業終わりまでは20分以上ある。藍原さん、けっこう辛そうだけど、授業の終わりまで我慢できるんだろうか。余計な心配だとは思うけど、気になって仕方がなかった。
「ここまでは良いな、消すぞー」
 先生の声に教室がざわめいた。僕も慌ててノートに向き直る。黒板の文字を追い掛け、急いで板書を写していくけれど――その間も藍原さんは机の下に手を差し込んだまま、ペンを持つことすらできないようだった。
 きっともう、藍原さんは他のことをする余裕もないくらい辛い我慢の最中なんだろう。俯いた視線は机の上に固定されて、時折、もじもじとちいさく肩が震える。
「っ……」
 突然。藍原さんが全身を強張らせた。
 足の付け根を押し塞ぐように、ぎゅっと膝が閉じ合わされて。上履きの爪先が、ぐりぐりと床の上に擦りつけられる。
「っふ……はぁ……っ」
 おなかの下の方に当てられた手のひらに力を込め、力いっぱい握り締めて。身体の奥で暴れ回り、出口へと押し寄せる水圧に、懸命に耐え、必死に堪えようとする。
 藍原さんは、トイレを我慢している。
 いま、とてもおしっこがしたくなっているんだ。
 荒い息継ぎはその証拠だ。高まる緊迫感に、知らず僕までペンを握り締めていた。
 ぎゅっと目をつぶって――全身を小さく強張らせ、そのまま数十秒。
「っはあ……っ」
 無限にも思える張り詰めた時間のあと、藍原さんがわずかに力を緩め、大きく息をついた。
 どうにか、押し寄せる『波』を乗り切ったらしい。
 よかった。脚の付け根をゆっくり擦りながら藍原さんが息を整えるのを見て、僕もこっそり息を吐いた。
「…………」
 ちらり。藍原さんが視線を上げて教室の前の時計を見る。たぶん、藍原さんが今一番気になっていること。
 あと、どれくらい我慢すればいいかの残り時間。
 でも、緊張のせいだろうか。文字盤の針は思っていた以上に進んでいない。
 授業終わりまで、あと15分。
 残り時間はあと15分。藍原さん、大丈夫だろうか。まさかってことはないと思うけど、でもあの様子だと、授業が終わるまでの時間を乗り切るのだって辛そうだ。
 そうして――黒板のほうにも視線を向けて。
 藍原さんはそこでようやく、授業がずいぶん進んでいるのに気づいたみたいだった。すっかり授業から取り残されてしまったのを知って、慌ててペンを手にノートを取り始める。
 でも、そのペン先は震えがちで、数文字を書き進めては、つっかかるように動きを止める。
 ペンを持たないほうの手は、相変わらず机の下から離れない。片手だけじゃ教科書を広げてノートを書き写すのにだって苦労するのに。
「……さて、以上のように、この段落は二人の心情が比喩を用いて書かれている。ここまでは情景を描写することで語られてきたわけだが――次を藍原、読んでみろ」
「ふぇっ!?」
 いきなり先生に指されて、藍原さんは素っ頓狂な声を上げた。
 予想外のことだったんだろう。その場に硬直する藍原さんに、クラスの視線が集中する。
「どうした、藍原」
「え、あ……その、なんでもありませんっ」
 そう。普段の藍原さんならこんなことで動揺したりしない。先生のどんな意地悪な質問にも、待ってましたとばかり笑顔で正解を答えるに決まっているのだ。
 焦ったように藍原さんが立ち上がった。
 教科書を取り落としそうになりながら乱暴にページをめくり――近くの女子から『104ページだよ』と教えられて、音読を始める。
「『わ、わたしが――』」
「もう少し大きな声でな」
 先生に注意された藍原さんの声は少しだけ震えていた。
 クラスに少しだけ笑い声が起こり、それもすぐに静かになった。
 藍原さんはぎゅっと教科書を握り締め、一度唇を引き絞ってからもう一度読み始めた。
「『私がそれを隠していたのは、ただそれが気付かれるのに臆病だっただけのことだ。それはとても卑怯な態度だった――』」
 教科書の本文が読み上げられていく。
 静かな教室の中に、藍原さんの声が響く。
 ゆら、ゆら。立ち上がった藍原さんの身体は、小さく左右に揺れている。椅子の下では上履きが何度も小さく足踏みを繰り返している。交互に膝を擦り合わせ、床を踏み鳴らしていては、どうしてもまっすぐに姿勢を保つことは難しい。
 もしかしたら。もう、気をつけの姿勢を保つことだって辛いのかもしれない。
「『でも、それは私が抱えていなければいけない秘密なのだ。誰にも知られてはならないと、私はそれを心に秘め続けた――』」
 席を立って教科書を広げているので、左右の手は自由にならない。だから藍原さんの身動きはその分だけ大きくなっているようだった。さっきまでの手のひらの代わりなのか、机の板のところに、身体の前を押し付けるようにして、落ち着かない様子で左右に揺れ動く腰と肩。スカートを腿に挟み込み、何度も膝を擦り合わせているのがわかる。
 僕は、まるで自分のことのようにハラハラしっぱなしだった。
 あまりじろじろ見ちゃいけないと分かっていても、あまりに辛そうな藍原さんのことがどうしても気になってしまう。
 藍原さん、本当に大丈夫なんだろうか。
 まさか、この教室で――なんてことはないと思うけど。
 藍原さんの切羽詰まった様子を見ていると、とても断言はできそうにない。
「『――それが今、私がもっとも切望することだった』」
 ときどきつっかえたり、少し声が震えて小さくなったり。最後はかなり早口になりながら。とにもかくにも藍原さんは読み終えた。
「よし、もういいぞ。今のところだが――」
「ッ……!」
 先生が黒板に向き直るなり、藍原さんは椅子にガタンと腰を下ろした。爪先をピンと伸ばし、踵を持ち上げて、膝を抱え込むようにして腿の間に両手を挟み込む。
 ふっふっと息を荒くしながら、顔を強張らせて、藍原さんはぎゅっと脚の付け根を握り締める。
「っ……くぅ……ッ」
 一度はやり過ごしたはずの『波』が、今の音読で無理な姿勢を続けさせられたことで、またぶり返してしまったようだった。藍原さんは椅子の座板の上にもじもじと腰を揺すって、ぎゅうっとお尻をねじ付けるようにして身体をよじる。
 他のクラスメイトが見ていないのをいいことに、あまりにも大胆な我慢の仕草。さっきよりもさらに余裕のない体勢を見せつけて、藍原さんは息を荒げる。
 『トイレに行きたい』という欲望を、必死になって押さえ込んでいるのがはっきりとわかるくらいに、切羽詰まった様子。
 焦った表情で何度も見上げる教室の前方、時計の針はあと12分。
 その下では、先生が話を続けていたけれど。
 藍原さんはもう、授業の内容もロクに頭に入っていないようだった。

   * * *

「ん、時間か。では今日はここまでとする。プリントの残りは宿題だ」
 先生の言葉に、クラスじゅうからえーっと抗議の声が上がる。授業の終わりを告げるチャイムの中、教室の中が弛緩した空気に包まれていた。
 藍原さんは、どうにか残り時間を耐え切ったのだ。
 よかった。
 僕はまるで自分のことのように安心していた。これでもう大丈夫だ。ここからトイレまでは1分もかからない。いつでも教室を飛び出して、駆け込むことだってできるだろう。
「…………」
 けれど、次々クラスメイトが席を立って喋りはじめる中、藍原さんはじっと席に座ったままだった。
 どうしたんだろうと思っているうち、クラスの女子数名が藍原さんの席にやってくる。
「ねえねえ、藍原。今度の週末だけどさ、この前の話って考えてくれた?」
「え、うん」
「それでさ、またお願いしたいんだけど、いいかな?」
「でも、それは……」
「えー? いいじゃん、そんな難しくないってば」
 クラスメイトに囲まれて話しかけられ、藍原さんはさっきよりも落ち着かない様子だった。明らかにそわそわと動きが忙しなく、態度も怪しい。
 いったい何を遠慮しているんだろう。授業中にあんなになるくらい我慢しているんだから、他のことをしている余裕なんてないはずなのに。
「ねえねえ、昨日のアレ、見た?」
「見た見たー。スゴかったよねー」
 続くのは噂話とか、テレビの話とか、部活のこととか、他愛もない会話ばかりだ。
 でも、藍原さんが平気なのかというとそういう訳ではないみたいで、脚を組んだり身体を揺すったり、さりげなくおなかの下の方を押さえたり、やっぱり我慢は続けているようだった。
「それでさ、あっちも気になってたみたいでさあ」
「えー、本当? ちょっと信じらんないんだけど。藍原さんもそう?」
「……まあ、そう、かな……」
 歯切れの悪い返事。気のせいかもしれないけど、藍原さんには迷惑しているようにも見えた。
 女子のことはよく分からないけど、クラスメイトとのお喋りなんて、そんなに優先しないといけないことなんだろうか。まさか、お喋りが楽しすぎてトイレに行きたくないとか、そんな子供みたいな理由とも思えない。
 どうしても藍原さんのことが気になってしまって、僕は次の授業の準備をするフリをしながら、隣の会話から耳が離せずにいた。
 ……いや、そもそも。
 女の子のトイレのことなんか、僕が気にしていちゃいけないことだ。そうでなくたって、あんまりじっと見ていたら失礼だろう。
 でも、頭ではそうだと解っていても、すぐ隣の席で、無視できないくらい落ち着かない様子でそわそわしている藍原さんの姿は、どうしたって目に入ってしまう。
 さっきの授業中の、藍原さんの辛そうな姿が、頭の中に焼き付いたみたいに離れない。
「……ふぅっ」
 いろんなことを考えすぎたせいか。どうにも喉が渇いて、僕は鞄から水筒を取り出して口を付ける。冷たいお茶が喉を滑り落ちて、火照った頭が少しだけ鎮まった気がした。
 そんな風に、僕が余計なことで気を揉んでいる間にも休み時間は進み、気づけば残りはわずか数分。
 教室の外に出ていたクラスメイトたちが次の授業の用意を終えて席に着きはじめた頃。
「じゃあね、藍原、考えといてよ。お願いね」
「……う、うん」
 ようやく藍原さんの席から女子たちが離れていく。それを見送りながら、やっと解放された藍原さんはすぐに席を立った。
 そのまま、足早に教室を出ていく。
 ドアの向こうに消えていく藍原さんの背中を見送って、僕はほっと息を吐いた。
 ああ、よかった。これで大丈夫だ。
 まるで自分のことのように安心しながら僕は胸を撫で下ろす。まさか藍原さん、このまま休み時間の終わりまでトイレに立たずに、ずっと教室に残っているんじゃないかと思ったりもしたけど、流石にそんな訳はなかった。
 それはそうだ。
 考えるまでもなく当たり前だ。次の時間までに済ませておかなければ、また1時間近くも我慢を続けなきゃいけない。とてもじゃないけど、あんな状態の藍原さんには無理な注文に思えた。
 藍原さんが戻ってきたのはそれから2分と少し。
 ざわつく教室に先生がやってくるぎりぎり十秒くらい前で。
 教科書をめくる僕が前回のノートを見なおして、次の授業の始まりを告げるチャイムが鳴るのとほとんど同時だった。
 これで藍原さんも、僕も落ち着いて授業を受けられる。
 少し慌てた様子で席に戻る藍原さんを見ながら、僕はすっかりそう思い込んでいた。

   * * *

 ……どうも、おかしい。
 僕の抱いた疑念が確信に変わったのは、数学の授業が始まって15分くらいが過ぎたころだった。
 最初のうちは聞き間違いか、勘違いだと思っていて。どうも気のせいではないらしいと分かってからも、あえてできるだけ気にしないようにしていたけれど。
「っ……ふーっ、はあっ……」
 机の上には教科書を閉じたまま、筆箱にも触れず、まっ白いノートは広げっぱなし。両手は机の下に固定され、じっと俯いて息を荒げる藍原さんの様子は、とてもではないけど無視のできないもので。
「くぅ……ッ」
 さっきよりも忙しなく、床の上に交互にぎゅうぎゅうと押し当てられる上履き。
 休むことなく椅子の上で擦り合わされる太腿。
 机の下、脚の間に挟み込むように重ねて押し当てられ、もぞもぞと動き続ける手のひら。
 さっきまでより激しく、あからさまに見せつけられる我慢の仕草は、気にするなと言われたって無理な話だ。
 藍原さんの視線はふらふら定まらず、教卓と黒板の間のあらぬ方を彷徨いながら、口元はかたく強張って、なんどもぐっと顎に力を込めている。
 前の授業の時はまだ、フリだけでもノートを取る余裕があったはずなのに。今の藍原さんは、ペンを持つこともできないまま、机の下でぎゅうぎゅうと足の間を押さえ込んでいる。
 露骨に強まった我慢の仕草は、どう考えてもさっきよりも強まった尿意を堪えているのは明らかだった。
 どうして? なんで?
 僕はノートを取るのも忘れるくらい、今の状況に困惑していた。
 だって。さっき藍原さんは席を立って教室を出ていったのに。てっきり、トイレに行ってきたんだろうとばかり思っていたのに。
 どうして藍原さんはあんなにも辛そうなんだろう。
 ――いや。そんなの考えるまでもない。
 あんなのを見せられればすぐに分かる。
 藍原さんはトイレに行けていないんだ。
 もしちゃんとトイレに行っていたなら、いくらなんでも休み時間からほんの15分であんなに辛そうになるはずがない。
 藍原さんはあのままずっと、我慢し続けているんだ。
 でも、なんで? どうして?
 女の子のトイレってそんなに混むんだろうか。公園や遊園地で行列ができやすいのはなんとなく分かっていたけど、移動教室とか全校集会みたいな時でもなければ、学校のトイレがそんな風になっているのはあまり見た覚えがない。
 いくら時間がかかるって言ったって、途中で諦めて戻ってきてしまうほどだったんだろうか。
「は……くうぅっ……」
 もぞり、藍原さんが大きく身体をよじる。もうじっとしていることも辛いようで、藍原さんの身体の揺れはさっきよりもずっと大きくなっていた。他の誰かに気付かれてもおかしくないけれど――教室の一番後ろ、窓際という立地もあって、僕の他に藍原さんの様子に気付いているクラスメイトはいないみたいだった。
 けれど、そうやって誰かが咎めることもないからか、藍原さんの身じろぎは収まるどころかますます激しくなって、ぎ、ぎしっと床を軋ませる音が間断的に聞こえてくる。
 授業は例題を終えて練習問題の時間だ。みんな一斉に連立方程式を解かされている静寂の中で、その身じろぎはひときわ大きく聞こえた。
「っふ、……ふーっ。ふぅーっ……」
 びくりと身体を強張らせ、頬に汗を浮かばせて。低く浅い息は、押し寄せる大波をどうにかやり過ごそうとしている時のものだ。切実な生理現象に必死に抗う藍原さんの様子は、僕にまで強い緊張を強いるもので。
「っはあ、っ、ふぅ……っ」
 強烈な大波を乗り越えて、わずかにできた余裕の中にこぼれる安堵の息。それに合わせて僕も息を吐く。知らず僕まで背中に汗をかいているのに気付いて、小さく首を振る。
 だめだ。藍原さんが大変なのはわかるけど、こんなにじろじろ見ていていいものじゃない。女の子がそんな様子でいるところなんて、誰にも見られたくないはずだ。
 そう思って、改めて問題に集中しようとした時だ。
 ことん、こん、こん。
 目の前を跳ねるように、小さな塊が床に落ちる。
 藍原さんの消しゴムだった。机の下で身じろぎした時に、筆箱のそばから転がり落ちてしまったのだ。
「…………」
 床に落ちた消しゴムを見下ろし、そっと視線を横に向ける。
 藍原さんは気づいてはいないようだった。というよりも、今も大波との綱引きの真っ最中で、周りに気を配る余裕なんかもとよりあるはずもない。僕はしばらく迷った後、椅子を引いて消しゴムに手を伸ばした。
 拾い上げた消しゴムを隣の机に置きながら、できるだけそっと、藍原さんに声をかける。
「……落ちたよ」
「…………ッッ!」
 いちおうは人のものだし、黙ったまま戻すのもどうなのかと思っただけなんだけど。
 僕に声を掛けられた瞬間の藍原さんのうろたえようはすごいものだった。思わずがたんと机を動かし、椅子を鳴らしてまで後退ってしまうくらい。
 物音を聞きつけた教室の皆が一斉に振り向く。たちまち注目を集めた藍原さんは、気の毒になるくらい動揺していた。
 先生まで眉を顰め、じっと視線を鋭くする。
「どうした、静かにしろ」
「……す、すみませんっ」
 とっさに謝ってしまった僕に、とりあえず先生は納得したようで、藍原さんにまで注意はしなかった。教室にはまた静寂が戻る。
 みんなが机に向き直る中、僕はできるだけ声を潜めて、藍原さんにもう一度声をかけた。
「ごめん、勝手に拾って」
「…………」
 返事はない。わざと僕から視線を反らすようにして、藍原さんは机の上を睨んだままだ。まるで全身から『放っておいて』オーラを出しているみたいに、じっと黙り込んでいる。
 余計なことをして、怒らせてしまったんだろうか。
 後悔の念が頭をよぎる。
 どうしよう。どうすればいいんだろう。
 こんな状況でも机の端を握り締め、足を擦り合わせ、腰を揺すり続けるのを止められない藍原さんを目の当たりにして、僕はなにか声を掛けるべきかと迷う。
 どう考えても、藍原さんの様子は限界が近い。
 これ以上、このまま黙って放っておいてはいけないような気がする。
 もしかしたら、藍原さんにはなにかの具合でうまく声が上げられないとか、そういう事情があるのかもしれない。だったらやっぱり放ってはおけない。
 けれど。
 机の上に顔を伏せるくらい身体を折り曲げ、僕には顔を見せないようにして壁の方に顔を向ける藍原さんの、髪の間から覗く耳は、その先まで赤くなっていて。
 俯き、じっと口を噤んで黙り込んだ藍原さんに、それ以上なにかを言うのはどうしても躊躇われて。
 僕は口の中の『大丈夫?』の言葉を飲み込んだ。

   * * *

「よし、ではこれらの問題を解いてもらう」
 先生の言葉に、クラスの中に緊張が走る。けっこう難しい式だから、最後まで解けていないクラスメイトも多いかもしれない。
「嶋野、垣田、それと――藍原、前に出ろ」
「――ッ!?」
 その宣言は。
 授業が始まって25分、一度もペンを持つこともできず、自分の席で身体を丸め、ぎゅうっとスカートを握り締め続けていた藍原さんには、まさに処刑宣告のようなものだった。
 あーあ、と面倒そうな声を上げながら指された他の二人が席を立ち、黒板の前に出ていく中で、藍原さんは顔を青褪めさせたまま、じっと席にとどまっていることしかできない。
「藍原さん、呼ばれてるよ」
「…………」
 そっと声を掛けてみてもやっぱり無言。
 藍原さんの手のひらは、授業が始まってから一時の例外もなく、机の下で足の付け根を押さえ続けたまま。
 それはつまり、藍原さんはもうそうやって手で直接押さえていなければ、これ以上我慢を続けるのも難しいという状態であり。
 そんな状態で席を立って黒板の前に立ち、問題を解くなんてことができるはずもないのは、明白だった。
「……どうした、藍原」
 動けない藍原さんを、先生の声が残酷に急かす。やきもきしながら視線を送っても、藍原さんはじっと席の上に縮こまったままだ。
 だめだ。いくらなんでも見ていられない。
 やっぱり、放ってなんかおけない。
『すみません先生! 藍原さん、さっきから具合が悪いみたいなんです!』
 あとで怒られたっていい。嫌われたって構わない。
 いっそ、そう言ってしまおう。
「――先生!」
 がたん。
 僕が手を挙げかけた時。藍原さんは突然、椅子を鳴らして席を立った。
 じろり、一瞬だけ僕のほうを睨んで、ぎゅっと唇を噛み、汗ばんだうなじを押さえて、教室の前に出ていこうとする。
 でも、藍原さんのその足取りは、どう見ても普通の状態ではなかった。
 上半身はふらふらと左右に揺れ動き、お尻は不恰好に後ろに突き出されて。膝をよじるように重ね、太腿を擦り合わせて進む姿は、まるでアヒルのようなみっともないよちよち歩きだ。
 途中でなんどか、息を飲むように立ち止まり、ぎゅっと握り締めた制服の袖でおなかの上を押さえて。
 他の生徒に遅れること一分あまり。何度も小休止と休憩を挟んでどうにか黒板まで辿り付いた藍原さんは、震える指でチョークを取った。
 かつ、かり、かつ。
 もう、とっくに他の二人は問題を解き終えて席に戻っている。
 藍原さんはたった一人でクラスの注目を浴びながら、不恰好な数字で式を埋めていく。時折チョークの先が震え、黒板に手を突くようにして手を止めて、はあ、はあ、と息を荒げて身を強張らせ。
 もどかしいくらいゆっくりと、斜めの数式が黒板に伸びていく。
 教室の前、黒板に向かってクラスに背を向けた藍原さんの表情は、僕からは窺い知れない。
 けれど、身体の前に回されたもう一方の手は身体の中心から離れず、黒板にもたれ込むように突き出されたおしりが、左右にくねくねと揺れる様ははっきりと見て取れた。
 たぶん、藍原さんはあれでも精一杯、平静を保っているつもりなんだろう。きっと本当に押さえたいのはそんなおなかの上の方じゃなくて、もっと下の方。
 その『出口』そのものだ。
 揺すられる腰の動きだって、あんなささやかなものではまるで足りないに違いない。
「っ……」
 かつ、かつ、かりり。
 ぱきりとチョークの先が折れた。
 式の途中で文字を止めて、藍原さんは黒板消しに手を伸ばした。乱雑に消された文字の上に、ミミズのように不恰好な5と8が並び――イコールがぐにゃりと折れ曲がる。
 とても見ていられない。普段の藍原さんなら、あれくらいの問題で迷ったりしないはずなのに。やっぱり今の藍原さんは、他のことをしている余裕なんかないんだ。
 そして。
「んぅ……ッ」
 藍原さんは突然びくりと身体を震わせたかと思うと、ついにチョークを持ったまま一切身動きできなくなってしまった。黒板の前でぎゅうっと足を交差させ、膝を重ねるようにして、上履きの爪先をぐりぐりと床にねじ付ける。
 まただ。
 またあの『波』が来てしまったんだ。
 そのまま――十秒、二十秒。藍原さんはじっと身体を強張らせて動かない。
 たぶん、いま藍原さんは、これまでの中でも最も強烈な大津波と、渾身の力を振り絞って戦っている。身体の奥から押し寄せる猛烈な水圧を、懸命におなかの中の水袋に押しとどめるために。
 三十秒、四十秒。
 いつまで経っても身動き一つしない藍原さんに、クラスにわずかなざわめきが広がり始めた。そして。
「……もういい、藍原、戻れ」
 どこか失望したような声音で、先生による終了宣告が告げられた。
 時間切れ。この問題は解けないのだと思われての言葉。たぶん藍原さんにはそんな風に聞こえたはずだった。衝撃を受けた様子で振り返る藍原さんに、先生がダメ押しの一言。
「藍原、聞こえなかったか。戻れ」
「……ッ、はいっ……」
「どうしたんだ、お前らしくもない。次回までにきちんと復習しておくように」
「……っ」
 耳まで赤くして、藍原さんは唇を噛んだ。
 羞恥と、悔しさと。たぶん、苛立ち。
 顔を俯かせて、藍原さんはゆっくりと振り返り、席へと戻ってくる。その片方の手がスカートの前を握り締めているのがはっきりと見えた。こんな目に遭っても、藍原さんはなお人知れずに悲痛な戦いを続けているのだ。
「では、ここの解答だが――」
 先生が解説を始める中。よろよろと自分の席まで近づいた藍原さんは、もう少しというところで不意に小さく声を上げ、足元をふらつかせた。
「ぁ……ッ」
 喉から声を絞り出すように、つまずいた身体が前に倒れ込む。
 支えを失って、藍原さんはその場に、かくんと膝を折って座り込んでしまった。自分の机に手を掛けて――しゃがみ込むように。
 そのまま、開いた右手を、あろうことか人目憚らずスカートの間にぎゅうっと挟み込み。
 立てた上履きの踵を、ぐりぐりと足の付け根に押しつけて。
 藍原さんは僕の目の前で、トイレの我慢を始めてしまったのだ。
「んッ、っくぅ、ぅう……ッ」
 うめき声を、喘ぎ声を上げながらの、懸命な我慢。しゃがみ込んで足の間を押さえ込み、ぐねぐねと身体をよじりながら。
 荒い息の間から、だめ、だめ、という小さな掠れ声まで聞こえてくる。
 もう、じっとしているだけでも辛いのに、教室の前まで歩かされ、黒板の問題を解かされて。不用意な緊張を強いられて、ついに藍原さんの我慢は沸点を突破してしまったのだ。
 ぐねぐね、もじもじ、ぎゅうぎゅう。
 これまでは、一応のフリだけでもどうにか外面を取り繕おうとしていたのだけど――もうそんな余裕すらかなぐり捨てた、本気の、本物の、女の子のトイレ我慢。
「あ、藍原さんっ……」
 慌てて声を掛けるが、もちろん僕の声なんか聞こえていない。
 めくれたスカートの奥には白い布地まで覗いて、その上を揃えた指先が必死に擦り抑えつける。見てはいけない光景に咄嗟に視線は反らしたけれど、その分だけすぐ間近の藍原さんの息遣いや声が聞こえてしまい、僕の緊張は収まるどころじゃなかった。
 がたがたと藍原さんが手を掛けた机が揺れる。
「っ……っく、だめ……で、ちゃう……っ」
 でちゃう。
 なにが――なんて言うまでもない。藍原さんが必死になって我慢し続けているものだ。ずっと朝から、戦い続けている、女の子の羞恥の源だ。
 藍原さんは、もう。
 おしっこが、我慢できないんだ。
 自分と同い年のクラスメイトが、こんなにも必死になってトイレを我慢している様子なんか、これまで見たことない。まるで小さな子供のように。もう限界だと、我慢できないと、全身で訴えているかのよう。
 あの藍原さんが、そんなみっともない姿をしているだなんて、想像したこともなかった。
 クラスの女子が、懸命になっておしっこを我慢している姿を、目の前に見せつけられて。
 僕は、心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じていた。
 喉がひりつくように渇いて、声も出ない。
「次に、この項だが――」
 幸いにと言うべきだろうか。先生は問題の解説のために黒板の方を向いていて、こっちには気づいていない。他のクラスメイトも似たようなものだった。
 でも、今はまだ平気でも。こうやっていつまでも机のそばにしゃがみ込んでいたら、その異常は一目でわかる。誰かが気付けばすぐに、藍原さんが苦しんでいるその様子が、クラスじゅうにすぐに広まってしまうだろう。
 今でさえ、藍原さんがもたれかかった机が、がたがたと揺れているのに。
 それは――ダメだ。絶対にダメだ。
 藍原さんは、ずっと隠してきたのに。
 あんなにまでなって、必死に我慢してきたのに。
 そう思うと、自然に唇が動いていた。これ以上、知らないふりで黙っているのは無理だった。
「ね、ねえ……」
 出来る限り声を潜めて。身を屈める藍原さんの耳元に届くように。
「藍原さん、その……大丈夫?」
 いろんな意味を込めたつもりの、『大丈夫?』だった。
 何とかしてあげたい。もうこれ以上見ていられない。せめて、なにか力になる方法があれば。
 そんな、思い上がりもあったかもしれない。
 けれど。
 藍原さんはやおらその場に顔を上げると、一瞬驚いたようにして周りを見回し、その次にかあっと顔を耳たぶまで赤くして、キッと視線鋭く僕を睨みつける。
 自分の状況を理解して。
 ぎゅっと目元に涙を浮かべ、なお、しゃがみ込んだ足の間、スカートの前をぎゅうっと握り締めながら。

『よけいな、こと、するなっ……』

 藍原さんが、唇の動きだけで送ってきたメッセージは、僕への拒絶に近いもので。
 それ以上の干渉を断固として拒否する、藍原さんの断絶宣言だった。

   * * *

 それからの藍原さんは、控えめに見ても頑張ったと思う。
 どう言い訳をしても『なんでもない』とは言えない様子で、がたがたと椅子を揺らし、はしたなく膝を持ち上げては上履きの踵を脚の付け根に押しつけて。机の下で交互に手のひらを押し当て、ぎゅうぎゅうと『そこ』を押し揉んでは、ひっきりなしにもじもじと身体をよじり続け。
 無限にも等しい、授業の残り20分を、どうにか乗り切ったのだ。
「きりーつ、れい」
 少しだけ早く終わった授業のラスト、先生を送る挨拶もそこそこに。
 チャイムが鳴るや否や、藍原さんは慌ただしく席を引いて、飛び出すように教室を駆け出していった。
 ぽかんと口を開けてそれを見送り、僕はしばらく茫然としていた。
 あまりの猛烈な勢いに僕は思わず面食らってしまったけれど――同時にちょっと安堵してもいた。だってさっきの授業中、藍原さんはもう普通に歩くのも難しいくらい、限界に近いものだと思っていたからだ。
 もしかしたら、最悪授業が終わっても立ち上がれないままなんじゃないかと、そんな想像すらしていたくらいだ。
 でも、あれならきっと大丈夫。
 途中、何度も危なそうなところはあったけれど、藍原さんは最後まで耐え切って、女の子のプライドを守り抜いた。恥も外聞もかなぐり捨てての我慢で、最悪の事態は回避したんだ。
 ああ言っていたとおり、僕のお節介なんて文字通り、余計な事だったんだろう。
 そもそも、何度も繰り返しになるけど、女の子のトイレの心配なんて、簡単に首を突っ込んでいいものじゃないんだ。
 深呼吸をして首を振り、余計な想像を頭から追い出すように、水筒の中身を口に含む。
 ごくり。冷たいお茶を喉に流し込みながら、深呼吸。
 まだどこか、ぼうっとする頭を覚ますために、少し外の風に当たっておきたい気分だった。
 ……僕も今のうちにトイレに行っておこう。
 そう思って席を立った。

   * * *

 僕が用を済ませて教室に戻ってきた時、藍原さんの姿はまだ見当たらなかった。女の子の事情はよく分からないけど、たぶん男子よりは時間がかかるだろうことは想像がつく。
 ましてあんな状況まで耐え続けた藍原さんだ、そう簡単には済まないんだろう。そう考えてみればそもそも、さっきの休み時間の残り2、3分でどうにかなるものではないのかもしれなかった。
 4時間目は英語。今日は移動教室も体育もないので楽な時間割ではあるけど、そのぶん宿題も多くて面倒くさい。プリントをちゃんと持ってきたか確認しているうちにチャイムが鳴り、先生がやってくる。

 ――藍原さんが戻ってきたのは、それから少し遅れてのことで。

 押し開けたドアにもたれかかり、汗ばんだ表情を強張らせ、その場で足踏みを繰り返しながら。
 自分の席に座ることもできず、息を荒げて前屈みに下腹部を庇おうとするその様子は、傍から見てもぎょっとするくらいの異様なものだった。

   * * *

 どう見ても普通じゃない藍原さんをよそに、粛々と始まる4時間目。午前中最後の授業の中、僕の頭はパニックに陥っていた。
 いったい、なぜ、どうして。
「っふー、……ふぅーっ……」
 溺れている最中の息継ぎのような、途切れ途切れの浅い呼吸。
 身じろぎの余裕すらなく、椅子の上にぎゅうっと身体を縮こませて。背中を丸め、全身で『そこ』を押さえ込むようにして、ぴくりとも身動きせずにじっと全身を強張らせる藍原さん。
 その姿勢を少しでも崩してしまえば、危うい均衡は即座に破られてしまうのは明白で。
 藍原さんがまたもトイレを済ませずに戻ってきたのは間違いなかった。
 限界を超えた尿意をその身に抱えこんで、なお必死に抗い続けている藍原さん。
 なんで、どうして。
 あんなに急いで教室を飛び出して、向かった先はトイレではなかったとでも言うんだろうか。休み時間をまるまる費やして、結局間に合わなかったのだろうか。あそこまで余裕なく切羽詰まって、他に優先すべきことなんてないのは間違いないはずなのに。
 どうして藍原さんは、あんなになってまで我慢をしているんだろう。
 熱をもった想像が頭の中を巡り、思考を埋め尽くす。
 女の子のトイレ我慢。
 クラスメイトの、おしっこ我慢。
 気づいてから2時間半、ずっと目の前、すぐ間近で見せつけられたその姿は。どんな想像よりも生々しく目に焼き付いて、視線を反らすことも難しい。
「ぅ、ぁ……っくぅ……ッ」
 高まり続ける尿意は、とんでもないものになっているんだろう。いまや藍原さんは自分の席で、屈み込むように身体を丸め、ひとり必死に絶望に抗うだけだった。
 押し寄せる途方もない生理的欲求に。顔は歪み、頬は赤く火照って、唇は熱い吐息をこぼす。
 制服のスカートをくしゃくしゃに、重ね当てた手のひらで女の子の大事なところを直接押さえ込み、椅子の上に腰を揺すっては断続的に小さく声を上げる。
 休まることなく続くその痴態は、まるで僕に見せつけられているようなものだ。先生の話も頭に入らず、僕は授業の内容もそぞろのまま、緊張に渇いた喉に唾を飲み込むしかできない。
「ッ……ぁ、だめ、だめっ、き、ちゃうッ……」 
 びくり。かすれ声の悲鳴を上げて、藍原さんが全身に篭める力を強くする。
 ごぽり。身体の奥から湧き上がる、沸騰する猛烈な尿意の大波。それを手のひらで押さえ込み、閉じた腿の奥に押しとどめ、どうにかして堪え切る。藍原さんの我慢はその繰り返しだった。
 体内の水袋が震え、水圧が高まり噴き上がろうとするもっとも辛い一瞬を乗り越え、『波』を身体の内側に飲み込むために、ありったけの力を振り絞る。
 もう体力はとっくに限界なんだろう。今はただ気力を必死に振り絞って保っているだけ。無理かどうかで言うなら、3時間目の数学の時、床にしゃがみ込んでしまったあの瞬間こそが既に限界。無理、無茶、無謀の状態であったのだ。
 そこから、さらに過ぎること1時間。
「ぅ、くぅ……ぁ……っ」
 しきりに擦られる藍原さんの下腹部に、僕はぎょっとする。
 ――いくらなんでも、さすがにそんなことはないはずだと、錯覚だと理性は反論するけれど、でも。
 荒い息の隙間、苦しげに声を上げて藍原さんが擦り続ける制服のおなか。藍原さんを苦しめる悪魔の液体でぱんぱんに張りつめたそこが、身体の外側にまで膨らんでいるように見えるのだ。
 いったい、どれだけ。
 藍原さんは、どれだけおしっこを我慢してるんだろう。
 僕が最初に藍原さんの様子に気付いたとき、藍原さんはもう相当辛そうに見えた。もっと下の学年でも、女の子が人前であんな格好をしているのを僕は見たことはない。きっとそうなる前に、あらかじめトイレに行くのが普通なんだ。
 その時、もう隠すこともできなかったくらいだから、2時間目の時点で藍原さんはかなり我慢の限界に近かったはずだった。
 そこから2時間以上。藍原さんは天井知らずに高まり続ける生理現象とたったひとり、無謀な戦いを続けている。
 自分に置き換えてみれば、あんなになるまで我慢するなんて、よっぽどのことが無いと有り得ないはずだった。それこそ朝から一度もトイレに行かないままで――もしかしたらもっと前、昨日の夜からずっと我慢を続けているのかもしれない。
 ごくり。知らず、喉が音を立てる。
 喉の奥が熱い。かさついた喉がひり付く。頭の中が、ぐらぐらと熱に煮立っていくようだ。
 2時間目と、3時間目。それぞれの途中にある休み時間に、藍原さんにはいくらでもトイレを済ませる余裕があったはずだ。いくらチャイムが鳴っても、あんなにも我慢しているならそれは授業より優先すべきことだろう。
 そもそも、授業中にだって、きちんと手を上げて先生に訴えることだってできたはずだ。僕の知る限り、藍原さんはそういうことにあまり物怖じするような性格ではなかったと思う。
 それなのに――

『よけいな、こと、するなっ……!』

 あんなになってまで、それを拒むのは何故なんだろう。
 わからない。全然わからない。
 混乱の中、授業は進んでゆく。午前中最後の4時間目――藍原さんを捕らえ閉じ込め苦しめる地獄の時間。
 残り、あと35分。
 これまで、超人的な精神力で数々の難関を乗り切ってきた藍原さんだけれど。この35分を今の状態のまま耐え抜くのは、あまりにも無謀に思えた。
 藍原さんが『もうどうしようもなくヤバい』状態なのははっきりしている。いまや尿意の波に身体を竦ませる間隔は、10秒おきのハイペース。押し寄せる大波の周期が短くなりすぎて、せり上がってくる欲求は高潮と同じ。その一瞬一瞬に力を集中して耐えればどうにかやり過ごせるという『波』ではなくなってきているのだ。
 たぶん今の藍原さんには、1秒が1分にも1時間にも感じられているはずだった。その証拠に、藍原さんは黒板の上の時計の秒針を一時も目を離さずに睨みつけている。そうすれば視線の力で時計の針を早め、少しでも早くこの地獄の苦しみが短くなると信じているように。
 でも。
「~~~~ッ!!」
 びくっ、がたっ、ぐぐぐぎゅうううっ。
 藍原さんが息を詰めて全身を硬直させる。熱く疼く足の付け根を、はち切れんばかりに膨らんだぱんぱんの水袋の出口を押さえ込んで。藍原さんはきつく目を閉じ、歯を食い縛る。
 ……でも。

 じゅ。じゅうぅっ。

「……ッ、あ」
 それは、藍原さんの唇が震えて押し出された、熱く湿っぽい喘ぎと同時に漏れ出た音で。
 鈍く、ぎゅうっと締め付けられた布地の奥、肌を擦るような湿り気を響かせる、決壊の始まりの合図。

 しゅ、しゅるるぅっ。ぶじゅうっ!
 ぽた、ぽた、ちょろろろろっ。

 続く断続的な水流と、滴る雫の音は。耳を澄ましていたつもりのなかった僕にまではっきりと聞こえた。
 反射的に視線を向けた先。身体を深く折り曲げ、机にしがみ付くような前傾姿勢をとった藍原さんの机。
 椅子の下あたりに、ぽた、ぽたっとこぼれ落ちてゆく水滴が見える。
 藍原さんは――信じられないというように、あらぬ方に目を見開いて、ぱくぱくと口を開閉させていた。
 その唇の動きは――『だめ、でちゃだめ、がまん』。
 けれど――

 しゅっ、しゅううっ。しゅるるるっ。
 ぽたぽたたっ、ぴちょっ、ちょぽぽぽぽっ。

 藍原さんがきつく握りしめた脚の間。押さえ込まれたスカートが、その中心からじわじわと色を変えていく。
 椅子の天板を伝うように水流がこぼれ落ちて、床の上を跳ねる。机の下に広がる水滴は数を増し、小さな水たまりになって、なおさらにその範囲を広げていく。
 もう、ダムの決壊は避けられない。
 恐る恐る、足元の様子ちらっとだけ確認して。藍原さんは蒼白になって口を噤んだ。
「っ~~ッ、~~……ッ!!」
 びちゃびちゃの制服と、足元の水たまりを目にしてしまって。せめて、それ以上の犠牲を広げまいとしたんだろう。
 藍原さんはきつく歯を食いしばり、ばたばたと脚をばたつかせた。必死の抵抗が我慢の仕草になったのと、あとはおそらく――地面に広がる水たまりを誤魔化そうとしてのことだろう。
 けれど、いくら足掻いても身体の奥から噴き出す水流は押さえ込めない。上履きはちゃぷりと水たまりを跳ね散らかして、むしろ机の下にその領域を広げていく一方。
 そうしている間にも、じゅっ、しゅうっと噴き出す熱水がスカートを水浸しにして、ちょろろろ、ぽたぽた、細い水流が藍原さんの足を、ふくらはぎを伝い、ソックスの色を変えて、床に滴り落ちてゆく。
「っ、ぁ、ぅ、っく……ぁッ……」
 ダムの水門を突き破って噴き出そうとする水流を、藍原さんは渾身の力で堰き止めようとする。けれど、その懸命の努力も、永遠に等しい授業の残り時間の中、致命的な決壊の瞬間をほんの少しだけ先延ばしにする、無駄な足掻きに等しいもので。
 もはや藍原さんを襲う悲劇は、避けようのない運命だった。
「ぁ、ぅ……ッ、く、ぅうっ」

 じゅっ、じゅうううっ、ぶじゅうぅっ。
 ぱちゃぱちゃ、ちゃぱぱぱぱっ。

 よりはっきりと、水流の音が教室に響く。
 流れ落ちるおしっこが作る、床一面の大きな水たまりに、さらなる波紋が広がる。
 ぎゅうっと閉じた瞼に、涙を浮かべ、ぶるぶると首を振りながら。
 藍原さんは――縋るように見回した先。じっと、堪え切れない様な感情を溢れさせながら僕を見て。

『た、す、けて……っ』

 と、ちいさく唇を動かした。

   * * *

 何をすべきか分かっていたわけじゃなかった。
 どうするのが正しかったのかなんて、後になってから気付くことで。そこから僕がしたのは、錯乱のなかの無茶苦茶なものだったと思う。
 今日、こうしてずっと隣で藍原さんの様子を見続けてきて。どうやっても今からじゃ間に合わないと、確信できていたから。
 ごめん。
 ごめんなさい、藍原さん。
 何度も心の中で謝って。僕は鞄から水筒を引っ張り出して、蓋を外し、中身のお茶を残らず床めがけてぶちまけた。
 授業中にこっそり水分補給をしようとして手が滑り、取り落とした水筒の中身が運悪く藍原さんの席に降り注いでしまったのだと見えるように。
 どこまでうまくいっていたかは分からない。とてもじゃないけど自然な動作ではなかったし、もし一部始終をじっと観察していた人がいれば、僕が突然錯乱して、藍原さんにお茶を浴びせかけたようにも見えたかもしれない。
実際、それは間違ってはいないんだ。
 けれどとにかく――藍原さんの足元、床と、上履きと、靴下と――ぎゅうっと押さえ込まれたスカートまでを、狙い違わずにずぶ濡れにして。
 藍原さんの決定的な『失敗』の痕跡を押し流すように、水筒の中身のお茶は派手に飛沫を上げ、残らず床にぶちまけられた。
「うわあ!?」
「ちょっと、何!?」
 教室の後ろでクラスメイト達が騒ぎ出す。僕は一瞬だけ呆然としてから席を立ち上がる。言い訳みたいだけど、自分がしたはずのことなのに、この瞬間まで自覚が薄かったのだ。
「す、すみませんっ、お茶をこぼしちゃって――」
「何やってるんですか、もうっ!」
 4時間目の授業中、退屈な時間の中の騒ぎだ。辛抱しきれずざわつきはじめるクラスの中、先生がそれを鎮めようと黒板を叩く。藍原さんはじっと俯いて、机の端を握り締め、ぷるぷると震えていた。
「あーあ、床水浸しじゃんっ、鞄濡れちゃう!」
「ねえ、藍原さん大丈夫? 服とか濡れなかった?」
 教室の床一面に広がる水たまり――藍原さんの失敗を薄めて覆い隠す水筒の中身。
 朝から僕が何度か口を付けたせいで、水筒の中身は半分くらいになっていたはずだけど、そんなことを知っているのは僕だけだ。そもそも、床に広がった水たまりのうちいったいどれくらいがもともと水筒の中に入っていたのかなんて、気づかれるはずもない。
 藍原さんの足元で床に滴る雫と水流のうち、どれくらいが――お茶の成分なのかなんて。確かめようだなんて思うわけがない。
「……ああもう……藍原さん、平気でしたか?」
「…………」
 ぎゅっと足の間に手を挟み、うつむいたまま。藍原さんは答えない。きっと、ショックでそれどころじゃないのだろう。
「ごめんなさい、藍原さん……っ」
「そうですよ、授業中に何をやっているの、貴方は」
「す、すみませんっ」
 深く頭を下げて、先生の叱責を受け止める。どう言い訳したって仕方ない。僕が悪いことをしたのは間違いないのだ。先生はなおもしばらく何かを言いたそうにしていたけれど、やがて複雑な顔でそれを飲み込んで、
「モップを持ってきて、早く。藍原さん、あなたは保健室に行って着替えてきなさい。体操着でいいから、替えの服はあるわね? ――今日の保健委員は?」
 クラスのざわめきの中、モップを手にした先生は手早く床を拭き、濡れたバケツに放り込んでクラスを見回す。しかし生憎と保健委員も、日直も女子はお休みで返事はない。先生は眼鏡を押し上げて大きく溜息をつき、僕と藍原さんとを交互に見下ろして。
「仕方ないわね、責任を取って貴方が送ってあげなさい。すぐに戻ってくるのよ」
「えっ」
「さあ、早くして。……他の皆は授業に戻るわよ」
 まさかの指名に驚くが、先生はそれよりも授業を優先したいようだった。予定より遅れているのが気になっているらしい。クラスの中からええーっと不満げな声が上がるのを、ぱんぱんと黒板を叩いて静まらせる。
「……あの、藍原さん」
「…………」
 藍原さんはしばらく黙ったままでいたけれど、やがて席を後ろに引いて立ち上がった。椅子から持ち上がったスカートの端を伝うように、ぽたぽたと足元に水滴がこぼれていく。
 ずぶ濡れになった藍原さんの制服を目の当たりにして、僕は改めて、自分のしてしまったことに強い罪悪感を覚えた。
 こちらには視線を合わせないまま、藍原さんは教室後ろのドアを押し開け、何も言わずに教室の外に出ていこうとする。僕はそれを慌てて追いかけた。
 廊下に、ぺた、ぺた、と濡れた上履きの足跡が続いていた。
 びしょ濡れになった服を引きずって。藍原さんはふらふらと覚束ない足取りで進んでいく。
「ね、ねえ、藍原さん、そっちは保健室じゃ――」
「うるさいっ」
 伸ばしかけた手のひらが、ぺちんと強く叩かれる。熱く濡れた感触に、僕はびっくりして手を引っ込めた。
 ……いや。違う。
 そうだ。当たり前だ。藍原さんが怒るのだって、当然なんだ。あんなことをしておいてのうのうとしているだなんて、無神経にも程がある。
 僕は、藍原さんの前で深く頭を下げた。
「……ごめん!!」
 許してもらえるなんて思っていない。でも、そんなことはどうでもいい。女の子にこんなことをして、謝らなきゃだめだ。
「藍原さんっ、ごめんなさい!! その、こんな――こんなことして、服まで汚しちゃって……」
「ッ……」
 ばん。藍原さんが強く床を踏んだ。その迫力に気圧されながら、僕はもう一度深く頭を下げる。
「他に何も思いつかなくて、でも、放っておけないって思ったんだ。だから、それで――」
「……って」
「え」
「よけいな、こと、するなって、……言ったっ」
 キッと、僕を見上げて藍原さんが睨む。顔を耳まで真っ赤にして。ぎゅっと濡れたスカートを握り締めて、肩を怒らせ、眼には涙をためて。
 その視線に射竦められるように、体が動かなくなる。
 後退る僕を振り払うように、藍原さんはまた、よろよろと歩きはじめる。
「ま、待って、藍原さんっ、僕は――」
「離してっ!」
 反射的に伸びた手は、思い切り藍原さんに弾かれた。
 振り払われた手のひらは、熱く濡れて、火傷するほどに痛い。心臓の鼓動が煩いくらいに鳴り響いて、喉の奥に言葉が詰まる。
 こんな、こんなつもりじゃなかった。
 そうじゃないんだ。誤解なんだ。
 僕は、僕は、別に。
 たくさんの言い訳と、身勝手な正当化と、違うんだ、そうじゃないんだという言葉が、出口のない頭の中をぐるぐると渦巻く。
 だって、確かに一方的すぎたかもしれないけど、それでも。
 藍原さんにだって、本当にすこしも責任が無いのか、とか。
 あの時、確かに僕の方を見て――たすけて、と言ったくせに、とか。
 いろんな気持ちが綯い交ぜになって、言葉にならない。
 ただ一言、口を衝いたのは――
「――藍原さんっ!」
 彼女の名を呼ぶ、声。
 僕を置いてどんどん、向こうに行ってしまいそうになる藍原さん。ずぶ濡れの身体で――僕がびしょ濡れにした制服を引きずって、ふらふらと進んでゆく。その背中を呼び止めようと身を乗り出した。
「ねえ、そっちじゃなくて、こっちの方がっ」
 伸ばした手が藍原さんの肩に届いた、その時。
「っ、……バカ、ちがう、そうじゃないっ……!」
 振りほどくようにして振り向いた藍原さんは。
 顔を赤くして、その場に激しく何度も足踏みを繰り返し。突き出したおしりを左右に揺すり。
 スカートの付け根を、ぎゅうっと両手で押さえ込んで。
 激しくその場に身をよじり合わせながら、眼に涙を浮かべて僕に声を絞り出した。
 さっきと、まるで変わらない――猛烈な尿意に責め苛まれて。
 まるで小さな子のように、全身を使っての『おしっこ我慢』の仕草。
「……そうじゃ、ないのっ……!」
 ぶるぶるとかぶりを振って。藍原さんは叫ぶ。眼に涙を滲ませ、激しく身悶えし、不恰好に濡れた上履きで足踏みをしながら、僕に告白した。
 まだ、トイレを我慢しているのだと。
 あれからもずっと、おしっこを我慢し続けているのだと。
 もう、漏れちゃう、と。
「……ぇ」
 あまりのことに、僕が呆けている暇もなかった。
「あ、あっ……ッ、だめ、だめえっ」
 いまの感情の爆発がいけない刺激になってしまったのだろう。前屈みになった藍原さんの足の付け根から、ぶじゅうううぅっと大きな音が響いて、スカートの裾から一気に水流が溢れ出す。

 じゅうううっ、ぶしゅっ、ぶしゅうううううっ……!

 もう、ぽたぽたどころで済むはずがない。藍原さんが握り締めた股間から、ぱちゃぱちゃと噴き出す水流は、たちまち廊下の上に水たまりになって滴り落ちる。
「や……でちゃう……っ、でちゃ、ぅう……ッ」
 いやいやをするようにかぶりを振り、その場で身体をよじる藍原さん。交互に持ち上がる足の太腿を擦り合わせながら、中腰になって突き出したおしりをもじもじと揺する。その白い脚を伝うように、ぶじゅっ、じゅうぅと新しい水流が噴き出してゆく。
 上履きも、靴下ももうすっかり色を変えていた。湿っているどころじゃ済まない。水浸しだ。上履きの爪先から滴る滴が廊下に飛び散り、さらに広く藍原さんのオモラシの領域を広げていく。
 廊下の真ん中、教室の並ぶ学校の往来で。スカートの前を押さえ、中腰になって動けなくなってしまった藍原さんの足元に、どんどん水たまりが広がっていく。
 そうして、ついに。
「んぁ……はぅぅうっ……ッ」
 がくん、と藍原さんの膝が折れ曲がる。震える足では身体を支えきれず、とうとう藍原さんは廊下の真ん中にしゃがみ込んでしまったのだ。

 ぶしゅぅうっ、じゅじゅじゅうぅっ。

 同時に響く熱っぽい水音。押さえ込んだ指の間から噴き出す水流が、地面に広がる水たまりに注がれる。
 懸命に腰をよじり、踵をぐりぐりと下着の中央に押し当てて、ぐねぐねと腰を揺する。それでも、しゅるしゅる、しゅうっと漏れ出す水流の音は止まらない。
「ぁあっ、あ、だめ、っも、もれっ、ちゃ……ッ」
 長時間にわたって酷使されたダムの水門は、いくら引き絞っても、もう擦り切れてしまいそうに限界を叫んでいた。藍原さんの足元に飛び散る水飛沫がさらに激しくなる。
 だめだ。このままじゃ――。
 その言葉が、閃光のように脳裏をよぎった。
「藍原さんっ、こっち!」
 せめて、せめてこんな廊下の真ん中じゃなくて、どこか隠れられるような、他の場所で――そう思って伸ばした手を、藍原さんは両手で強く掴んだ。ぐいっと体重を乗せられて思わずつんのめりそうになる。
 熱く湿った感触に、僕の鼓動まで跳ね上がるけど、今はそんなこと気にしている場合じゃない。
 こんなところでしゃがんでしまっていたら、それこそ本当にもうダメだ。
「しっかりして! ここじゃみんなに見られちゃう。立たなきゃダメだよ、藍原さんっ」
「っや、やだ、だめ、出る、でるぅ……ッ」
 子供のように首を振ってイヤイヤをする藍原さん。普段の様子はもう見る影もない。
 しゅう、しゅるるっ、ぱちゃぱちゃっ。
 断続的に、藍原さんの足元に水滴が降り注ぐ。
 ダメだ。
 こんなところで。
 こんな廊下の真ん中で、女の子がおしっこだなんて。
「藍原さんっ、しっかりして!」
 僕は心を鬼にして、藍原さんを立ち上がらせる。
 藍原さんが動けないなら、無理矢理、引きずってでも連れていく、そう思ってその手を思い切り引っ張った。
「っあ、ダメ、ダメええっ!」
 藍原さんが悲鳴を上げたのは、それと同時。
 おそらく、この日一番の――藍原さんを苦しめ続けてきた尿意の中でも、特大の『大津波』。
 ずんっと、全身を貫かんばかりの猛烈な衝撃が藍原さんを貫いた。ちょうど、僕が藍原さんを立たせようとした、まさに最悪のタイミング。
 そうして押し寄せた凄まじい、身体の奥からの水圧に、藍原さんは身体を竦ませ、硬直させて。
 決定的な瞬間に、押し寄せる窮地にパニックになった藍原さんが、最後の判断を誤らせるのには、十分だった。
「……~~ッッ!!」
「うわあっ!?」
 想像もしないほどの力で、僕の腕がぐいっと引き寄せられる。
 乙女の水門を打ち破らんとする猛烈な水圧の高まり。
 それに対して、長時間の我慢で疲れ切って、判断力も曖昧になった藍原さんができることと言えば、ごく単純な手段くらい。
 すなわち――手に握るものを脚の付け根に押しつけて、おしっこの出口を堰き止め、塞ごうとすること。
 僕の手は、中腰になった藍原さんの脚の間、大きく捲れた濡れたスカートの奥、水を吸ってびしょびしょの布地に直接押し当てられる。
「ッッ……」
 藍原さんにしてみれば、きっと何かを考えてのことじゃなかっただろう。ただ反射的に、これまでと同じように、脚の付け根を押さえこもうとした、それだけ。
 そもそも冷静な判断なんてできる状態じゃなかったのは、明らかだ。
 でも。
 僕にとってそれは、あまりに突然の事態のことで。
「…………ぇ、っ……」
 ぎゅうううううっとものすごい力で掴まれ、押し当てられたその部分が。びっしょりと濡れて熱気の籠ったその布地が、藍原さんの女の子の部分を包む下着なのだということを理解して。実感して。
 ――『そこ』を触っていることが、どういう意味なのかを理解して。
 思わず手を引っ込め、押し退けようと、力を籠め――指を動かしてしまったのは。――言い訳じゃないけど、仕方のないことだったと思う。
「ッあ、ぁ、やだっ、ぁっあぁっあぁあっ……!!」
 ぎゅううっ。藍原さんが思い切り脚を閉じ合わせる。意識してのことじゃない。脚奥に響くイケナイ刺激への反射的なものだ。濡れた太腿に挟まれて、振りほどこうとした僕の手のひらは、むしろ強く押し付けられるように、『そこ』に密着する。
 けれど、そうやって、ダムの出口を堰き止めようとしたところでもはや、崩壊は支え切れることはなく――

 ぶじゅっ、じゅううぅっ!
 ぶじゅじゅじじゅじゅじゅうううううぅっ!

 布一枚。その奥で弾けるように、熱い水流が噴き出した。薄い布を突き破るように、猛烈な水流が僕の手のひらに直撃する。
 藍原さんが、我慢に我慢を重ねて、耐え続けた水袋の中身。ぱんぱんに膨らんだ水風船が、一気にその出口を開放させる。
 途中に遮るものがあるはずなのに――その水圧は途方もないもので。

 ぶじゅじゅじゅじゅっ、ぶしぃッ! びじゅばっ!
 びじゅじゅうううううううぅっっ!!

 まるで。ホースの先端を潰して押し当てるみたいに。
 僕の手のひらに、熱い水流が噴き付けられる。
 女の子のおしっこがどうなっているかなんて、どんな仕組みなのかなんて、僕は今日まで知らなかった。漠然と、しゃがんだり座ったりして済ませるものなんだという知識があったくらい。
 けれど、僕の手を直撃する水流は、途轍もなく強烈で、ぎゅうっと押さえ込まれた手は、吹き飛ばされてしまいそうなほどで。
 ものすごい勢いと、量を伴う水流の噴射は、男子のそれなんか比べものにならないくらい激しかった。
 まるで、手のひらに水圧カッターを押し当てられているみたい。その衝撃は、いっそ本当に手が切断されてしまうんじゃないかと思うほど。
「あ……ぁ……あぁあ……っ」
 大きく肩を上下させながら、藍原さんがふらふらと倒れ込んでくる。角度の変わった水流が下着越しに僕の手を直撃する。
 藍原さんのおなかから噴き出すおしっこは、まるでお湯のように熱くて。指の先が痺れて、火傷してしまいそうな錯覚すらあった。
 熱い吐息が、僕のすぐ耳元で聞こえる。
 我慢に我慢をかさね、懸命に耐えた苦痛、必死になって抗った2時間半。地獄のような苦痛を堪えた果ての解放は、藍原さんにとって、天国にも等しい解放感をもたらすものだった。
 ぶじゅうううぅっ、びしゅううううっ。水門を突き破る放水の勢いはとどまることを知らず、なお猛烈に激しさを増して。全開となったダムの放水口から、僕の手のひらに噴き付けられる。
 長時間にわたる我慢に酷使され、何度も押さえ込まれ擦りつけられて、すっかり赤くなってしまったであろう、女の子の部分から。ぽかりと口を開けた水門が、解放感の喜びにうち震え、ダムの中身を残らず絞り出そうと水流を噴射する。

 びじゅうぅっ、ぶじゅじゅぃいーーーーーッ!
 じゅびっ、びじゅじゅじゅばばばっ!!

 僕の手のひらにぶつかった藍原さんのおしっこは、四方八方に飛び散りながら、僕の制服までずぶ濡れにして。
 藍原さんの太腿をつたい、途切れない水流になって床一面に広がってゆく。
 その量も、勢いも、さっきまでの比じゃない。みるみる床を埋め尽くすほどの水たまりは、いっそ湖と呼んだほうがいいくらい。そこになお注がれる滝のように、黄色く温かい水流の噴出は続く。
 いっそ、湯気でも立ち上らせそうなほどに、熱く噴き出し叩きつけられて、藍原さんのおしっこは、少しだけ泡を立てながら授業中の廊下を水浸しにしてゆく。
 床に噴き出す水流が勢いを増す一方で、僕の手が触れる藍原さんのおなかから、みるみる力が抜けていくのが分かった。
 それまで、ぱんぱんに中身を詰め込んで、いまにもパチンと弾けてしまいそうに強張っていた下腹部が、びっくりするくらいの柔らかさを取り戻してゆく。

 ――でちゃう。ぜんぶ、でちゃう。

 藍原さんが、うわごとのようにそうつぶやいたのが聞こえた。
「ああぁ……っはああ、ぁあっ……」
 いちどは教室の中で限界を迎え、漏れ始めてしまったのを、気力を振り絞り、堰き止めて、どうにか中断していたオモラシ。
 それを、おそらく一番やってはいけないはずの場所で、してはいけない方法で、再開させてしまいながら。
 僕の目の前で、藍原さんがオモラシをしている。
「……でちゃう…ぜんぶ……っ、おしっこ……っ」
 廊下の真ん中、引き寄せられた手のひらに、藍原さんのおしっこが叩き付けられる。
 いつの間にか、藍原さんに寄りかかられ、抱き付かれるような姿勢になって。僕は全身で飛び散る藍原さんのおしっこを感じていた。
 ふらり。
 足取りの覚束ない藍原さんの体重が、じっとりと熱く僕の肩にのしかかってくる。
 支えを求めるように、きつく押しつけられた藍原さんの腕が、ぎゅうっと僕の背中を掴む。
 その間にも、藍原さんのおしっこはさらに勢いを増して、ぶしゅううびじゅじゅじゅっと噴き出し続けていた。
 女の子の温かい水流を、お互いの身体が触れ合う密着ゼロ距離で、直接、制服の上からズボンと上履きに浴びせかけられて。
 僕は耳の奥に、煩いほどに響く鼓動を聞きながら、じっとそこから動けなかった。
 藍原さんのおしっこが、僕の下半身を濡らしてゆく。
「ぁ……はぁあ……っ」
 解放感からだろうか。蕩けるように甘い吐息が、僕の耳をくすぐる。
 荒い息に肩を震わせ、尿意からの解放感に、腰を押しつけるように、なまめかしくくねらせて。
 赤く上気した顔を僕の胸にぐりぐりと押しつけ、背中をぎゅうっと掴む腕に力を込めて。
 迸る水音と、煩いほどに跳ねる僕の鼓動。
 喘ぎ声と、甘い吐息の狭間で。
 かすかにだけれど、確かにはっきりと。
 そっと僕の方に乗せられた藍原さんの唇が。

 ――『きもちいい』

 と、言葉を紡いだのがわかった。

 (了)

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