プール帰りのお話。

 突き抜けるような青空、じわじわと照りつける太陽が、アスファルトを焦がす。
 やかましいセミの鳴き声は絶えることなく響き、梅雨の名残を吹き飛ばす真夏の日差しは、濡れた髪を麦藁帽子の上からもちりちりと乾かしているかのようだ。
「んくっ、んっ、んっっ……ぷはぁ……、はぁーっ……♪」
 プール帰りの渇いた喉に買ったばかりのジュースを流し込み、彩花はふう、と額に浮いた汗をぬぐう。自動販売機の誘惑に負けてはしまったものの、ようやく喉の渇きを癒すことができ、茹だっていた頭にも落ち着きが戻ってきていた。
 夏休みが始まって一週間のプール通いで、すっかり日焼けした手足は、もうあちこち皮がむけ始めていた。背中の大きく開いたワンピースからは、くっきりと水着の跡がのぞき、まぶしいコントラストを見せている。
「あー、生き返ったぁ……」
 あんなに水の中に浸かっているのに、どうしてこうものどが渇くのかと不思議に思いながら、彩花はプール用具の詰まった自転車の前かごに、少しだけ残った飲みかけのペットボトルを放り込む。
 まさに、夏本番。
 始まったばかりの夏休みはまだまだ先が長く、街中にはあちこちを元気に走り回る、彩花よりも小さな子たちの姿も多く見える。
 遠くに見える入道雲をぼんやりと眺めていると、彩花のお腹が小さく音を立てる。
「……なんかお腹空いてきちゃったなぁ」
 まだ11時過ぎのはずだけれど、朝から遊び回っていた彩花の身体はさっそくお昼ごはんを要求していた。
 早く帰って何か食べよう、と決めた彩花はスタンドを外し、新調したばかりで少し高い自転車のサドルをまたぐ。
 と、
「んっ……」
 びりっ、という電流のような感覚に、思わず彩花は声をあげてしまう。
 サドルに押しあてられ、体重の掛かった股間を中心にして、じんっと響く甘い痺れが、彩花の脚の付け根からお腹の下のほう、身体の前側へと広がっていった。
 むずむずと股間の奥を刺激する感覚に、彩花は軽くサドルの上で腰をよじらせる。
(あー……、やっぱ着替える前におトイレ行っとけばよかったなあ……)
 あまり考えもなしにジュースを飲んでしまったことを、彩花は少しだけ後悔した。
 プールを上がるしばらく前から彩花の身体は尿意を訴えていたのだが、あいにくと更衣室のトイレが大行列だったものだから、順番待ちをする気にもなれず、そのまま着替えて出てきてしまったのだ。
 今にしてみれば、多少我慢してでもちゃんと並んでおけばよかったかもしれない。後悔する彩花だが、いまさら遅かった。
(……けっこう、おトイレしたいかも……)
 もぞもぞとサドルの上でおしりの位置を直しながら、彩花は自転車の前輪をぐりぐりとアスファルトに押し付ける。
 熱気と暑さと喉の渇きにいっとき忘れていたが、気づけば下腹部は硬く張りつめ、水門にもかなりの圧力がかかっている状態だった。学校の授業中でも手をあげてトイレに行きたいと訴えるか迷うあたりだし、休み時間なら、間違いなく最優先でトイレを目指すレベルだ。
「え、っと……」
 一度は家に向けて戻りかけた自転車を止め、彩花は唇に指を押し当てて考える。
 このまま家に戻るというのが当初の予定だが、それよりも先に、トイレが割りこんできそうな気配だ。
 しかし困ったことに、肝心のトイレが近くにはない。この近所には大きめの公園があるが、そこのトイレは男女共用で、入口こそ別だが中は完全に繋がっている設計なのだ。彩花としてはあまり積極的に使いたくはない……というか、できることなら入りたくないトイレの一つだった。
(……でも……)
 余裕のない下腹部は、できるだけ早い尿意からの解放を切に訴えていた。自転車のかごの中で、飲みかけたジュースがちゃぽんと揺れ、それに連動するように自転車のサドルが小さく震える。
(はやく、おトイレ行きたい……)
 空腹を塗り潰して下腹部にせり上がるダイレクトな生理的欲求が、少女の小さな嫌悪感をあっさりと上回る。少し回り道になるのを覚悟で、彩花はハンドルを逆方向に切って、公園への道を走りだした。
「よいしょ、…っと」
 公園入り口に自転車を止め、彩花はプールバックを片手に自転車を降りる。ぐうっと足の間に押し付けられていたサドルが離れ、圧迫するものがなくなった股間に、きゅうんと切ない痺れが走った。
「んんっ、ぁんっ……」
 急にやってきた感覚に小さく唇を噛んで、彩花はさりげなくスカートの前を握り、息をつめて、押し寄せる尿意の波をやり過ごす。自分でも知らないうちに彩花のワンピースのお尻が小さく背中のほうに突き出され、ふりふりと左右に揺すられてしまう。
(やぁ…っ、だめ、がまんっ……)
 ぷくり、と女の子の大事な部分に膨らむおしっこの気配に、きゅっ、と素足を交差させて、もう一方の手を自転車のハンドルに乗せたまま、彩花はしばらくその場に立ち尽くした。
「……ふぅ……っ」
 やがて、緊急警戒態勢の解除とともに、彩花はそっと緊張を緩める。
(危なかった…かもっ。で、出てないよね……?)
 硬直はわずかの間だったが、一瞬とはいえかなり危険な状態だったことに、彩花は密かにスカート下の感覚を確かめながら安堵した。ちびった様子はなかったが、下着の股布はしっとりと汗と熱気がこもり、紛らわしい感触を与えている。
 そして、おしっこの出口のすぐそばまで押し寄せてきた熱い水流は、いったん押し戻されてもまだ、出口のすぐ上あたりで渦を巻いていた。
「い、急ごっ……」
 夏の日差しに炙られておヘソの裏側でくつくつと沸騰するおしっこに急かされて、彩花は足早に公園の入り口をくぐり、まっすぐに公衆トイレを目指す。
 入口からそう遠くない場所に、目的のトイレはあった。
 古びたコンクリートの円筒形の建物は、落書きと埃で汚れたクリーム色の塗装のあちこちを剥げさせて、その上に蔦を絡めている。左右に空いた出口にはそれぞれ、紳士用婦人用の赤青マークが付いているが、中は一つにつながっていて、小用便器が二つと個室がひとつあるだけの簡素な設備なのだ。
(……うう、やだなぁ……)
 以前の苦い記憶が、彩花の足を鈍らせる。
 前にここに立ち寄ったのも、確か学校帰りの時だった。
 その時は彩花も中がこんなになっているととは知らずに、何気なく女子トイレの入り口をくぐったのだが、ちょうど中では低学年の男子たちがそろって用を足しているところだった。
 彼等は突然トイレには行ってきた少女を見つけて、男子トイレに入ってきたと勘違いし、口々に彩花を指さして大騒ぎを始めたのだった。
 誤解だと言おうにも、いちど騒ぎ出した彼等が簡単におとなしくなるわけもなく、彩花は大急ぎで回れ右、後ろ髪をひかれる思いでトイレを後にするしかなかった。
「私、別にヘンタイじゃないもん……」
 顔を赤くしながら、彩花は思い出の中の光景に口を尖らせる。
 とは言え、彼等の勘違いもまったく理不尽なものではない。昔は良くあるタイプのひとつだった入口は別でも中ではつながっている男女共用トイレだが、設備が改善された今では滅多に見られない。
 ここ以外にそんな奇妙なトイレを知らない彩花やその少年たちにとっては、ワケのわからないヘンなトイレ、くらいの認識でしかなかった。加えて、彩花が知る由もないが、この公衆トイレの中の設備は、標準的な男子トイレのそれとほぼ同じであった。
「ぅう……」
 おそらく男の人も普通に使っているだろう個室に入り、そこでおしっこを済ませるのはかなりの抵抗感があったが――それを無視しなければならないくらい、彩花の尿意は際どいものになっているのだった。
「…………」
 慎重に様子をうかがい、彩花はできるかぎりのさりげなさを装って、トイレの入り口を入る。すぐにこもった匂いと、薄暗い建物の中の熱気が押し寄せてきて、思わず顔をそむけたくなった。
(誰も、いないよね……?)
 不快感を我慢し、建物の中に入った彩花は、小用便器に向かう背中がないことを確認する。しんと静まり返ったトイレには、人の気配は感じられない。
 ぐずぐずしていると誰が来るともわからない。彩花はそのまままっすぐに個室へと向かった。
 別々の入り口に男女のマークを刻んでおきながら、ここのトイレで彩花が使える女の子用のトイレはこれひとつだけだ。不平等さに心の中で不平を言いつつも、古びたノブに使用中の赤いマークがないことを確認して、ドアをノックする。
 返事はない。
「……入ってますか……?」
 念のためにもう一度ノックを繰り返してから、彩花はドアを引きあけた。
 ぎし、と木のドアが軋み、あまり掃除のされていないタイルの向こうに、和式タイプの便器がひとつ、設置されている。洋式だったら座りたくないな、と思っていたところだったので、これは素直にありがたかった。
 後ろ手に鍵を閉め、彩花ははやる足で個室に駆け込む。
(んっ……まだ、まだっ、油断しちゃダメ……)
 どうにかトイレまでやってこれたが、ここで気を緩めるわけにはいかない。我慢が厳しいときはトイレに入った瞬間が一番『危ない』のを彩花は実体験をもって知っている。
 小さく腰を揺り動かしながら、彩花は便器の上をまたいでスカートをたくし上げる。床に触れないように慎重に布地を腰上に引き上げて、下着に指をかけ――
(よし、間に合っ……)
 腰を深く下ろそうとした、その瞬間。
「っ…………!?」
 彩花は息を止めて、戦慄した。
 まさにおしっこをしようとしたその時、彩花はタイルの上をうねる、ずらりと並んだ足を蠢かせるその姿を見つけてしまったのだ。
 はじめは見間違いかと思い、こんどはまじまじと。計5秒ばかり『それ』を見つめて、彩花は戦慄する。
 彩花が大の苦手にしている虫の、中でもとりわけ大嫌いなムカデが、脚を波打たせて便器のすぐ脇を這っていたのだった。
「っ、ひぁあぁぁあああッ!?」
 ぞわりとうなじが逆立ち、悲鳴が口を裂く。
 下ろしかけていた腰をぐいぃっとひねり上げ、次の瞬間には彩花は個室を飛び出していた。乱暴に叩き開けたドアから転がり出るようにして、公衆トイレの外まで一目散に走った。
「っ、っっ~~~~っ!!!」
 なおもそこから全力疾走で30mほどを駆け抜け、だん、だん、だんっ、と背筋に走った怖気を踏み潰すように悶え、彩花は両腕をきつく抱き締めた。
「っ、っは、はぁ、はぁっ、……や、やだぁ……もぅっ!! なによう、なんで、あーもうっ!!」
 はあ、はあ、と緊張と驚きに乱れる息を繰り返しながら、彩花は毒づいた。
 嫌になるくらい鮮明に見てしまった不気味な姿に、背中に鳥肌が立つ。ぶるる、と寒気のする腕を自分で抱きかかえ、じろり、と遠くなった公衆トイレを睨む。
「……だからこのトイレ嫌なのよぉ……っ」
 大きく溜息をついて、彩花は毒づいた。
 もう、なにがなんでもこのトイレには入れない。個室にあんな気持ちの悪いモノがいると分かっていたら、ドアノブにすらも触れないくらいだ。
「……っ」
 うぅーっ、と唸り声を上げながら、なおもしばし、彩花は理不尽な憤りをコンクリートの建物にぶつける。やり場のない怒りと恐怖が、ぐるぐると渦巻いてうまく言葉にならない。
 だが――
 わずかながら気分が落ち着き、荒くなった息が収まってくると同時、一時は忘れられていたもうひとつの切迫した事態が、自己主張を再開した。
 きゅん、と下腹部が独特の収縮をはじめ、むず痒いような感覚がじわじわとせり上がってくる。
(あ、っ……)
 下着の奥に感じる危険な痺れに、彩花は慌ててスカートの前を押さえ込んだ。
(……で、出ちゃったり、してないよね……?)
 幸いなことに下着に感じる湿り気は、汗によるもののように思えた。本当は違うのかもしれないが、あえてチビったとは思わないことにする。
「ぁう……っ」
 しかし――ちょうどまさに“出る”ところだったおしっこが突然中断され、下腹部の欲求は当然のように激しく高まっていた。断続的にきゅんっ、きゅんっ、と疼く感覚は、しっかり出口を締め付けていなければそのままおしっこが始まってしまいそうな具合だ。
「っ……ど、どうしよ……、と、トイレ……」
 このトイレが使えないことに彩花は異論はない。どんなに苦しくても、あんな気持ち悪い場所はもうトイレにカウントすらできない。誰かに一生のお願いで頼まれたって、もう二度と立ち入ることはないだろう。
 けれど、だとするなら――他にトイレは?
 当然ながら周囲を見回しても、そんなものがあるわけもない。膨れ上がる不安と共に、彩花はぎゅうっとスカートの前を握り締めた。
「そ、そんなに考え込むことじゃないよね。普通に、家まで帰ればいいだけだし」
 もともと最初はそうするつもりだったんだし――。そう、自分に言い聞かせるように、彩花は公園の入口へと戻ることにした。来た時よりも数段慎重な歩き方は、一度なりともトイレに入ってきたとはとてもではないが思えない様子だ。
(……そ、そうよ。ほんの10分くらいだもん、我慢できるって)
 そうやって具体的な数字と、明確なゴールが頭の中をよぎると、それに反応するようにじぃいんっ、とイケナイ感覚が高まってしまう。まるで頭の中に『あと10:00』を刻むデジタル数字のタイマーが点灯して、カウントダウンを始めたかのようだ。
「ぁぅ……」
 小さく呻いた手のひらは、さっきからスカートの前を離れない。当てているだけ、のはずの指が、時折びくっと力が篭められて、下着の奥に大きく膨らんだ水風船を押さえ込む。
 それらがしつこく求めるのは、女の子の羞恥心やプライドによる『おうちまで我慢』などよりもっと原始的で、シンプルな解決方法だ。
(はやく、おしっこしたい……っ)
 水分の摂取と新陳代謝の結果、当然訪れる生理的欲求は、下腹部に閉じ込めた液体の解放を切に求め、それに応じようとしない彩花にますますはしたない姿勢を強要してきていた。
 加えておなかが空いているせいでか、ぐぅ、とへこむ胃袋の分まで、膀胱が大きく膨らんでいるような気さえしてくる。
 とにかく早く帰ろう、そう思い精一杯急いで公園の入り口に戻った彩花だったが――
「あ、あれっ……?」
 公園の入り口横で、彩花は予想外の出来事に呆然と口をあけてしまった。
 抜けるような青空の下、蝉の声がむなしく響き、じりじりと真夏の日差しが地面を焦がす。来た時と寸分違わぬ夏の光景。
 しかし、入り口のすぐそば、確かにあるはずのものが、見付からない。
 ――ほんの少し前に停めたはずの自転車が、そこから煙のように消え失せていた。
「う、うそっ」
 そういえばさっき慌てていたせいで、カギをかけていなかったような――
(で、でもほんの五分くらい……なのにっ?)
 しかしそれ以外の理由は見付からない。自分の不用心な行為に、さあっと彩花の顔から血の気が失せる。
 慌てて周囲を見回すが、当然ながらそんなところに自転車が見付かるわけもなかった。来た時と同じ、人気のないアスファルトの道路で、彩花は言葉を失ってぼんやりと立ち尽くすばかりだ。
「ど、泥棒……? なによぉ、それ……っ!!」
 他に結論はないだろう。まだ買ってもらったばかりの自転車を、見ず知らずの誰かに奪われてしまったことに、彩花の胸にふつふつと怒りがこみ上げてくる。必ずつかまえてやらなきゃ、という静かな闘志を燃やす彩花だが――
 さしあたっては、そんなことよりもずっと優先すべき事項として、さらに切羽詰まった状況が少女を待ち受けていた。
「ぅぁっ……」
 ぞわわっ、とこみ上げる尿意の波に、小さく悲鳴がこぼれる。
 彩花はたまらず身体をよじり、手に提げたプールバッグを握るもう一方の手までぎゅうっと足の付け根に押し付けてしまう。
 あとは帰るだけ、のはずだった予定が大きく狂ったことに、下腹部が大きく抗議の声を上げているのだ。
(……ちょ、ちょっと……待ってよ……っ)
 つうっ、と彩花の首筋に嫌な汗が流れ落ちる。
 自転車泥棒のことは、とりあえず脇に置く。十分すぎるくらいに重大事件で、今すぐ探し回って見つけて捕まえてやりたいが、それでも――それよりももっと今は先に、早急に済ませておかなければならないことがある。
(お、おしっこ……っ)
 こみ上げてくるはしたない衝動が、少女の腰を小さく揺らす。
「え、えっと……っ」
 ぶるぶると頭を振って、優先順位を整理する彩花。
 残り、10分――すでに始まっているカウントダウンは開始から何十秒かを経過しており、こんな場所でもたもたしている余裕はないぞと、少女を急かす。
 しかしそのカウントダウンはそもそも、ここからまっすぐ自転車で家に帰った場合の残り時間だ。その自転車がなければ、彩花に残された手段は当然、徒歩のみ。残念ながらさっきジュースを飲んでしまったせいでバス代なんて持っていない。仮にあったにしても、バス停まで歩いてバスを待っている時間も惜しい。
 歩いて帰るしかないとなれば――、家までかかる時間も倍以上に伸びてしまう。それはとりもなおさず、おしっこできるのがそれだけ遅くなってしまうことを意味していた。
 この真夏の日差しの中を、おしっこを我慢しながら30分近く歩け、と。つまりは今彩花に要求されているミッションは、そういうことだ。
「ど、どうしよ……ぅ」
 極端に難易度の跳ね上がった時間制限に、彩花は動揺を禁じえない。
 その不安に連動するように、ぎゅ、とプールバッグの下でスカートの前を押さえル手に力が篭もる。じわじわと膨れ上がる尿意は、膀胱を大きく圧迫し、思っていた以上に予断を許さない事態になりつつあった。
(こ、こんなの、い、家まで間に合わない……かも……っ。す、すっごく、したくなってきちゃった……っ!)
 くつくつと煮詰まった尿意が、おヘソの裏で沸騰しているような、そんな感覚。わずかな油断もダイレクトに衝撃となってたぷたぷと揺れる膀胱に響く。
「と、とにかく、急いで……あぅっ…!」
 早く家に。あるいは早くトイレに。そのどちらでも構わないから、とにかく急いで出発する必要があった。じっとしていても、おしっこはできない。
 じいん、と踏み出しかけた足裏から伝播する振動に、思わず小さく声を上げ。少しでも気を紛らわせようとそわそわ揺れる腰をかばいながら、彩花はできる限りの早足で、公園を飛び出した。
 人生、焦っているときに限って、間の悪いことはあるものだ。
 いつまでも押さえているわけにも行かないのでプールバッグは肩に掛け、全速力で――お腹をそおっとかばいながらなので、走る、というわけにもいかなかったが――歩き始めた彩花は、公園を出た最初の交差点で、空気を読まない信号につかまってしまう。
 赤色を点灯させた歩行者用の信号に、怒ってもしょうがないとはわかっていても彩花は苛立ちを隠せなかった。
「もぉ……っ、こんな時にぃ……っ」
 ここいらの交差点はやたらに信号が長いことで有名なのだ。先を急ぐ彩花には鬱陶しいことこの上ない状況だったが、けれど中央分離帯の生垣まである片側2車線の道路は、さすがに信号無視して渡ってしまう訳にもいかず、しかたなく横断歩道の前で足を止めざるを得ない。
(せっかく急いできたのに、これじゃゆっくり歩いてても変わらなかったじゃないっ……)
 排気を巻き上げて進んでゆく大きなトラックに、ゆっくり交差点を曲がる市営バス。さらにはたくさんの乗用車。横断歩道の前を行き交う車にまだかまだかと焦れながら、彩花はなんども信号を覗きこむ。
「はやくしてよぉ……っ」
 じっとしていればしているほど、膀胱をぱんぱんに張りつめさせたおしっこは、おヘソの裏側にずしっと重くのしかかる様な存在感を増してゆくようだった。気を紛らわそうとすればするほど、かえってそれが意識されてしまい。彩花の爪先は自然、リズムを取るように小刻みに動きだしてしまう。
 彩花のおなかの中でたぷんと揺れるおしっこは、茹だるような夏の日差しで熱せられて煮詰まって、ますます濃度を濃くし、より一層強い尿意を感じさせるうような気までしてくる。
(……これ渡って、次は右で、そこからまっすぐ行って、坂を越えて……、玄関、鍵かかってるかな……開いてれば早いけど、でも……)
 まだ遥か先の家のトイレへと、彩花の心は一足に飛んでいた。想像の中では早々と家まで帰りつき、玄関を開けて靴を脱ぎすて一目散に廊下を走り、突き当りのトイレへ。飛び込んでドアを閉めて鍵をかけて、そうなればもう後は周りも気にしなくてもいい。脚を寄せあわせながらもじもじ我慢して、下着を下ろして便座に腰かけて――
「……あ、っ」
 そんな想像が、いけなかったのだろう。
 もう一方の歩行者信号が、ちか、ちか、と青色を点滅させ、まもなく切り替わることを知らせ始めたとき、ごう、と熱気を巻き上げて走るトラックを引き金に、彩花に大きな波が押し寄せてくる。
「っ、やば……っ」
 声を上げる暇もなく、両手がスカートの間に延びた。ほとんど反射的に、彩花はぎゅうっと両手で脚の間を押さえ込んでしまう。プールバッグが肩からずり落ちて、地面にぽすん、と転がった。
(あ、あっ、あっ)
 じん、じんっ、きゅうんっ、ぴくっ、ぴくぅんっ。
 女の子の大事な部分が小さく痙攣をはじめ、こみ上げてきた熱い衝動が足の付け根に溜まってゆく。前かがみになって重ね当てられた手のひらは、スカートを太ももの間に巻き込んで、直接下着の上からおしっこの出口を押さえ込む。
 その下ではぐいっと寄せあわされた膝がくっつき、サンダルの足が交互にせわしなくアスファルトの地面を踏む。
 たん、たん、たんっ、ぐらぐら揺れる上半身にあわせて、腰も滑らかにクネり、突き出されたお尻がぴくんぴくんと持ち上がる。
 きぃん、と耳の奥でかん高い音が鳴り響き、目の前がすうっと白くなる。想像の延長線上のままに、このままここでおしっこを出し始めてしまおうとする自分勝手な身体を、彩花は懸命に押さえ込んだ。
 じん、じんっ、びり、びりりっ。
 甘くむず痒く痺れるような感覚が股間を何度も往復し、ぎゅっと引っ張りあげられた下着を包み込んでゆく。股間にきゅうっと食い込む下着はしっとりと湿り、肌に張りつくようだ。
(んっ、っは、んぅ、んんぅっ……)
 は、はっ、と荒い息を繰り返し、メトロノームのように上半身を左右に揺らして、彩花は押し寄せる津波をやり過ごす。ぐうっと水圧が高まる時は必死に息を止め、わずかに緩む瞬間を見計らって息継ぎをする。タイミングを図り間違えば、一番脆い部分からそのまま津波が溢れだしてしまう。
 まるで本当に海で溺れかけているようだった。
「んっ、っ………ふぅ、はぁ……っ、あ、……っ!?」
 何十分もそうして固まっていた気がしていたが、実際はほんの数秒のことだったらしい。彩花がどうにか波を乗り越え、我に返った頃には、とっくに信号は青に変わっていた。
「あ、わ、渡らなきゃ……!!」
 車の騒音が途切れていることにふと顔を上げてそのことにようやく気づき、彩花はプールバックを引っつかむ。
 まだざわざわと落ち着かない下腹部からは、手を離すことができなかった。精一杯のさりげなさで、スカートを握り締めながら、その下を確認する。
(……よ、よし……だいじょうぶ……)
 まさかの事態には至っていないことに、彩花は大きく安堵する。
 太腿はこわばり、脚の付け根にはまだ違和感がある。背中にもぐうっと気張っていた瞬間の嫌な汗が浮かんでいた。
(あ、あぶなかったぁ……い、いまの、ホントにやばかったかも……)
 もう少し、なにかの加減で気が抜けていたり――押し寄せる波の圧力が高まるタイミングを図り損ねて、出口を押さえつける力を入れる瞬間を間違えでもしていたら、間違いなく『ちょろっ』とは――かなり控えめに考えても――“出て”しまっていたかもしれない。
 長い横断歩道を渡りきり、そそくさと歩きながら、彩花はそっと周囲を確認、背後をそろそろと振り返る。
(み、見られてなかったよね……?)
 今の“前押さえ”は、足踏みに腰振りまで組み合わせた、よっぽど小さな子でもやらないような、全身全霊の我慢だった。いまどきパントマイムだってあんなに『おしっこ、でちゃうぅう!!』なんてフリはしないかもしれない。
 確かにあとほんのもう少しで出てしまうところだったとは言え、まさか横断歩道の真ん前ではじめてしまうのは、さすがにためらわれるほどのものだった。
「…………」
 幸いなことに何度周囲を見回しても、彩花を気にしている人の視線は見当たらなかったが、それでも気になるものは気になるのであった。
 ひとまず安堵する彩花だったが、
「……んぅ……っ」
 すぐに、乗り越えたはずの波が返すように“揺り戻し”がやってくる。さっきまでのものに比べれば些細なものだが、それでも平然としているのは無理な規模だ。
 眉を小さくよじらせながら、彩花はぎゅっと唇をかみしめ、歩幅を狭めてそれをやり過ごすのだった。
(あー…っ、だ、だめ、おしっこ、おしっこしたいっ……や、やっぱ、こ、これ、どこかで……おトイレ寄らないとっ、だめかもっ……)
 家までの道のりの半分も過ぎていないところで、彩花はそう決心――あるいは挫折せざるを得なかった。横断歩道でのピンチを皮切りに、押し寄せる“おしっこがしたい”波はさらに激しくなりだしている。
 こういうものにも癖みたいなものがあり、一度なにかで我慢が辛くなると、そこから持ち直すのは相当に難しいのだ。
 往々にして生理現象に抗するのは物理的な限界よりも精神面に依存するものが大きく、残念ながら彩花はそういった“我慢”の才能には恵まれていない。
(どうしよう……どこか、近くにおトイレ、なかったっけ……?)
 まさか、見ず知らずの家の玄関を叩いて『おしっこさせてください!』というわけにもいかない。しかしこのあたりにはコンビニやスーパーも少なく、気軽に彩花が利用できるような公衆トイレはすぐには見つかりそうになかった。
 自転車ならすぐにたどり着ける距離でも、こうやって歩いてみるとなると存外に遠いものだ。普段あまり通らない道だけに、そのギャップに彩花は戸惑ってしまう。
「……んっ……」
 次々とやってくる小さな波を乗り越えながら、うまくまとまらない考えを懸命にめぐらせる。
(えっと、だから……コンビニとかって、トイレ借りたりできたっけ……? ……学校……は、全然別のほうだし、だ、誰かのおうちで……でも)
 ぶるぶると震え出す下半身が思考の邪魔をする。そんなことよりもオモラシしたくなきゃ一生懸命我慢しろ、と身体のほうが訴えているのだ。
 ますます重く鈍く、下半身の中で存在感を増す膀胱が、石のように硬く張り詰めて、時折ぴくんぴくんと出口のほうを震わせる。自分の身体のことなのに思うようにならず、まるで心も身体も小さな頃に戻ってしまうようだ。
「……あーもう、あたしの馬鹿……っ。な、なんでプール出る前に、おトイレ寄ってこなかったかなぁ……っ……」
 おまけにたいした考えもなしに自動販売機のジュースを飲んでしまったことまで思い出し、彩花はまた後悔する。水分を摂ったという想像から連動して、おなかのなかにこぽこぽっと音がして水分が注ぎ込まれてしまうようですらあった。
 いまなら、もう二度と立ち寄らないと決めたはずのさっきの公園の公衆トイレすら、歓迎できそうだった。……もちろんそれには虫がいないというのが大前提ではあるけれど。
 といって、ここまで歩いてきて今更戻ろうにも、そうはいかない。
「って、いけない、いけないっ……」
 いつのまにかトイレを探しているつもりが、頭の中が『おしっこしたい』という願望だけに変わってしまっている。まるで、またさっきの横断歩道での『やばい』のが来てしまいそうな気がして、彩花はぷるぷると首を振った。
 いずれにしても、このまま家まで持つかどうかはかなり怪しくなりだしている。勝手に始まった残り10分、のカウントダウンはのこり2分半を残すのみ。これじゃあウルトラマンにも負けてしまうだろう。
「……と、トイレ……っ」
 きゅん、と下腹部の訴えがそのまま言葉になって、彩花のくちびるをふるわせる。一応、他のトイレにもいくつか心当たりが思い浮かびはしたが、そのすべては、ここから大きく回り道をしなければならなかった。
 それくらいなら、最初からまっすぐに家を目指したほうが早い。だがそもそも、底まで間に合いそうにないからこんなことになっているわけで――
 ぐるぐる巡る思考に出口が見付からず、知らず、不安に駆られた手のひらがスカートの前を押さえてしまう。布地の上からでもはっきりとわかる、ぱんぱんに張り詰めた下腹部と、じんっ、と響く甘い痺れに、ますます彩花の心はざわつき出す。
(っ……お、おしっこ……)
 おしっこのタンクと直結したバルブが、高まる水圧に耐えかねてカタカタと揺れている。別に悪いことをしているわけではないのに、彩花は思わず周りを見回してしまう。普段はあまり着なれていない、女の子っぽいワンピースを着ているせいなのか、なんとなくいつもならなんでもないはずのことが妙にやりづらく感じられた。
『工事中 通行止め』
 大きな文字が行く手を塞ぐ。交通整理のお兄さんと四角い看板の向こうでは工事の人たちが多勢でアスファルトを剥がし、がりがりとドリルのようなもので地面を削っている。
 彩花の不幸は続く。まるで、町中の何もかもが結託して彩花に意地悪をしているかのようだった。
「んもぉ、急いでるのにーっ……!!」
 思わず漏れた悪態と共に、通行止めの看板を睨み、彩花はきゅっと唇を噛んだ。
 看板には迂回路の地図もあるが、どう見ても大きく遠回りを余儀なくされるルートであり、ゴールまでの距離をさらに遠ざけるものあった。
 残り時間10分で始まったカウントダウンは残りわずか数十秒。ロスタイムは確定間違いなしだ。……というよりも、ロスタイムのほうが明らかに長いだろう。
(んんぅ……っ)
 看板の前で立ち往生している彩花を、容赦なく尿意が襲う。腰がくねくね揺れそうになる。左右の脚がたん、たんと足踏みを始め、膝がぎゅっと重なって、爪先がぐりぐりとアスファルトをねじる。
「通行止めでーす。すみません。迂回してくださいー」
 未練がましく通行止めの看板前に立っている彩花を促すように、赤いライトブレードを振るう交通整理のお兄さんが言ってくる。
 その上でなお通行止めを突破するなんてことは、彩花にできるはずもなかった。赤くなった顔をそそくさと背け、渋々迂回路に入る。
(おしっこしたい……はやくおしっこ、おしっこ、でちゃう……っ)
 『おトイレ』ではなく『おしっこ』。
 よりもダイレクトに身体の欲求に従う言葉で、どんどん頭の中が塗りつぶされていく。おなかの中だけではなく、頭の中までおしっこでいっぱいになって、彩花の歩みはよちよちと小さな歩幅の、おぼつかないものに変わっていた。
 迂回路は彩花の通ったことの無い道で、さらに少女の不安を加速させた。
「……えっと……っ」
 さして広くない道は、進むに連れて最初の方角から違う方向に曲がっていく。目的地からさらに逸れてゆくことに、彩花は徐々に焦り出していた。このままだと全然違う場所に出てしまうと思うのだが、どこまで歩いても元の道に戻る方向に道が見つからない。
「も、もおいいや、この辺に入ればっ」
 とうとう痺れを切らし、彩花は近くにあった狭い路地の中に飛び込んでしまった。ほとんど人が一人通れるかどうかくらいの狭く入り組んだ道を、勘を頼りに進んでゆく。
(た、たぶん……こっちの方に……)
 だいじょうぶ、だいじょうぶ、と自分を励ましながら彩花は折れ曲がった路地を歩く。旧い住宅街の一角らしい路地は、左右に複雑にうねり、ぐねぐねと曲がり続けていた。
「っ……」
 ぴくん、と背筋が震え、彩花の手のひらが再度、ぎゅっとスカートの上から脚の付け根を押さえ込んだ。せめて人目が無いのが幸いだった。人前ではできないような我慢の仕草を繰り返しながら、彩花は精一杯急ぐ。
 が……
「え、っと……」
 歩けども歩けども先が見えない。まるで迷路のように入り組んで枝分かれした路地は、4、5回曲がったところですっかりどこへ向かっているのか分からなくなってしまっていた。背伸びをして先を見通そうにも、見覚えのある目印は見当たらない。
 そして。
 彩花はとうとう路地の側にある『この先通り抜けできません』の文字に突き当たる。いつの間にか、完全に道に迷ってしまっていたのだ。
「そ、そんなぁ……っ!!」
(う、嘘、だってさっきの方じゃなくて、こっちなら……んっ、……くぅぅ)
 普段の彩花がこんなことで道が分からなくなるはずはなかった。
 トイレを我慢し続けることに懸命なせいで、物事を考える余裕がなくなっているのだ。今の彩花では二桁の暗算すら普通にできるかもあやしいだろう。
 道は行き止まりだが、その一方で彩花のおしっこは行き止まりの指示を無視し、出口を突き抜けようとしている。下腹部のティーポットはぐらぐらと沸騰をはじめ、じんじんといけない予兆を響かせていた。
「ぁ……っ」
 ちりちりとつのる尿意は脚の間を通り越して股間の先端まで達し、突如『通行止め』にされた本来の出口を迂回して、いっそおヘソあたりから噴き出せないかと試してでもいるようだ。
 ぎゅうっ、と握り締めたスカートの布地の下で、またひくんっ、ひくんっ、と出口が痙攣をはじめる。
「ぁ、あっ、あ……」
(ど、どうしよぅっ……)
 うろたえながら後ろを振り返る彩花。しかし、そこには当然のように、迷いながら歩き続けてきた路地が続いている。
 もはや、尿意は限界に達しつつあった。
「ど、どうしよう……ホントに、これじゃあ……っ」
 10分のカウントダウンを超過し、ロスタイムに突入した我慢の中、切羽詰った声が、切なく喘ぐ息の隙間からこぼれる。
 彩花の視線は、路地の片隅、電柱の根本へ向けられていた。
 たまに、飼い犬の散歩をさせている人が、そういうところで犬におしっこをさせているのをみることがある。ペットにもトイレがあるが、犬は別に外でおしっこをしたって怒られたり恥ずかしがられたりしない。
 そして、滅多にないことではあるけれど、彩花は男の子や男の人が、やはり電柱の根本や道端でおしっこをしているのを見たこともあった。
(ぅ……そうよ、男の子なら……べ、べつにそのへんでしちゃうこともあるのに……っ……)
 けれど、女の子はそんなことは絶対にできない。
 お外の、しかも誰が通るとも分からない道端で、お尻を丸出しにしてしゃがむなんて――絶対に、絶対にありえない。
 ……ありえない、が。
「で、でもっ。もし本当に、間に合わなくなっちゃって……パンツ汚しちゃうくらいなら……っ」
 オモラシと、どっちがいいのかと二者択一を突き詰められれば、その時は……
 そうやって『ありえない』を仮定した想像をするうち、彩花のおなかはさらに硬く張り詰め、身体の外へとわずかずつせり出してゆく。
(もし、もしも、だけど。本当にそうなっちゃったら……やっぱり……)
 あくまで仮定を貫いたまま、彩花は『その時の場所』を吟味し始める。
(で、できるだけ、見えないトコで……人も来なくて……)
 排泄を渇望する心のまま、道脇の排水溝や、曲がり角の手前の小さなくぼみ、カーブミラーの根元、フェンスの脇……あちこちを移り変わる視線の先に、彩花は自分でも知らないうちに『おしっこのできるトコロ』を探し求めてしまっていた。
 ふと我に返って自分を叱咤しようとするが、
(だ、だから、そうじゃなくって、そもそもお外でおしっこなんか……だめ、なんだからっ……!!)
「んっ……」
 そう強がる心とは裏腹にまた“ぴくん”と反応しそうになったおなかを押さえ、彩花はきゅっとおしりの孔に力を込めて、小さなおなかのなかいっぱいに膨らんだ水風船を、身体の内側に抱えなおす。
 しかし、一度そう考えてしまった頭からは、そう簡単におしっこの誘惑は振り払えない。たとえここが往来の道端だとしても、そこにしゃがみ込んで我慢に我慢を重ねた熱いほとばしりを思う存分噴出させるその心地よさの想像は、がっちりと彩花の心をつかんで離さなかった。
(で、でも、だめだけど、ほ、ホントはだめだけど……っ)
 ちら、と道の隅に都合よく引っ込んだスペースを覗き込んだまま、彩花の脚は我知らず、ふらふらとそこに近づいてしまう。とく、とく、と心臓が高鳴り、その鼓動に連動して下腹部に響く痺れも高まっていく。
 我慢の大半は心によるものだ。諦めてしまえば、そこで限界がやってくる。
 ぎゅっと服の上から下腹部を押さえていた手のひらがわずかに下に動き、スカートの前をぎゅっと掴む。そのまま裾を上に引っ張れば、あとは下着をずらすだけで、おしっこの準備は整うのだ。
 だめ、だめと思いつつも彩花の視線はきょろきょろと周りを見回して、誰も来ないことを丹念に確認する。
(こ、ここで……っ)
 ごくっ、と小さな喉が鳴る。自転車をなくしたせいで絶望的に遠い家までの道のりと、ロスタイムとなったカウントダウン。『オモラシ』と『トイレ以外でのおしっこ』を左右の秤に乗せた天秤が、がくんと右側に傾いてゆく。
 どき、どき、と口から飛び出しそうな心臓の鼓動を感じながら、彩花はプールバッグを近くに放り出し、。壁に背を向けた。ちょうど電信柱にお尻を向ける格好で、片手でスカートを掴みたくしあげて、もう一方の手をスカートの中に入れ、股間を覆う股布をずらし、その場に深く腰を落としてゆく。
(だ、誰も見てない……うちに……っ)
 初体験となる路上でのおしっこを始める用意は整った。最期にもう一回、念入りに周囲を確認し、彩花は硬く締め付けていた出口の力を抜く。
「んっ……」
 我慢しすぎていたためか、ぢくっ、とおしっこの出口に鈍い痛みが走った。同時にじわぁっ、と脚の付け根に熱を感じ、それが大きく膨らむ。
(あっ、……でるっ……)
 とうとう排泄本能に屈してしまった自分を、彩花はどこか他人事のように感じていた。
 深く下ろした腰、太腿の付け根から勢いよく弾けた水流は、遮るものの無い足元善方の空間へと飛び出し、小さな水音を響かせる。
「っあ……」
 ぎゅっと目を閉じ、彩花は不安を押し殺しながら、オシッコを済ませて立ち去るまでの数分間、せめて誰も来ませんようにと強く強く念じていた。
 ぷしゅ、じゅっ、じゅじゅううううう……
 熱い先走りに続いてすぐに大きな水音へと変化した水流は、左右に大きくのたうちながらアスファルトの地面を直撃した。土の地面なら激しくえぐって孔をあけんばかりの勢いで、アスファルトの上にぶつかった強烈なおしっこが周囲に飛沫を散らせてゆく。
 夏の熱気にも負けないくらいに熱い水流は、ほわほわと湯気を立てそうに狭い路地裏に拡がり、たちまち彩花のおしっこの匂いが満ちてゆく。
(……っ、は、はやく終わって……っ)
 どっどっどっ、と全力疾走した時のように鼓動がフル回転し、顔じゅうにかあっと血がのぼってくる。今、自分が何をしているのかがはっきりと自覚でき、彩花は頭から火を吹き出しそうな猛烈な恥ずかしさを覚えていた。
 トイレではない場所で、おしっこをしてはいけない場所でおしっこをしていることへの罪悪感と羞恥心。“きゅうん”と反応を始めてしまう脚の付け根にヘンな力が入り、じゅぶ、じゅぅじゅうぅ、と間断を付けて地面におしっこが跳ね回る。
「はぁあ……っ」
 長時間の我慢からの解放に、思わず甘い吐息もこぼれた。しゃがんだ脚がぷるぷると震え、緊張を強いられていた背筋が弛緩する。身体の中心から熱が毒と一緒に流れ出して行くような心地よさは、想像を絶するほどの解放感を伴う。
 アスファルトの上で小さく泡を立てながら、薄く黄色に色づいたおしっこはあっという間に大きく広がり、さらに路地の隅から低いほうへと流れ出してゆく。
(…ま、まだ……でる……っ、とまんない……っ、やだぁ……っ!!)
 初体験の路上排泄は、ちくちくと繊細な少女の羞恥心を刺激する。どくどくと熱い頭が沸騰しそうになり、心ばかりが早く早くと焦る。
 しかし、少しでも長くおしっこを我慢しようとしていた身体に、今度は少しでも早くおしっこを出せと言っているのだから、うまくいかないのは当たり前だ。
 しゃがみ始めてから1分近くが過ぎ、それでもなお彩花のおしっこは終わらなかった。ますます勢いを増しながら、薄黄色の水流は泡立った水たまりの上に激しく注がれて、じょぼじょぼと恥ずかしい音を響かせる。地面に水を吸い込まないアスファルトの上には水たまりが出来上がり、さらに路地のまんなかに勢力を広げた。
「あぅ……っ」
 真っ赤になった顔を深く伏せて、彩花はくちびるをきゅっと噛む。
 もう、どう言い訳しても取り返しの付かないことをしてしまったのが、改めて理解できた。この上誰かにこの状況を見られてしまったら、それこそ恥ずかしさで死んでしまうかもしれない。
 道の隅っこで始めたはずのおしっこは、いつしか狭い路地裏をすっかり占領し、そこを彩花のおしっこのための場所に変えている。オトナでもまたぐのも難しいような大きな水たまりが路地を占領し、ぱちゃぱちゃと水音を響かせて水面を揺らす。
 彩花の出したおしっこの水面には、さんさんと輝く夏の日差しが、ゆらゆらと揺れていた。
 (初出:書き下ろし)

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