社会見学バスの話・19 蓉子の思惑

 天啓のように舞い降りた素晴らしい“迷案”に、蓉子は矢も盾もたまらず、席を立っていた。
「ねえ井澤さんっ、ちょっと待っててくれるかしら? 大丈夫、すぐに先生が何とかしてあげるから!」
「え、あ、はい……」
 いきなり顔を輝かせて満面の笑顔を見せる『清水先生』に、佳奈も困惑せざるを得ない。教え子を押しのけ、蓉子はタイトスカートの下、ストッキングの太腿をスリスリと擦り合わせながら、さりげない前屈みの姿勢を保って運転席へと歩み寄る。
(そうよ……! 何で気付かなかったのかしら、こんな簡単な解決法があったじゃない!!)
 すっかり浮ついた蓉子は、これから自分がしようとしているのが何を意味しているのかも気付かない。運転席のすぐ隣に身体を寄せ、できるだけ深刻そうな表情を作って切り出す。
「あの、すみません」
「……んん?」
「このバス、停めてください!」
「はあ?」
 いきなり耳元に囁かれて、運転手は驚いたように顔を上げた。
「……いやあ、ちょっと待ってくださいよ。そんな簡単に言われても――」
「非常事態なんです!!」
 困惑する運転手を遮るように、蓉子は声を跳ねさせた。眉を吊り上げ、一歩も引く様子のない真剣な表情だ。その剣幕に、運転手も思わず押し黙ってしまう。
「見てください!! この子、もうお手洗い、我慢できないんですよっ!! ……だから、仕方ないんです!! 早くこのバスを、停めてください!!」
 こっそりと内股になって、モジモジと太腿をすり合わせながら、蓉子は再度叫んだ。
(……そうよ。そうじゃない♪ 仕方ないの、しかたないのよ!! 井澤さん、我慢できないって言ってるんだし……バスを停める理由には充分よ♪ だって、こんな所でオモラシなんかできるはずないものね、ね!?)
 蓉子は必死だった。表向きは平静を装っていても、その実はバスの中の誰よりも、逼迫していると言っても過言ではない。クラス担任の『女教師』の仮面の下では、だらしなくガニ股になって股間をぎゅうぎゅうと押さえつけたくてたまらないのだ。
 突き出したお尻を不自然にならないようにクネクネとくねらせ、蓉子は今にも堰を切って溢れそうな下腹部の恥ずかしい液体を押しとどめる。
(井澤さんに、お外でオシッコさせれば、私もそれに付き添うってことで外に出れるわ!! そ、そしたら、そこで、一緒に……♪ ……うん、しょうがないわ、しょうがないわよ。だって、先生がまさかオモラシなんてできないものね!! 他の子たちには気付かれないようにして……あ、そうだわっ♪ 全部、井澤さんのオシッコってことにすれば!! うん、良い考えかもっ♪ ……そうよ、そうそう!! 井澤さんだって、私がバスを停めてあげなきゃ、どうしようもなかったんだものね!! それなら、私がオシッコ我慢できなかったことだって、黙ってくれるはずよね♪)
 教え子を案じるどころか、自身の打算と保身に塗れた、あまりにも醜い計画だった。しかも実行するにあたってはかなり無茶のある計画だったが、冷静になって顧みるほどの余裕が蓉子にはない。
 おもねるような蓉子の視線――控えめに表現しても、媚を売っていると言っても差支えないだろう――に、しかし運転手は強く難色を示す。
「いや、でもこれじゃあ停めるのは無理だよ。どっちの車線にも車が詰まってて路肩に出られない。車は渋滞してるが、バイクなんかはその間を抜けていくこともあるからね、それで停まって人を下ろすなんて……生徒さん達が危ないよ? 先生」
「そんな!? もう、井澤さん、オシッコが我慢できないんですよ!? はやく停めてあげてください!!」
「っ………!?」
 縋ろうとしたところを否定され、蓉子が、ほとんどヒステリーのように叫んだ。
 ありえない告白に、佳奈が目を剥く。
(っていうか、あたしももう我慢できないのよぉ!! あーーんっ!!)
 自分の尿意の限界もあって、つい声を荒げてしまった蓉子だが――常日頃、教壇に立って授業する教師の叫び声ともなれば、ただの大声とはわけが違う。教室全体にしっかりと注意事項を行き渡らせるのにも十分な蓉子の声量は、狭いバスの中にはっきりと響き渡ってしまった。
 後部座席のクラスメイト達までもが、何事かとバスの前方の様子をうかがい始める。
「せ、せんせい……っ」
 哀れなのは佳奈だった。他の誰にも気付かれたくないからこそ、勇気を振り絞って、こっそりと先生に相談したのに――はっきりと『トイレに行きたい』こと、『オシッコが我慢できない』ことまでも、運転手やクラスメイト全員に暴露されてしまったのだ。
 少女の顔は恥辱に歪み、俯いた首筋までもがかあっと赤く染まってゆく。
 そもそも、佳奈が訴えたのは『もう、トイレを我慢できない』ことだけだった。差し迫る危機に耐えかね、自分だけではどうしようもなくなって、車内でたった一人のオトナの女性である清水先生を頼ったに過ぎないのである。具体的な解決法が頭にあったわけではない。もしかしたら、頼れる『清水先生』が全てを上手に納める魔法のような解決策を持っているかもしれないと、わずかながら期待もしていた。
 それを蓉子はあろうことか、はじめから佳奈自身がバスを路肩に停めて、その物陰でオシッコをしたいと主張しているかのようにすり替えてしまったのだ。暴論と片付けることすら済まされるレベルではない。
 あまりの屈辱に目元に涙すら浮かべる佳奈だが、蓉子はと言えば自分の思いつきに夢中で、すぐ隣で心を痛めている少女にはまったく気づかない。
「い、いや、しかし……」
 詰め寄る蓉子の気迫に気圧されながら、運転手はちらりと視線を前方の、渋滞の列へと向けた。それから蓉子、少し離れた場所で手すりにつかまって、前屈みになっている佳奈を交互に見やる。
「……やっぱり危険だ。その、悪いとは思うがその……バケツにでも」
「む、無茶言わないでください!! お、女の子にそんなことさせられるわけないでしょうっ!!」
(ば、バケツになんて……!! 駄目よ!! 絶対ダメ!! だって、だってだって、それじゃあっ、わ、私がオシッコ、できないじゃないっ!! そ、そんなのダメよぉっ!!! ぁああーーんっ!!)
 この提案は、冷静な視線で考えれば、運転手の職業人としての至極まっとうな判断だったと言えよう。
 2年A組の28人プラス教師1名を乗せ、その命を預かる高速バスの運転手として、彼は最善の手段を提示したに過ぎない。
 だが相手が悪すぎた。もはや下腹部のオシッコタンクが限界寸前、いつパンクしてもおかしくないほど切羽詰まった尿意に衝き動かされる蓉子に、譲歩の余地などあろうはずもない。
 クラス担任として、教師としてのプライドを守るため、蓉子は是が非でもバスを停車させなければならなかった。停車したバスの物影、生徒たちから見られない場所で、オシッコを済ませることに、教師人生を人生をかけていると言っても過言ではない。
(わ、私っ、先生なんだからっ……駄目なのぉっ、せ、生徒の見てる前で、バケツにオシッコなんて、そんなこと許されないのぉっ、できないわよぉ……!! あーーんっ!!)
「そ、それに、男の人の前でオシッコだなんて……っ!! で、できせませんっ!! オンナノコなのにっ……!!」
 蓉子が必死になって抗議をすればするほど、佳奈は我慢の限界であることが力強く喧伝され、もうすぐオシッコを漏らしてしまうほど切羽詰まっていることが激しく繰り返し主張される。そのたびに佳奈を取り囲む羞恥は鋭さを増し、まるで無数の針のように、繊細な思春期の少女の心を引き裂いてゆく。
「か、佳奈ちゃんっ……」
 固唾をのんで様子を見守っていた祐美は、あんまりだと呟いた。
 しかし、もはや尿意と折り重なる屈辱に押し潰され、佳奈は声を上げることもできななかった。

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