路地裏のお話。

(ヤバい……)
 もう12月にもなろうというのに、汗が首筋を伝う。
 朝が寒かったのでいつもより厚着をしてきたのも良くなかった。コートならぱっと脱ぐこともできるが、タイツはそうもいかず、汗ばんだつま先が靴の中で気持ち悪い。
 気ばかりが焦るものの、思うように歩みは捗らず、行く先はまだ遠い。
 余裕はもう残されておらず、有り体に言って危機的状態、ピンチであった。
 そもそも乙女の慎みとして、こんな事態に陥らないように常日頃から努めておくのは当然であろう。映画みたいなピンチからの一発逆転よりも、そんなピンチを招かないように、普段から気を付けておくことのほうが現実ではよっぽど大切なのだ。
 それを怠ったのだから、文句は言えない。でも、そう気付けるのは大抵は切羽詰まってからのことであり、後悔したって後の祭りなわけで。
 まあ何が言いたいかと言うと、要するに。
 私――佐々木春香は、今とても、オシッコがしたい。
(うぅ……)
 トイレ。比喩抜きで、女の子にとっての人生の重要課題の一つだ。男性諸氏には思いもよらないことだろうけれど、どんな場所でもぱぱっと済ませてしまえる男の子とは違って、女の子にとってのオシッコのお手洗いというのはとても大切で重要で、なによりも必須のものである。
 考えてみて欲しい。トイレの無い場所で丸一日、24時間を過ごさねばならないと言われた時、楽なのは男女のどちらか?
 男の子がそこいらで立ってオシッコを済ますのは、『まあ仕方ない』『そういうもの』として受け入れられるのに、たとえ切迫した事情があったとしても女の子がそんな事をするなんて『はしたない』『みっともない』『恥ずかしい』『あり得ない』のだ。
 そして今まさに、私はその危機的状況にある。
 脚の付け根は痺れるように疼き、尿意からの解放を急かしてくる。一秒ごとに増してくる下腹部の重みを堪えながら、そっと周囲を窺う。
 ひとけの少ない住宅街とは言っても、街中に私の求めているものがあるはずもない。このあたりには公園も学校もコンビニも見つからない。あるいは私が見落としているだけなのかもしれないけれど、そのために来た道を戻って探し回るような時間の余裕はない。
 一刻も早くトイレを見つけて、そこで緊急を要する用を済ませなければならないのに――そのための場所はどこにも見当たらないのだ。
(んっ……)
 ぶるる、と身体が繰り返し限界を訴える。意識せずに震えだす下半身は、2時間ドラマのラスト15分で崖の上に追い詰められた犯人みたいな状況だ。
 少しでも早くこの住宅街を抜けて、コンビニか何かのある大通りに出ないと――本当に間に合わなくなってしまう。
 とは言えここは天下の往来。あまりみっともない格好は出来ない。本当ならもう、両手でぎゅうっと脚の付け根を押さえる『ママ、オシッコ!!』の格好をしてしまいたいくらいなのだ。
 不自然な内股と小さな歩幅でひょこひょこと歩く私の格好は、相当みっともない格好になっていることは疑うべくもなく。せわしなくかかとを踏み鳴らしてしまう足は、意識せずとも人目につかない薄暗い路地裏のほうへと向いてしまうのだった。
(…………えっと)
 そんな具合だから、『その場所』が目に入ったのもただの偶然でしかなかった。車が一台通れるくらいの細い道の傍ら、区画整備の不具合で出来た、家と家の間のちょっとした隙間。陽の指さない行き止まりの路地だった。
 奥行きはざっと5メートル。今は半分ゴミ収集場のような感じでに使われているらしい。ネットを被ったゴミバケツの陰には、汚れたビールのケースのようなものも積まれており、ちょうど通りからの視線を塞ぐ遮蔽ができている。
 身体を屈めてしゃがみ込めば十分に、周りから見えなくなるだろう。
 都合良く左右の家にも窓は見当たらない。ほんの数分くらいなら、よっぽど運が悪くなければ誰も通りがからないだろう事は明らかだった。まして、こんな路地裏の隅っこをいちいち覗きこむようなことはまず絶対にしないだろう。普段なら気にも留めず通り過ぎていたに違いない。
 まさに、今の私にとって、そのための準備されたようなおあつらえ向きの場所だった。
 我知らずのうちに、手がスカートの前をぎゅっと押さえる。
「………はっ!?」
 じゃり、と。ごくごく自然な動作で、踏みだした脚が一歩前へと進んでいた。
 何のためらいもなくそちらへと向かおうとしていた自分に気付いて、私は慌てて首を振る。かあっと頬が熱くなるのが分かった。
 この、人気もなく静かでひっそりとした、落ち着いてしゃがみ込むのに最適な物陰で、いったい私は『ナニ』をしようとしていたのか。
(……、いや、いやいやいや。待て、落ちつけ私。……いくらなんでもこんなトコでってのはマズイでしょ。乙女としてさぁ。……うん、ない。……ないない。ありえないって!!)
 動揺した頭がぐるぐると意味のない否定の言葉を繰り返す。
 が、その一方で、『ありえない』と打ち消したその思考に従って立ち去ってしまうべき足は、地面に張り付いたまま動かなかった。
(だ、だって、ここって、普通の路地じゃない。ねえ? ……ほら、確かに誰も見てないし、気付かないだろうけど……こんなトコでなんて……女の子としてちょっと終わってるよねえ。まだ、その、もう少しも我慢できないってわけじゃ……ないんだし。第一、紙とかも無いじゃない? ……いや、ティッシュだっても、持ってるけどさ……それはほら、もっと別のところで困った時のための用意だし……)
 いざ意識し出すと、もうそこを『そのための場所』として見てしまうことは止められなかった。一度トイレを目の前にしてしまえば、もう我慢がきかないものなのだ。女の子ってやつは。
 止めたはずの小さな足踏みが再開する。腰をよじってしまいながら、私はその路地裏の中を何度も何度も路地裏の中を確認してしまう。
 無論のこと、だれの視線もない。
 つまり――誰にも見られることなんか、ない。
(そ、そもそも我慢できるとかできないとかそういう問題じゃなくてっ、ちゃんと、とっ、トイレまで、が、我慢しなきゃだめなんだって話で……!! こ、こんな、トコじゃ……だ、誰かに見られちゃうかも、だし……じゃなくて!! 見られるとかいう以前に、ここで、お、オシッコ、しちゃう……なんてのが、絶対にナイって……!!)
 きゅん、と下腹部がイケナイ疼きをあげる。
 幼稚園の子みたいに、我慢がきかなくなっていた。ぎゅっと唇を噛み、踏みとどまろうとするのに――むしろ身体はその正反対に、オシッコの準備を始めてしまう。
 私の身体は、小さな路地裏をトイレと同じ『オシッコを出来る場所』として認識してしまっていた。ただそこに立っているだけで尿意はちりちりと脚の付け根に集まり、鉄壁に保っているつもりだった我慢の心は脆くひび割れてゆく。
 今すぐに、ここに下着を下ろしてしゃがみ込んでしまいたい。
(ち、違うでしょ。ほら!! ば、馬鹿な事考えてないで、ちゃんと、トイレ……探さなきゃ……!!)
 乙女の理性を奮い立たせようと叱咤するが、羞恥心すらもう正常な働きを放棄していた。ずっしりと下腹部にのしかかる重さが、私の足をここに縛り付けているかのようだった。
(っ……だ、だから、ダメだってば……)
 もちろん、ここは本来女の子がおしっこを許される場所ではない。そんな事は分かっている。でも、ここには誰にも気付かれずにこっそりとトイレを済ますための条件は十分以上に揃っているのだ。
 このままいつ見つかるとも知れないトイレを探しだす苦労を思えば、この誘惑はあまりにも抗いがたい。
(……オシッコ……っ)
 例えば、あの、大きなポリバケツ。
(えっと……ちゃんとしていて中がヒビ割れたりしてなきゃ、こぼれないで中に溜まってくれるよね……。蓋すれば、匂いも分からなくなるし……さすがに大きさは十分――というか、いくらなんでもあのバケツ一杯になるくらいたくさんオシッコは出ないって。確かに相当我慢しているから結構な量かもしれないけど……)
 例えば、その隣の、くしゃくしゃの新聞紙。
(紙なんだし、少しくらい水を吸収してくれる、よね? でも、スポンジじゃないんだしやっぱりびちゃびちゃになるかも……それに記事の写真……この前のチャリティコンサートの記事じゃん……うぅ、写真だけど、あそこにオシッコって……やだなあ)
 例えば、横倒しになって転がる空のビール瓶。
(……多分、ずっとここにほったらかしだし、雨とかが溜まったんだって思ってくれるかも……。でも、あんなちっちゃい瓶の口……上手く、オシッコを入るかな……そ、それに、んっ、あ、あの中に全部……入るかな……? も、もしたくさんオシッコ出し過ぎて、外に溢れちゃったりしたら……)
 例えば、丸めてネットに絡み付いたビニールのゴミ袋。
(ん、っと……た、確か、小学校の遠足の時に使った携帯トイレみたいにすれば良いから、何とかなるかも……ああ、でもあのゴミ袋、たぶん穴とか空いてるよね……それに、終わった後も……ここ置いといたら、中身が透けて見えちゃうかも……)
 ゴミ捨て場に転がる何もかもが、オシッコをするための器具に見えてしまう。どうすれば一番オシッコが気付かれないだろう、と想像することをやめられなかった。
 ここは本来、女の子がそんなことをしていい場所じゃないはずなのに。
(や、やっぱり一番よさそうなのはあのバケツ……かなあ。でも、あのバケツにするって、その、跨ぐか、脚を広げて――その、男の子みたいに立ったままオシッコ? うぅ、そんなのやっぱり恥ずかしい……っ)
 どうすれば、ここで一番うまく、オシッコができるか――そもそもそんな事に考えを巡らせる事自体が異常なのだということは、もう思い付けもしないまま。
 わたしは足踏みを続け、足を擦り合わせながら、路地裏でのオシッコの方法を思案し続けるのだった。
 (初出:書き下ろし)

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