社会見学バスの話・35 清水蓉子その5

「ええ、はいっ、そうです……もう皆、だいぶ疲れてる様子で……ほかの組の子もそうですよね? 休ませてあげたいと思いますっ、ええっ、い、いいですよね? いいですよね!?」
 汗ばむ手で携帯電話を握り締め――蓉子は電話口に叫んでいた。
 そう、汗だ。断じて汗以外の何物でもない。さっきまでバス乗車のどさくさに紛れて、恥も外聞もなく『がばぁっ』と捲り上げたスカートの中に手を突っ込んで思い切りあそこを押さえていた蓉子の手が湿っているのは、汗以外が原因にあり得ない。
 バスのタラップをひっきりなしに足踏みし、いっときも収まることなくくねる腰が、はしたない我慢ダンスを踊っているが、クラス担任たる『清水先生』は、あくまで『オシッコなんか我慢してません!!』という態度の初心貫徹を崩さなかった。
(ぁはぁ……んっ……くうぅうっ、ダメ、我慢、我慢よ、我慢するのよ、蓉子っ……!!)
 オトナの女性に相応しく、みっともない真似はしないように、腿の内側の筋肉だけでいまにも暴発しそうな股間の蛇口を締め付ける。それももはや、傍目にはあきらかに嘘とわかる、ただ本人が認めていないだけの薄っぺらい主張でしかなかったが。
「……え? 一度高速を降りちゃうと合流できない? も、もうっ! そんなことどうだっていいじゃないですか!! ぐ、具合悪い子もいるんですよ!! 休ませてあげなきゃ可哀想じゃないですかぁあっ!!」
 電話の相手は、後続する3号車の学年主任だ。蓉子の上司であり、今回の校外学習の責任者ということにもなっている。
「せ、生徒の事を思いやるのも、教師としての務めじゃないですかっ……!! え? そ、そんなの知りませんッ!! ほ、他のバスが降りられないかもしれないとか――そ、そんなこと、言われても困りますッ!! ……わ、わたしは、2年A組のく、クラス、担任としてッ、見過ごせないって言ってるだけですっ……!!」
 ほとんど怒鳴るように電話口に叫び、蓉子は傍らにある座席シートの背もたれに、身体を押しつけるようにぴったりと寄せた。太腿に背もたれを挟んでぐりぐりとスーツの股間を押しつけ、円を描くように腰をよじり擦りつける。
 まるで発情したメス犬のような有様のそれは、オシッコの出口を物理的に塞ぎ、もっとも脆いダムの出口から尿意を少しでも分散させようとする必死の動作だった。手で押さえたらオシッコしたいのがバレてしまう――その考えに固執するあまり、蓉子は自分が今どんな姿をしているのか、客観的に見る事すらできていない。
(はぁああんっ……!!! ……出ちゃう、出ちゃうっ、オシッコ!! オシッコ出ちゃうのぉおっ!! あぁーーーんっ、も、もうッ、ガマンするなんて無理なのよぉッ…!!)
 あそこを手で握り締めるのなんてはしたない――最初は、それが頭にあった。
 けれど募る尿意は和らぐどころか激しさを増すばかりで、摂取したショウガ紅茶の利尿作用はいよいよ本格的に牙を剥き、代謝機能を活性化させる機能を十全に発揮しつつある。スーツの下腹部をぽっこりと膨らませるほどの大量のオシッコが、蓉子の膀胱をかつてないサイズまで拡張しているのだ。
 じんじんと下腹部を襲う、鈍い痛みすら伴う排泄衝動は全身を使った我慢でなければとても耐えきれるものではなかった。
 だからこそ、『手で押さえていないから、OK』とばかりに、とても成立しない逆説を免罪符に、蓉子のトイレ我慢はますます大仰なものとなってゆく。
 小さな子供染みたその悶えぶりは彼女の教え子たる生徒達と比べても酷いもので――年齢と体格差を考慮した、膀胱の貯水量の差を差し引いてなお、そもそも真っ当な大人の振る舞いとしても失格な格好であった。
 蓉子は、オンナの欲望を剥き出しに、今すぐ一心不乱にありったけの力で股間を揉みほぐし、いっときも収まることのない尿意を和らげたい――その欲求と戦いながら、オシッコを我慢しているのである。
「で、ですからっ…!! もう、トイレ、ガマンできない子が、ウチのクラスに大勢いるんですっ!! ぉ、オモラシ……トイレじゃないところで、ぉ、オシッコ、漏らしちゃうしちゃうかもしれないんですよッ…!? ぉ、女の子なのに、ガマンできないなんて……惨め過ぎますッ、か、可哀想だとっ、思わないんですかぁッ!!」
 今すぐにでもサービスエリアに向かうべきだという蓉子の主張に対し、主任はそれに難色を示していた。先行する1組と2組のバスはすでにサービスエリアへの出口を通り過ぎてしまっているというのだ。渋滞の中後戻りはできないし、予定にも大きくずれが生じるという主任の声に、蓉子は声音を強めるばかりだ。
「こ、これ以上、がっがが、ガマンなんてさせられませんッ!! も、もう漏らしちゃってる子もいるんですからッ!! 井澤さんとかッ、坂上さんとかッ、麻生さんもッ!! お、オシッコ、もう、出ちゃいそうにしてるんですよぉ!!」
 渋滞の中で分断され、お互いの姿すら見えなくなっていたはずの、他のクラスのバスにまで――2年A組のオモラシと、臨界状態の尿意を懸命に堪えるオシッコ我慢の全貌が、余すことなく実況生中継で知らされていく。
「――ば、バケツ!? 当然却下ですッッ!! 当たり前じゃないですかっ、女の子がそんなところで、オシッコなんかダメです、絶対ダメぇええ!! は、はやくしなきゃ、もう、本当にッダメ、なんですぅう!!!」
 そこまでして必死になる蓉子の言葉の裏には、今更言及するまでもないだろうが、別の意図があった。
(――わ、わたしがっ、もうオシッコガマンできないの、出ちゃうの、オシッコ、モラしちゃのぉよぉおおッ!! ああぁっ、はぁ、はぁあああんっ……!!)
 くねくねッ、モジモジッ、たんっ、たたんっ。
 澱みなく繰り広げられる、羞恥の我慢ダンス。トイレの欲求を少しでも先延ばしにせんと喘ぐ蓉子は、荒い息の中凄まじい剣幕で眉を吊りあげ、口角泡を飛ばして携帯にに叫ぶ。
「だ、だったら、そのッ、……つ、次のサービスエリアで待ってるとか!! そ、そうですよっ。ほ、他にもッ、ほらっ、い、色々あるじゃないですか!!! ね、ねぇ? それでいいですよね、しゅにんせんせえッ!!」
 痴態にまみれたその姿から視線を反らし、声だけを聞いていれば、生徒達のことを思いやる熱心な教師――と、見えない事もない。異様な気迫や強引極まりない頑固な主張、焦って震える声音など、諸々の失態に目をつぶればだが。
 しかし、『清水先生』の仮面の下で、蓉子はまさに『オンナ』の薄汚い欲望に塗れた、打算を繰り広げていた。
(そっ、そうよ!! こうなったら、な、何としてもサービスエリアまでっ……ガマンしてやるんだからぁ……!! も、もうすぐ、もうすぐおトイレ出来るのッ……あんな風に、皆みたいに、バスの陰なんかでみっともないことしなくなったって、いいんだからッ……!! だっ、だから、それまで我慢っ、ガマンするのよ、っ、蓉子っ……!!)
 ぱんっぱんに空気を入れた、パンク寸前のタイヤのよう。強張った下腹部をスカートの上から思い切り握りしめ揉みほぐしてしまいたいという、強い女の欲望を必死に堪え、辛うじて腰を揺するだけにとどめて、蓉子は電話の向こうの主任に訴える。
「主任先生、い、いいですよねっ!! いいって言ってくださいっ!! じゃなきゃ、み、生徒達みんな、漏らしちゃいますよッ!! ねえっ!!」
 もはや脅迫だ。身悶えし鬼気迫る形相で叫ぶ蓉子を、運転席から恐ろしげなものでも見るような眼で見つめている運転手の姿は、蓉子にはまったく見えていない。
(ぁああーんっ、トイレ、トイレっトイレトイレおトイレェっ…!! オシッコ出ちゃう!! オシッコ出ちゃうのぉおっ、あぁあーんっ!! はやく、早くおトイレ!! おトイレ行きたいぃい!!! オシッコおぉおおおっ!!!)
 だだんっ、と強く床を踏み鳴らした蓉子からは、既に『清水先生』のクラス担任という仮面が緩み、外れかけていた。

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