社会見学バスの話・39 長谷川陽菜その2

 バスが出発してから一度もトイレに行くことができず、出したいオシッコを堪え続ける2年A組。たった一人。
 車内に乗り合わせたクラス担任の清水蓉子を含むクラス28人プラス1人、全員が同じ共通項で括られるなか、一人だけその例外がいる。
 彼女はきつく唇を噛み、びしょびしょに濡れた制服の下半身を抱き締めるようにして、バスの中程の座席でひっそりと息を潜めていた。
 長谷川陽菜。
 ――覚えておいでだろうか、路肩に止めたバスを降りてオシッコをしようとした9人の少女達の中で、唯一、オシッコができた少女である。
 だが――それは、彼女がちゃんとトイレを済ませられた事を意味しない。むしろ、陽菜のトイレは大失敗と言っていい有様だった。
 物陰を作るはずのバスが移動し、高速道路の路側帯にしゃがみ込んだ姿を隠す事もできず、大渋滞の車の列の中で、衆目の中、大きく股を広げ女の子の恥ずかしい部分を晒し。
 まだ幼いつくりの、薄桃色をした女の子の脚の付け根から、猛烈な勢いで恥ずかしいオシッコの噴出がアスファルトを叩き付けるのを――陽菜は、百人近い観客達に見られてしまった。その恥辱は、決して尿意からの解放として祝福される幸運ではなく、むしろ最悪の恥辱、死にもつながりかねない悲劇であった。
 あろうことかオシッコの途中で転び、膝に引っかけていた下着に噴出するオシッコを直撃させ、さらに自分の作ったみっともない水たまりの中にへたり込んで制服をびしょびしょに濡らしてしまった、あまりにも恥ずかしい大オモラシ。
 そんな悪夢のような記憶冷めやらぬ中、陽菜は目に涙を浮かべ、しゃくりあげ、己の不幸を嘆き、屈辱の涙で頬を濡らしていた。
 けれどそんな彼女へ向けられる周囲の視線は、憐みよりも敵意に似た嫉妬の方が強い。
 どんな形であれ、現在進行形で尿意に苦しみ続ける他の27人の生徒たちからは、良くも悪くも彼女はたった一人、先にオシッコを済ませる事ができた例外だったのだ。
 先にも述べたが、既にバスの中で辛抱たまらず、トイレを済ませようとした少女達は複数存在している。だが、その事がクラス全員に知られているのは、オモラシで制服をびしょ濡れにし、惨憺たる有様で涙する陽菜一人だけであった。
 だからこそ、クラスメイト達の敵意は強い。担任である蓉子すらその例外ではなく、先にオシッコをできた陽菜を、呪詛めいた視線で羨み、蔑んでいるのだった。
 ……だが。
 ただでさえ苦境にある陽菜を、さらに苦しめるものがあった。
(や、やだ……っ、本当に、“また”、したくなってきちゃった……)
 そう。二度目の尿意である。
 膀胱の中身を絞り出すような猛烈な尿意と、それに連動した激しい放水。少女の下半身をずぶ濡れにしてなおアスファルトに大きな水たまりを広げる大量のオシッコ――それを下腹部から絞り出してなお、陽菜の身体は再度の尿意を、再びのオシッコを訴えていた。
(な、なんで……? さ、さっき、あんなに出たのにっ……)
 屈辱よりも、疑念と困惑の方が強い。あれだけ出したのだから、もう当分はトイレなんて行かなくて済むと思っていたのに――陽菜は自分の身体に起きている異変が全く理解できず、ただただ堂々巡りの思考を繰り返す。
 はじめのうちは、ちょっとした違和感だった。濡れた下着が生乾きになって、むず痒さを感じるのだと――そんな風に考えていた。なにしろさっきまでのトイレの欲求は、これまでの陽菜の人生の中で、ぶっちぎりのトップクラスの尿意だったからだ。それがオモラシのような最悪な結末を迎えて、まだじんじんと下腹部が疼き、ひり付くような錯覚があるのは仕方のない事だろうと、そんな風に考えていた。
 慣れない正座を止めても、しばらくは足の痺れが続くように。過酷な我慢を強いられた排泄器官がまだ熱を持っているだけなのだろうと考えていた。
 なにしろ、陽菜のオモラシからはまだ1時間余りしか経っていない。陽菜はどちらかと言えばトイレの遠い方で、普段ならそんな頻度でトイレに通い詰めるなんて事は、まったく経験のないことだったからだ。
(で、でも、……やだ、っ、ま“また”……っ、また、したく、なっちゃってる……っ)
 あんなにもはしたないオモラシ行為をしたのに、まったく懲りた様子もなく、少女の下腹部は本能的な排泄を要求する。陽菜の恥骨上のダムにたまったホットレモンティの水位は、既にさっきバスを降りた時と同じくらいまで達しつつあった。
(も、もう一度……お手洗い……!? で、でも、そんなの、また……っ)
 あまりにも早い二度目の尿意に、陽菜はただただ、困惑するばかりだった。
 周囲のクラスメイトからの針のような視線は、陽菜をなお責め続けている。このうえ、またトイレに行きたいなんて事は冗談でも口にできそうにない。
 陽菜はじっとうつむき、唇を噛んで、耐えるしかない。
 しかし、主観を排して理論的に考えるならば、これは当然の帰結であると言える。飲料工場と市営公園を巡るこの社会見学遠足で、2-Aの少女達が摂取した水分量は、単純評価しても相当量のものだ。経口摂取された水分は着実に少女達の体内に吸収され、それらは今もなお、健康的な少女達の全身をめぐり続けている。それらがやがて代謝を経て循環器を通り、下腹部の一点、不要物を含み最終地点に辿り着くことはごく自然なことである。
 そもそも、水分は摂取した直後にオシッコに代わるわけではない。循環する水分が膀胱にまで辿り着くには、少なく見積もっても経口摂取から数時間が必要である。それ以前に感じる尿意はカフェインの利尿作用や、水分を口にしたという事実による精神的なものが強く、少女達が摂取した水分が恥ずかしいオシッコとなり膀胱に注ぎ込まれるのはむしろこれからが本番と言えた。
 陽菜の場合、中身をぎゅうぎゅうに詰め込み張りつめていた膀胱が一旦、空に近い状態になったことで、それまで水圧に負けて押しとどめられていた水分が再び乙女のティーポットへと一気に注ぎ込まれたのだ。
 尿意の高まりは一度目よりもはるかに急速であり、水位上昇グラフの鋭さは最初の波の比ではない。
 さらに、ちゃんとしたオシッコのための設備が整ったトイレでの排泄とは違い、物陰や、着衣のままのオモラシでは少女の身体は緊張状態のままでである。完全にリラックスできるような環境とは程遠いため、十分に排泄器官も弛緩できないことも理由となった。
 たとえ他者の存在がなくとも、トイレの個室という安全確実な空間ではない、野外での排泄は、無意識下で陽菜の排泄をつかさどる自律神経にブレーキをかけた。誰かに見られるかもしれない、気付かれるかもしれないという意識がある中では、たとえきちんと最後までオシッコが出来ていたとしても、トイレでの排泄に慣れた少女の身体は、完全に膀胱を空にすることは至難の業だ。
 まして、陽菜の場合はオモラシという、限界を越えた尿意が不自然な形で噴き出した、あまりにも歪な方法での尿意の解消である。トイレで済ませオシッコとは雲泥の差であった。
 陽菜が初めて体験する、『トイレの近い子』の尿意。未体験の排泄衝動の波は、少女を激しく動揺させ、二度目という事実も相まって陽菜の心をさらに激しく傷つける。
(やだ……本当にどうしちゃったの!? なんで、こんなにすぐオシッコしたくなっちゃうの!? わ、私っ、ヘンになっちゃったの……?)
 オシッコの出口が故障してしまったのではないか――そんな想像すらよぎる。一度激しく尿意を噴き出させた排泄孔は、いくら力を込めても言う事を聞かず、出口を覚えたオシッコは的確に鋭い尿意をそこに差し込んでくる。
 じわ、じわとおなかの一番底を押し破り広がる恥ずかしい衝動に、陽菜は身体を丸めて耐え続けた。
 もう一度おしっこがしたい――2-A28人を乗せたバスの中でたった一人、二度目の尿意を覚え、“また”オシッコを催してしまった陽菜の、トイレを望む孤独な戦いの第二幕が始まっていた。

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