社会見学バスの話・69 都築朝香その3

(どうしよう、どうしようぅ、どうしようっ……)
 朝香は、なおも困惑の中にあった。
 ――もう我慢できない。
 ――おトイレまで間に合わない。
 ――オシッコが出ちゃう。
 それは認めざるを得ない事実だった。というよりも、クラスメイトの目を盗んでペットボトルにオシッコを済ませようとしていたあの時点で、もうとっくにそんな段階は通り過ぎていたのだから。
 清水先生――蓉子に静止されなければ、間違いなく座席の上で自分に恥ずかしい場所にペットボトルの飲み口をあてがい、透明な容器を溢れさせんばかりに、自分の『おんなのこ』から噴き出すオシッコを注ぎ込んでいたに違いないのだ。
 けれどそれを、清水先生の一方的な理屈で中断され、朝香は身動きが取れなくなっていた。クラス担任であり、唯一の『オトナ』の女性である先生に制止され、朝香はそれがとても『イケナイこと』であるという認識を植え付けられてしまった。
 トイレを我慢できないなんて、おんなのことしてあり得ない、とても恥ずかしいことで。
 まして、皆のいる前でペットボトルに済ませようなんて、まるで変態みたいな行為なのだと。繰り返し叫び主張した蓉子の言葉が、呪縛のように朝香を絡め取る。
 本当なら、朝香の取ろうとした行動は、決して責められるようなことではないのだ。
 オモラシを避け、バスの床や座席を汚さないための配慮として。もうどうしようもなく我慢できない時の緊急避難として。我慢できないオシッコを、手ごろな入れ物に済ませようと言うのは、むしろ正しいはずの行為である。
 けれど、蓉子にそう強く意識させられてしまったせいで、朝香はもう一度ペットボトルへのオシッコを試みることができずにいた。それはおかしい事で、女の子が絶対にやっていはいけないのだと禁じられ、あんなに繰り返して言い聞かされれば、もうなけなしの勇気なんて完全に打ち砕かれていた。
 朝香の前には二つの選択肢がある。
 恥ずかしいけれど、バスの外まで出て、どこか、外で――茂みとか物陰とかで、オシッコをするのか。
 それとも、バスの中で、あのバケツにオシッコを済ませるのか。
 我慢という選択肢は、これ以上選び続けることができない。乙女のダムに注ぎ込まれ続けた恥ずかしい熱水はすでに危険水域どころか、ティーポットの容量いっぱい、縁のすれすれぎりぎりまで盛り上がっている。弱く脆い表面張力のおかげでかろうじて溢れずに堪えているようなものだ。少しでも気を抜けば、確実に水面が波立ち溢れ出してしまうことが明らかだった。
(でちゃう……でちゃうう……っ)
 350mlの、蓋の空いた空のペットボトルが朝香のすぐ足元の床に転がっている。さっき、朝香がオシッコをするはずだった容器が、床の上に鎮座し、ぽかりと空いた口を朝香の方に向けて倒れていた。
 もし。もし。
 あの時、ほんの少しでも――たとえ全部とは言わなくとも、あのペットボトルの半分くらいでも、オシッコを出せていたら――。もしかしたら、あとほんの数分くらいは、余裕があったかもしれない。どうにか二つの選択肢のどちらかを選ぶくらいの、猶予が与えられていたかもしれない。募る尿意の苦しみの中、朝香は悔やむ。
(あ、ぁっ、で、でちゃう、ぅっ)
 堰きとめられ続けてきた熱い濁流が、ダムの底の一番脆い部分、もはや両手の力を借りて押さえこんでいるばかりの水門へと押し寄せる。凄まじい水圧とともに尿意という牙を剥き出しにして押し迫るおしっこが、ついに一滴、二滴と滲みだす。
 細く緩んだ水路を膨らませ、緊張を続けていた括約筋が限界を叫んで緩み、水滴は水流へと変わってゆく。
 下腹部に響く強い解放感。耐えに耐え続けていたものが、諦めと共に力強く噴き上がる。同じように強張っていた朝香の表情も、きつく噛み締められていた口元も、同じように緩んでいた。
 一度開け放たれたものを、再度塞ぎとめるなどということができるはずもなかった。すがすがしいほどの解放感と共に、勢いを増した水流が、身に付けた服など無いかのように激しく飛沫を上げてほとばしる。
 下腹部に鈍い痛みを感じるほどの尿意だ。我慢している量も普段の比ではない。噴き出したオシッコの水流が、床の上にあった350mlのペットボトルにみごと命中。射的の標的みたいにすこんと弾き飛ばした。
 ペットボトルを軽々と一杯にして、なお余りあるオシッコの噴射が、水たまりを床にじょぼじょぼと吹きこぼしてしまう。
 黄色い水たまりの中に空っぽのペットボトルをオシッコまみれにして。座席の上に出現した女の子の噴水は、バスの中にいつまでも水音を響かせ続けていた。

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