楽しかった、けれどとてつもなく長かった一日が終わる。
傾いた夕陽の中で最後の友達とさよならして、静菜は足早に家へと続く緩やかな坂を登っていた。
さしもの静菜も、あれからさらに5時間という我慢を経て、そろそろ限界が近付きつつあった。歩きながらもどこか引けてしまう腰や、さりげなく下腹部に伸びてしまう手のひらを抑えこむことがそろそろ難しくなっている。
(ぅあ……トイレ、オシッコしたい……っ……)
今度こそ、家の外の『おトイレ』ではなく、真実オシッコを済ますことができる本物のトイレを目指し、静菜は帰途を急ぐ。
ずっと我慢し続けたオシッコは容赦なく静菜の下腹部を圧迫し、隙あらば暴れだそうと不気味にうねりを見せていた。
あれから、静菜はも2度も外の『おトイレ』に入って限界寸前の尿意をやりすごしている。これは普段のペースに比べても異常だった。いつもの静菜なら、お昼の『おトイレ』だけで家に帰るまでの間十分用を済ませることが可能なのである。友人にも『あはは、静菜お茶飲み過ぎちゃった?』と心配されるほどだった。
そして冷静に振り返ってみれば、静菜は今朝起きてから一度もオシッコを済ませていない。それはつまり、土曜の夜にオシッコをしたのを最後に、実に20時間近くもオシッコを我慢し続けているのだった。
それでいて水分の摂取は普段以上に多かった。雰囲気に飲まれてついついおなかの冷えそうなものばかり食べ続けてしまったせいもある。
つまり、まる1日分を遥かに越えるオシッコが、静菜のおなかの中に詰めこまれている計算になる。本来なら何回にも分けて排泄されるべき量のオシッコを、静菜は一滴も漏らさないままに身体の中にとどめているのだった。
これも、祖母の教えに基づいて常識外れに鍛えられた静菜の排泄器官だからこそ成せる技である。もし静菜以外の女の子がこれに挑戦しても、たちまち限界を迎えてオモラシしてしまうだろう。
「ふぅ……、っと」
静菜は重いおなかを抱えながら慎重に交差点を渡る。もちろん、誰かに気付かれるようなみっともない真似はしない。あくまでも表面上はそんなそぶりを見せることはないのだ。
こんな風に長い長い時間オシッコを我慢できる身体のことを、貴婦人の膀胱、と呼ぶのを静菜は知っていた。昔の貴族はオシッコをしない女の人ほど魅力的だとされていたのだ。だから、静菜はもう外のトイレに行けない自分を恥ずかしいとは思わない。
そろそろ日が山の向こうに消えようとしている。家への道のりもいつしか半分を過ぎ、終わりに近付いている。あとは角を一つ曲がればすぐ静菜の家だ。
(……あー、やっぱりちょっと遅すぎたかも……もっと早く帰ればよかった……
そうすればもっと早く、おうちでオシッコできたのに……んぅっ……)
ぶるぶると背筋を這い登るイケナイ感覚に耐えながら辻を折れ、向かって三軒目の玄関の門を押し開ける。15年前の新興住宅地である藤咲市の1区画に、際立てて特筆すべきものはなにもない、ごくごく平凡な静菜の家はあった。
「ただいまー」
「お帰りなさい。もうすぐ夕ご飯よ」
「はぁーい」
(オシッコ、オシッコっ……)
母親との挨拶もそこそこに、切羽詰った尿意を心の中で繰り返しながらブーツを脱ぐ。すでに静菜の心はあと数m、廊下のすぐ向こうにある扉1枚を挟んだトイレの中に飛んでいた。ずっと長い間閉じ込められていたオシッコがついに解放を宣言され、その瞬間を待ちわびるように一気にざわめき始める。
(あー、ヤバかった……電車の中、もう出ちゃうかと思ったよぉ……電車の『おトイレ』まで使っちゃったし……恥ずかしかったなぁ。
でも、みんなに気付かれなくてよかった……)
今日、この日。
この時、この瞬間までは、静菜にとってみれば決して特別なことが起きた日ではなかった。静菜がこんな風になるまでオシッコを我慢しているのは、いつもとは言わずともたまにあることで、言ってしまえばありふれた日常の一コマでしかない。
けれど、この日だけは違っていた。
コン、コン。
(うぅ、漏れちゃう、漏れちゃうっ)
軽くノックをしてから、静菜はほぼ時間も空けずにノブに手をかける。静菜の家のトイレはドアの向こうにすぐ便器があるタイプのもので、鍵をかけずに使う者は誰もいない。鍵がかかっていないのはドアノブを見れば一目瞭然で、だからこの動作も静菜にはほとんど習慣的なものだ。
だが。
ガチャリ、と開いたドアの向こうには、黒々と汚れた水を、便座の縁ギリギリまで詰まらせた洋式便器があるのみだった。
(え……?)
まったくの予想外の光景に、静菜の思考が停止し、理解不能のホワイトノイズに包まれる。
目の前の状況がまるで理解できずに、静菜は瞬きを繰り返した。
(え……、え? え? え!?)
見る影もなく、壊れた、トイレ。
ゆっくりと、その事実が忍び寄ってくる。
便器から溢れ出した汚水が飛び散ったのか、床も薄黒く汚れ、便座の内側では時折ごぼり、という音を立ててぬめった泡が沸きあがる。生理的嫌悪を催す粘着質の汚れと、鼻を背けたくなる悪臭の奥で、少女が待ち焦がれていた大切な場所が、踏み入るのもためらわれるような汚辱に侵されている。
配管のどこかが壊れているのだろうか、ちょろちょろという水音がずっと途切れずに響いていた。その水音に歓喜され、静菜の膝が小さく震え始める。
(え、ええ!? う、嘘……ウソでしょ!?)
目を擦っても、頭を振っても、悪夢は晴れない。
静菜の思い描いていた安息の地とはあまりにかけ離れた光景は、厳然とした事実として少女の眼前に横たわっていた。
世界で唯一、たったひとつ、静菜がオシッコをできる場所は――見るも無残に破壊し尽くされていた。
「ああ、静菜? ごめんね、トイレ使えないのよ。なんだか下水のほうで故障しちゃったみたいなの。……お隣にお願いしておいたから、もし行きたかったら使わせてもらいなさい。嫌だったらコンビニで借りてもいいしね」
母親がなんでもない風に台所から声を飛ばしてくる。
けれど、それはまるで意味がない。静菜にとって、『ここ』……この家のトイレを除いた世界じゅうの全てのトイレは、オシッコを済ませることはできず、尿意を我慢するための擬似的な『おトイレ』でしかない。
(…ぉ、…お…しっこ……)
ぞくん。
途切れていた意識が、強烈に下腹部に殺到した尿意を察知する。
猛烈な排泄衝動が立て続けに巨大な大波になって溢れ出した。襲い掛かる衝撃に静菜はぎゅっと両手を下腹部に押しつけた。
「はぁ…ううぅう…っ!!?」
びくびくと内腿が引きつり、股間が疼き、下腹がじくじくと暴れる。どうにかなだめすかし、抑えこんでいた尿意が一斉に牙を剥いていた。強烈な衝撃が稲妻のように腰骨に響き、静菜はたまらずトイレの床にしゃがみ込んでしまう。
(や、やだっ、……ウソ、なんでっ、なんでっ!?)
ここに来れば、ここまで我慢すれば、絶対にオシッコができるはずなのに。そうでなければおかしいのに。そう思ってずっとずっと我慢してきたのに。だって、静菜は世界でたった1ヶ所だけ、ここでしかオシッコができないのに。だから、そのために何度も何度も外の『おトイレ』に入って、我慢を続けてきたのに。
それなのに――
オシッコが、できない。
本来ならあと数秒で済まされていたはずの尿意が、解放を許されずに押し留められた静菜のオシッコが、猛烈な勢いで膀胱の中に渦を巻き、ぎゅるぎゅると暴れ始める。
「ウソ……ぉっ」
ぼやけていた頭が、トイレの故障という事実を理解するに至り、静菜の顔から血の気が引いてゆく。
このトイレが、使えないということは。
静菜は、もう二度とオシッコができないということを意味していた――。
永久我慢の狂想曲――
浅川静菜のケース。
永久我慢の狂想曲 CASE:浅川静菜3
