公爵令嬢のお話・3

 
(な――なに、これ)
 呆然と、リミエルは声にならない声でつぶやく。
 そこは、おおよそリミエルの考えられ得るどんな汚い場所よりも、醜悪に汚れていた。
 四方を粗末な板で囲まれ、藁をふいただけの屋根の下は、恐ろしいほどの悪臭に満ちていた。地面はむき出して、ただの土。その上に半分腐りかけた板が2枚、渡されている。
 板の間には穴が掘られ、そこには汚らしい泥が泡と共に詰まっていた。顔を背けたくなるほどの猛烈な悪臭の原因はどうやらこれらしく、じゅくじゅくと泡を吹いている泥の周辺には小さな虫まで沸いている。
 後始末のための紙などももちろん用意されていようはずもなく、壁の一部には汚れた手をそのまま擦り付けたと思しき黒い染みがあった。
(そ、そんなっ、……こ、ここ、お手洗い……じゃ、ないんですか…っ!?)
 ほとんど反射的に、リミエルは両手で顔を覆う。それは、あまりに穢れたものを見たくないという少女の防衛本能だった。
 リミエルも公爵令嬢なりに、このトイレがとてもではないが上等な場所ではないことは覚悟はしていたのだ。しかし、その想像を遥かに超越して、この粗末な小屋の環境は酷いものだった。
 地面を掘り返しただけの穴の周りには飛沫や汚辱が飛び散り、あの木こりが日常的にここを使用していることを教えている。恐らくはあの腐った板に足を乗せてまたがり、用を足すようにできているのだろう。だが乗っただけで靴が踏み抜いてしまいそうに真っ黒に汚れた板は、触れるどころか見ているだけで少女の身体を穢してしまいそうだった。
 しかも、一体どんな使い方をしているのか――隙間だらけの壁のあちこちにまで跳ね返った雫と泥の痕が飛び散っているのである。立小便という男のトイレの使い方を知らないリミエルには、信じられない光景である。そもそも、深窓の令嬢たる幼い少女は、男女が共用で使用する公衆トイレというものの存在を知らなかった。
「う、うそ、そんな……っ」
(こ、こんなの、こんなトコロで、おしっこなんか……)
 勇気を奮って再度、顔を覆った指の隙間から細く目を開ける。だが――何度見ても、地面にじゅくじゅくと残った泡の跡や、何なのか想像したくもないどろどろと澱んだ汚泥を溜めた悪臭を漂わせる穴は、リミエルがとても使えるとは思えない場所だった。
「ぁ……ぁ……~~…ッ!!」
 しかし、男が示したのは明らかにここだ。ここの中でならおしっこができると、そう信じてリミエルはむずがる下腹部をなだめ、羞恥に耐えてやってきたのだ。いまさら違うでは通らない。
 じくん、と尿意が増す。聞き分けのない下半身ははしたなく反応をはじめていた。下腹部でたぎる熱い奔流に、前かがみになって切なく身をよじらせながら、リミエルは声にならない叫びを上げる。
(っ、も、漏れ…ちゃうぅッ……!!)
 スカートを掴む指は手袋の中で白くなるほど硬く握り締められ、間断なく襲いかかってくる猛烈な尿意に内腿が擦りあわされる。ちょこんと突き出したお尻を左右に振りたてながら、リミエルは淑女の面目もかなぐり捨てて緊急我慢の姿勢をとった。
 美しい眉はよじれ、 噛み締められた震える唇の隙間から、ふっ、ふっ、と切ない吐息が漏れ出した。細い指先がドレスの上からしなやかに股間を握り締め、何度も何度も脚の付け根を往復する。
 下腹部で渦巻く下品な衝動を逃そうと、前屈みの姿勢になったまま、公爵令嬢は肩を上下させ荒い息を飲み込む。ほっそりとしたお腹の中、乙女のティーポットに閉じ込められて、解放を許されない羞恥の黄金水が暴れ回るたび、ちょこんと後ろに突き出された小さなお尻がくねくねと左右に揺すられる。
 もし、誰かに見られでもしたら、即座に命を絶ってしまうかもしれないほどの、深窓の令嬢にはあまりにも相応しくないはしたない姿であった。
(だめ、出ちゃう……もうほんとうに出ちゃいますっ……ッ!!)
 『おあずけ』を食わされて苛立つ下腹部は、少女の意思に反してその中身を絞り出さんと収縮を繰り返す。ここまでたどり着きさえすれば、秘密のティーポットになみなみと注がれたホットレモンティを残らず空っぽにできたはずなのだ。酷使され続けて限界を訴え、切なく疼く排泄孔の括約筋が、ぴく、ぴく、と痙攣をはじめた。いまにもドロワーズの内側に熱い雫が滲み出さんばかりに、擦り切れた女の子の部分の感覚が薄れてゆく。
「……っっ」
(あ、ああっ、で、でちゃう、出ちゃうっ、おしっこ、おしっこっもう出ちゃうのにぃ……っ!!)
 排泄孔は、いまかいまかと放水のゴーサインを待ち望んでいる。
 どれだけ耐え続けても、自分の身体の中に湧き出す恥かしい泉を止めることはできないのだ。
(で、でもこ、こんなトコロで……こんなっ、汚いところで、おシッコ……なんて……)
 庶民に比べればあまりにも潔癖な令嬢には、ここがトイレだということがどうしても許容できなかった。この汚れきった粗末な屋根の下でおしっこを済ませている自分の姿が、どうしても想像できない。
(こ、これなら、お外のほうが、よっぽど……っ)
 それは禁忌の想像だと、さっきダメだと己に禁じたことなのだと思いながらも、リミエルはその考えを止めることができなかった。
 どれだけ妥協しようと、とてもではないが、ここは公爵令嬢が安心してトイレを済ませられる場所ではない。むしろトイレと呼ぶことすらも憚られるような場所である。
 ここで用を足すくらいなら、森の茂みのほうが何倍もマシに思えてしまう。
(――こ、こんな場所で――いったいどうしていらっしゃるの?……あの、方だって……お、お手洗いには、いかないと、いけないはずですのに……)
 そもそも、あの木こりはこんなところで本当にトイレを済ませているのだろうか? そんな疑問がむくりと頭をもたげた。
 今にも溢れそうに中身を増し続ける下腹部のティーポットをドレスの上からさすり、腰をよじらせながら、リミエルは頭の隅を掠めた疑問をさらに反芻する。
(……ひょ、ひょっとして……ううん……でも、そんな…っ!!)
 聡明とは言え、世間の雑事には疎い公爵令嬢にとって、こんな汚物に塗れた場所を排泄のために使用することなど『あり得ない』のである。
 溜め込んだ汚物が畑の肥料になり、作物を実らせるので、それなりの金額で引き取られるのだということも、こんな汚れたトイレを、いかにも高貴そうな少女に使わせていいもかとためらってしまった、木こりのささやかな気づかいも、公爵令嬢には知る由もない。
(こ、ここ、本当に、おトイレなの……?)
 目の前の事態から目をそらそうとするあまり、リミエルはついにその事実すら疑ってしまった。
 一度膨らんだ想像は、新雪を転がり落ちるを雪玉のように、みるみる大きく、押しとどめられないものになってゆく。ここはトイレではない――となれば、そんな場所に自分を連れ込んだ男の意図は何か。本来ならばありえない想像にリミエルの顔色はみるみる青ざめていく。
 ――そう。
 ここがトイレではなくて、全然別の場所であるなら、たとえばそう、悪漢が少女をかどわかすために作った場所であるのだとしたら――あの木こりは、リミエルが用を済ませようと、下着を下ろし無防備になったのを見計らって、邪な欲望を満たすためにここになだれ込んでくるのではないだろうか?
 あまりにも恐ろしい想像にリミエルは戦慄した。だが脳裏をよぎった不吉な想像は、容易に振り払えるものではなかった。純粋な少女にとって、いちど気にしだした他人の悪意は、免疫がない故に瞬く間にその心を侵してゆく。
 他人のトイレを覗くなどという下品な行いは天地がひっくり返ってもありえないことだが、あの男はあんなにも執拗にリミエルの排泄に興味を示したのである、考えられないことではなかった。
 下卑た視線が何重にも身体を這い回る感触を思い出し、少女は身を竦ませる。不安に駆られ恐慌に陥ったリミエルには、あの木こりが具合の悪そうな少女の身を案じていたのだとは、とてもではないが想像の埒外だ。
「っ……」
 いまにも男がドアを押し開けようとしているのではないかと想像してしまい、リミエルは上げかけた悲鳴を必死で飲み込む。もしかしたらもう、脚を忍ばせてこのトイレのすぐ側で待ち構えているのではないだろうか。
 そうなれば、もはやわずかな隙も見せるわけにはいかなかった。
(だ、駄目……っ)
 ぶるる、と背筋を震わせて、リミエルはむずがる下腹部を何度もさすり、暴れ出そうとする尿意をなだめる。
 今この瞬間にも、壁一枚を隔てた向こうにはあの男がいて、血走った視線をらんらんと輝かせ、幼い令嬢が恥も捨て去ってスカートをたくし上げ、バニエをめくり上げ、ドロワーズを足首まで引き摺り下ろして、深々と大股を開いてしゃがみ込む姿を待ち望んでいるのに違いない。
 リミエルが、耐え切れない尿意に衝き動かされ、まだ淡い産毛もないような幼い股間や、ふっくらとした下腹部を、露に覗かせる光景を。
 激しい水音と共に下品な欲求を訴える排泄孔から、勢い良く黄金色の飛沫を迸らせる瞬間を。
 この汚らしい部屋で、乙女の秘密のティーポットを残らず空っぽにする、その様子を。
 あの毛むくじゃらの醜い大男は、その全てを余すところなく目に焼き付け、その上不埒な欲望を満たそうと、じっと心待ちにして、すぐ側で息を潜めているのだ。
(そ、そんな――っっ)
 少し冷静に考えれば反論も見つかるであろう想像だが、一度陥った思考の袋小路は幼い少女を混乱させるに十分だった。
 完全に疑心暗鬼に陥った公爵令嬢はすっかり萎縮し、思うように息もできぬ事態に陥ってしまう。
 わずかな身じろぎに反応し、隙間だらけの薄い板が立てかけてあるだけの壁のすぐ向こうに、あの下品な顔がちらと覗く、そんな幻すらはっきりと観てしまう。
 いまにもドアががたがたと鳴り響き、あの野太い腕がつっかえ棒をへし折って密室を押し開き、のそりと頭をもたげた山のような身体が、自分を後ろから押し潰してしまいそうにすら思えた。
(そ、そんなの嫌よぉっ………!!)
 折角の排泄のための場所である小部屋にたどり着きながら、リミエルは声を引きつらせ、指一本動かすことができなくなってしまっていた。
 そんな公爵令嬢の心中の事情など知らぬとばかり、ぞわり、と、限界の近いことを知らせる腰の震えがリミエルの背筋を撫でてゆく。もはや危険水位を突破した尿意は、追い詰められた深窓の令嬢に、今すぐここで脚を広げてしゃがみ込むことを要求していた。
 たとえどれだけ汚れていようと、ここで用を足せと執拗に誘惑していた。
「くうぅ、っぅ、はぅっ……んぅ、ふっ……ぁあうっ……」
 が――リミエルはそんな目の前の甘美な誘惑を振り切って、ただひたすらに硬直するばかりだった。
 そろえた手を重ね、ドレスの股間をきつく握り締める。今にも開きそうになる小さな孔を指で直接、押さえ込む。まさに排泄をすべき場所のその只中で、リミエルは悲痛なまでの姿で、直立不動のまま立て続けに襲い来る尿意の大津波を必死に耐えていた。
 そんな、時だった。
『ああ、今度はなんだべ、お前ぇ』
「失敬、こちらにお嬢様は窺ってはいませんか?」
 外でかすかに響く、聞きなれた青年の声。大きな木こりの声に掻き消されてしまいそうなその声を、リミエルは確かにきいた。
(あ、っ)
 ほとんど反射的に、リミエルは振り向き、ほとんどドアを突き飛ばすように開いて駆け出していた。
「ああ、そっだら娘っ子なら、ぢょうど今――」
「ヨハンっ!!」
 男の言葉を遮り、リミエルは御者の名を呼び、まっすぐにそのもとへと走り寄った。息を喘がせ、震える唇を押さえ込んで、ぎゅうっと御者の腕を握り締める。
「お嬢様?」
 ただ事ならぬリミエルの様子に、何事にも動じない御者もわずかにうろたえる様子を見せる。さりげなく木こりに警戒をしながら、青年は静かにリミエルと木こりの両者を窺った。
「ん、なんだべ、もうションベン済んだべか?」
 そんな不穏な空気など知らぬかのように、無遠慮な木こりはまったく気にせずにそう聞く。リミエルは小さく息を詰まらせながら、ほんのわずか、顎を震わせた。
「がっはは、そっだら恥ずかしがることじゃねえべさ。ションベンも我慢してっとぶっ倒れちまうべ? ほれ、お前ぇさんを心配して、そごの奴が迎えにぎでぐれたんだべ。なあ?」
「っ……」
 木こりの声にさらに俯き、震えるリミエルを見、御者は大体の事情を察していた。縮こまるリミエルの身体にそっと手を添える。
 本来、彼の身分でこのように公爵令嬢と触れ合うことは許されないが、今はそうすべきだと判断していた。
「お騒がせしました。早速で申し訳ありませんが、先を急ぎますので失礼いたします」
「おう、ぞっが。気ぃづげでな」
「ご恩に感謝いたします。しかし申し訳ありませんが、こちらで起きたことは他言無用に願います。よろしいですか?」
「あん? なんだべ?」
 意味が解らないというように、木こりは眉を動かした。
 この木こりが迂闊にも、ジルベレット公爵家の令嬢が、はしたなくも小用を催し、我慢しきれずトイレを借りにに来たなどと言いふらすとも限らない。醜聞というものはどこから広まるとも限らないのだ。まもなく社交界デビューを控えた令嬢が、なんとトイレの躾けもできていないなどと囁かれるのは、何としても避けねばならなかった。
 木こりの風体や物腰から、彼が滅多に人里に降りず、コトの重要性も理解していないだろう事を察し、恐らくそうなる可能性は低いだろうと判断していたが、御者はもう一度念を押す。
「後で使いの者を向かわせます。どうかくれぐれも、ご内密に。よろしいですか?」
「……お、おう」
 自分の半分もないような御者に、有無をいさせぬ迫力で迫られ、木こりは思わず頷く。それを見、御者はもう一度礼を述べるとリミエルを連れて、広場をでてゆく。
 しばらく歩き、元の小路に戻った御者は、リミエルの背中をそっと叩いた。
「……もう、大丈夫です。立てますか」
「あ……っ」
 涙ぐんでいたリミエルは慌てて。自分が御者に抱かれていたことを知り、顔を赤らめて飛びのいた。
「大変申し訳ありません。お戻りが遅いので、何かあってはと思い後を追いました。出過ぎた真似をお許し下さい。……いかなる罰もお受けいたします」
「え、あ、そ、そんな……」
 深々と非礼を詫びるように頭を下げる御者に、リミエルのほうが困惑してしまう。確かに淑女がお花摘みに入った後を追いかけてきたなど、普通に考えればとんでもないことだが、彼が助けに来てくれなかったらいったい自分はどうなっていたことか。
 そう思うと、叱責の言葉など沸いて来ようはずもない。それどころかリミエルのほうこそどんな言葉を並べても感謝を告げなければならないほどだった。
「…………」
 言葉に詰まるリミエルの様子から、まだ彼女がショックから抜け出していないことを察すると、御者の青年は再度深く頭を下げた。
 そうしてようやく、リミエルもわずかに余裕を取り戻す。
「……え、ええと、その……た、助かりました。ありがとう」
 今はただ、それだけの言葉を押し出すので、精一杯だ。心の中で深く御者に感謝しながら、リミエルは小さく息を吐く。
「失礼ですが、もうお済みですか」
 けれど、御者はなお静かに、落ち着いた声音でリミエルに聞いた。
 『お花摘み』のために馬車を降りたリミエルだが、彼女の手はいまだ空のままなのである。名目上、外でトイレを済ませることができない彼女への配慮としてそんな方便を繕ったのだから、リミエルが手ぶらでいるのはいかにも都合が悪いことなのだった。
「え、あ……」
 リミエルはようやくそれを悟り、おろおろと周りを見回す。御者の青年はすぐに状況を把握すると、感情の薄い表情でわずかに眉を寄せた。
「では、これを」
 どこから用意したのか、御者はすでに美しい黄と白の花をひと束、手に抱えていた。野に咲く花とは思えぬほど美しい、小さく控えめながらも清楚に寄り添う花。まさしく公爵令嬢が目に留めるのに相応しい佇まいのものであった。
 あっけに取られるリミエルに、御者の青年は再度、念を押す。
「出立いたしますが、宜しいですか」
「え、……は、はいっ」
 弾かれたように、リミエルは声を上げた。
 聡い御者の青年は、無論ながら既にリミエルの様子のおかしさには気付いている。中腰になって身をかがめ、ドレスの前をそわそわと押さえる様子は、先に別れた時よりもさらに落ち着きなく、足元は忙しなげにその場で踏み鳴らされている。
 どう見ても彼女が無事用を済ませられたのではないことは明らかだったが、繰り返し念を押しても、リミエルは頑なに認めようとする様子がなかった。
「は、早く参りましょう……。ね?」
 それどころか、公爵令嬢はあろうことか、御者の青年の先に立って歩こうとするそぶりすら見せる。
 まるで何かに追われているように何度も背後を振り返り、幼くあどけない顔もいまだ青ざめさせたままだ。彼女を森の中に一人にしたのは軽率だったかもしれないと、御者は己の判断を後悔した。
 隣国との政情も安定しており、治世も穏やか。ましてこの森は国王統治の直轄である。野党の類や危険な獣などいないことは確認済みなのだが、それでも公爵令嬢に危難を加える何者かがいてもおかしくはなかった。
「では、急ぎましょう」
 リミエルが負担にならぬよう、御者の青年はわずかばかり足を速め、道を歩き出す。彼はあくまで公爵家に仕える従者の一人なのだ。信頼篤く聡明な彼ではあったが、いくら仕える主人に配慮し、意見を述べることができようとも、従僕には主の決断を覆すことは許されない。
 リミエルは、彼のお済みですかという問いに対し、そうだと答えたのだ。
 この上でリミエルが強固に先を急ぐよう指示するならば、彼はただ粛々と、それに従い、それ以上の抗弁は許されないのだった。
 続く。
 (初出:書き下ろし)

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