春休みの話

 
 暦の上では春とは言っても、まだ幾分寒さの残る風が吹き付け、商店街を行く人々の間を駆け抜けて行く。あいにくと曇り空の下、雨の気配を感じた店の人が傘立てや雨除けを引き出し、夕方からの下り坂の天気に備えていた。
 そんな雑踏の中を進む、ポニーテールの少女の姿があった。
 知らない街を歩くことへの緊張からか、幾分硬い表情の少女は、学校指定の制服とコートを着込み、手提げ鞄からは大きな封筒を覗かせている。
 葦原ユミは、無事推薦で合格を決め、この春から通うことになる私立学校の校舎に、案内を貰うためにやってきていた。
 新しい学校はこれまでユミが通っていた学校と同じ市内にあるが、距離としては倍近く、家までは歩いて30分ほどもかかる。道を覚えるためにも時間をとって歩いてきたのだが、不案内な道で途中、何度か迷い、案内を受け取れたのは受付時間ギリギリにになってからだった。
(もう少し、あとちょっと……)
 ユミが向かっているのは通りの向こう、普段は滅多に使わない、市内北西部の私鉄の駅の南口だ。電車通学の生徒はここを利用するらしいが、ユミの通学路とはまるで正反対である。
 ユミが、またも通学路から大きく外れたこの商店街を歩いているのは、また道に迷ったから――ではない。もっともっと、切迫した理由からのことだった。
「ん、ぅ……」
 小さな呻きと共に、少女の腰が左右に揺すられる。
 暖かくなり始めたこの季節には少々重たいコートの前をぴったりと合わせ、その上からそっとお腹に手を添えて、ユミは時間と共に険しくなる下半身の緊張を少しでも和らげようとする。
 硬くこわばった表情は、頬にわずかな赤みが差していて、荒い息が小さな唇から漏れている。まるで全力疾走でもしてきた後のようだが、むしろ少女の足取りは重くおぼつかない。視点は前方の一点に固定され、周囲を気にしている余裕はないようだった。
 ユミの視線の先には、通りの反対にある駅舎南口の階段がある。
(あとちょっとだけ……あそこまで、我慢すれば……っ)
 あとほんの数十メートルで、この3時間にもおよぶ戦いにも終止符が打てる。それを心の支えに、ユミは内腿の筋肉をぎゅっと緊張させる。
 目的地を前にざわつき始める水面と、今すぐにでも放水の誘惑に屈しそうになる排水口を感じ、下腹部を押さえる手のひらにきつく力が篭る。
 とにかく、校舎でトイレを借りなかったのは失敗だった。かなりおトイレに行きたくなっていたのに、家まで我慢できるだろうと思ってしまったのが運のつき。学校を出て10分もしないうちに、事態はユミの想像を超えて急速に進行していった。
 その頃にはもう引き返すまで辛抱する気力もなくなり、ユミはまっすぐに、このあたりでただひとつ心当たりのあるトイレである、この駅へと向かったのだった。
(もうすぐ、おトイレできるから……あと、ほんのちょっとだけ……っ)
 駅舎の南北通路に繋がる階段。あそこまでたどり着け、ば硬く張り詰めた膀胱の中身を、残らず出すことができるのだ。そう思うだけでじんじんと脚の付け根に響く甘い痺れがさらに強まり、ユミを苦しめる。
 コートの上から制服のスカートの前を押さえ、もじもじと腰を揺すりながら、ユミはぎゅっと唇を噛んだ。ますます頼りなくなった足取りでもたもたと進む小柄な少女を、買い物帰りの主婦や帰宅途中の生徒達が次々と追い抜いてゆく。
(は、はやく、おトイレしたい……っ)
 もう何時間も前から、心の中を占めている切なる願いを繰り返し、ユミは小刻みに震える足で横断歩道を渡り、駅舎の階段に足をかけた。
 エスカレーターならば緊迫する下半身に余計な負担をかけずに済むのだろうが、生憎と築30年を数える古い駅舎にはそんなものは備えられていない。手摺を使いながら、ユミは一歩一歩、慎重に階段を上ってゆく。
 ようやく昇りきったユミは、記憶に頼りながら駅舎の通路を見回した。ほとんど使わない駅だが、ここに、トイレの案内板があったのは辛うじて覚えている。  
 落ち着きなく周囲を巡る少女の視線は、やがてすぐにトイレの文字を刻んだ案内板を捕まえる。
 だが――
「ええっ……!?」
 おぼろげな記憶の通り、確かにトイレへの案内板は壁にあった。しかし、
『トイレ→』
 無常にもその矢印は、改札口の向こうへと続いていたのだった。
 予想外の事態にユミはしばし呆然となる。
 築30年の駅舎には、二つも三つもトイレを設けている余裕はなかったのだった。改札口の横には、小さな張り紙があり、そこには『お手洗いをご利用の方は声をおかけください』と書かれている。
 だが――
(そ、そんな……ぁ)
 衝撃だった。マラソンを走り終え、ふらふらになってたどり着いたはずのゴールが、まだ10キロも先にあると宣言されたようなものだ。
 きゅううん、と下腹部で尿意が高まり始める。ここまで我慢すればという心の支えが大きく揺らいでいた。
(え、駅員さんに、おトイレ行きたいですって言わなきゃいけないの……? そんな、は、恥かしいよぉ……)
 ただでさえ繊細な思春期の少女だ。まして、ユミの羞恥心は、こと排泄に関しては非常に敏感なものだった。本当ならトイレに入るところすら誰にも見られたくないくらいである。
 だが、駅員にトイレを借りたいことを説明して改札口を抜けるということは、いまユミが絶賛トイレ我慢中であり、ここのトイレを使わなければ、とても間に合わないということを口にするに等しいのだ。
(な、なんでこんな、イジワルするの……っ!?)
 無機質に並ぶ自動改札のゲートは、ユミをトイレに行かせるまいと硬く閉ざされた城門のよう。傍に立つ制服姿の駅員は、さながら門番のようだった。
 本当なら公衆トイレに入るのすら嫌なのに、人前で尿意を口にするなんてとんでもない。ユミにはとてもそんな勇気はなかった。思わず俯いてしまったユミの頬が、一層赤くなる。
 だが、そんな事情などお構いなしに、じんじんと疼く下腹部はますますその限界を訴えている。鉄壁の守りを見せる改札口に対し、ユミのおヘソの裏側のダムを塞き止める水門は見るからに頼りなく、わずかな刺激で脆くもこじ開けられてしまいそうだ。
「……んぅっ……」
(だ、だめ……間に合わなくなっちゃう……!!)
 思わず小さく声を上げてしまってから、ユミはもう余裕がないことを改めて悟る。3時間の我慢を経て、排泄孔を締め付ける括約筋はもう限界を訴えていた。これ以上焦らされ続けたら、遠からず貯水量を越えた奔流が激しくスカートの中からあふれ出してしまうだろう。
「………っ」
 迷いと共にちらりと駅員を見、胸の奥で激しくなる鼓動を感じながら、少女は覚悟を決めて、改札口横の切符売り場へと向かった。人がまばらなのをいいことにもたもたと制服のポケットから財布を取り出し、百円玉を二枚、券売機に放り込む。
 一番左端の安い区間である160円のボタンを押すと、切符とおつりの40円がじゃらりと出てきた。ユミはやるせない気分と共に切符を掴み、おつりを乱暴にポケットに放り込む。
(お母さん、こんなのにおこつかい使っちゃてごめんなさい……)
 缶ジュースよりも高いこの金額が、言わばずトイレへ入るための入場券だった。思春期の少女が、繊細な羞恥心を守りながらあの堅牢な城門を潜り抜けるために、必死に考えて出した答えなのである。
 ただオシッコがしたいだけなのに、こんなお金を払わなければならない理不尽に唇を噛み、ユミは踵を返して改札口に向かった。
 自動改札に切符を差し込む一瞬だけ、言い知れぬ不安を覚えて駅員のほうを窺うが、無論ながら彼等はユミの『目的』に気付いている様子はない。
 そのことにわずかなりとも安堵を覚えつつも、ぱしゅん、と開くゲートをくぐって、ユミはできるかぎりの早足で駅構内へと進んでいった。
 おなかの中ではくつくつと尿意が沸き立ち、ユミの一番敏感で脆い部分が、身体の内側から執拗にノックされ続けている。腰をさりげなくくねらせるだけではもはや分散しきれない、大きな波が脚の付け根に向けて打ち寄せているようだ。
(は、はやく――)
 構内のトイレは改札口を抜け、右に曲がった突き当たりにあるらしい。道案内の黄色い凹凸タイルを辿るように続く矢印を追いかけ、ユミは一目散にそちらへと向かう。
 そして――
「う、うそっ……!」
 目の前の光景に、ユミはとうとう声を上げてしまっていた。
 わざわざ入場券を買ってまで厳重な警備の改札口をくぐり抜けたその先、待望のトイレを目前にして、ユミの足はぴたりと止まってしまう。あとほんの数m先に、自分を苦痛から解放してくれる場所をみつけながら、ユミの脚は止まったまま、その場から進むことも戻ることもできなくなっていた。
 一刻の猶予もない尿意にせかされ、すぐに駆け込まねばならないそのトイレの入り口には、『清掃中』の立て札があった。
(っ……や、やだっ、なんで、こんなぁ……)
 ユミは今日の不運を呪って泣き出したい気分だった。立て札には添え書きのように『ご利用の方は一声おかけください』とあるが、そんなものはユミにとって慰めにもならないものだ。
 少女にそんなことができるくらいなら、改札口を抜けるのにわざわざ切符を買ったりしない。
(ど、どうしよう……っ)
 確かに清掃中とは言え、トイレそのものがまるっきり消えてなくなったわけではない。入り口が岩で塞がれていたり、コンクリートで塗り固められているわけでもない。ユミの行く手を阻む立て札も、物理的にはただちょこんっと隅に置いてあるそれだけのもので、左右を遮るロープすらない。その気になれば中に入ることは簡単なことだ。
 しかしそのためには、『ご利用の方』として『一声おかけ』しなければならない。清掃員や、駅構内にいる人々に、ユミがなりふり構わずトイレに駆けこまねばならないほど、我慢が切羽詰っていることを教えてしまうのも同じことだった。
(そ、そんなの……やだっ、できないよぅ……っ。……こんな、お掃除中でも、……平気でおトイレに行く子だって思われちゃう……)
 それは、学校でトイレに行くのを悟られることすら恥かしがる、この年代の少女にとってあまりにも重い行為だ。思春期特有の過敏な羞恥心は、排泄という行為を激しく拒絶していた。まるで中世の貴族のように、自分がそんな下品な行為とは無縁の存在だと示したいかのようにさえ振舞うことがある。ユミもまた、小さな頃の失敗が理由で、トイレを人に知られるのを極端に嫌がっていた。
 また、忙しそうに清掃作業に走り回る清掃員たちが出入りをしているトイレの中は、とてもではないけれど気軽に入り込める様子はないことも、ユミの躊躇に拍車をかける。
「……あら?」
 またも立ちすくんでしまうユミのそばで、改札口のほうから歩いてきたスーツ姿の女の人がいったん脚を止め、小さな吐息と共に通り過ぎてゆく。どうやらこの女の人もトイレに用があったらしいが、入り口の『清掃中』の立て札を見て考え直したようだった。
 ホームに下りていくその背中を思わず追ってしまいながら、ユミは赤くなって俯いてしまう。
(どっ、どうしようっ……)
 そう、あの女の人が普通なのだ。ここのトイレが使えないなら、他のトイレまで我慢すればいい。それだけのことだ。けれどユミの脚はまるで靴底が床に接着されたみたいに、その場を離れない。
 ここのトイレは使えないと、頭では判断しているのに、ユミは立ち去ることができずにいた。下半身は惨めたらしく、むずがるようにここのトイレを使いたいと訴え続けている。いっそここが完全に使用不能であれば踏ん切りもつくのだろうが、なまじ侵入が容易そうに見えるだけ、ユミはその誘惑をたち切れなかった。
 いつしか、立ち尽くすユミの手のひらは、コートの上から再び脚の上に添えられている。細く小さな手のひらはさっきお腹を押さえていたよりもさらに下のほう、直接出口を塞ぐような位置に移動していた。
「ぅ、くっ……」
 ソックスに包まれた脚がぎゅうっとクロスされ、かかとが緊張に触れて持ち上がる。もはや、駅員に知られずにトイレにいこうとした努力も、まるっきり地に返すような状態であった。
(オシッコしたいっ……も、漏れちゃうっ……)
 待望のトイレを前に、生理的欲求はますます激しいものとなる。朝から我慢をし続けている恥ずかしい液体を納めた入れ物、おなかの中からせり出して、脚の付け根の出口に向かって下降してくるかのようだ。
 ちくちくと針のような刺激が下腹部に走り、沸騰する尿意が少女の理性を激しく焦がす。体重を預ける足を入れ替え、身体を左右に揺するたび、たぷんたぷんと身体じゅうが揺れるようだ。
 今から改札口までもどり、そこから再度、別のトイレを探すか、あるいは家を目指すなんて、とても出来そうになかった。そもそも、本当にそこまで我慢できる自信があるなら、こんなところのトイレを使おうとは思わないのだ。
(お、お掃除終わるまでここで待てば……おトイレ、いけるから……それまで、が、我慢すれば……っ)
 現実的に考えれば、それこそあまりに非合理な行いだ。砂漠やら人跡未踏の地でもなければ明らかに他のトイレを見つけるまで我慢したほうがいいはずだが、さらなる我慢の延長戦を続けながら、本当に見つかるかも分からないトイレを探すよりも、待ってさえいればいつか空くであろうトイレの傍にいるほうが、今のユミには楽に思えてしまうのだ。
(だ、だいじょうぶ……じっとしてれば、我慢できるから……っ)
 その思いとは裏腹に、ユミの身体は激しく左右にくねり、その場で足踏みをするように両のかかとがステップを刻み、爪先はぐりぐりと床のタイルに押し付けられる。
 小さな子でもしないような我慢の仕草は、見るものにはっきりと危機感を抱かせるほどのもの。ユミがトイレに行きたくて仕方がないのは、誰が見ても一目瞭然だった。事実、行き交う人々はトイレの前で身体をよじらせて腰を揺する少女を、奇異の視線で見ている。
 けれど、ユミは周囲の怪訝な表情に気付く余裕もないまま、トイレの入り口をじいっと見続けていた。
(あぅっ……も、漏れちゃ……だめ、だめぇ……っ)
 暴れ回る体内の尿意にストップをかけながら、掃除が終わって、綺麗になったばかりのトイレで一番にオシッコを済ませる――そんな妄想のなかで、ユミは執拗な尿意を紛らわせようとした。現実の自分にはできないことを、空想の中でさせることによって、少しでも現実の苦痛を和らげようとする。
 ずらっと並んだトイレの個室の中から、どこでも好きな場所を選んで、個室にしっかりと鍵をかけ、スカートをたくし上げ下着を下ろして、清潔な便器を使って思いっきりオシッコをする権利。一番乗りのユミにはそれが与えられるのだ。
 オシッコのための場所で、オシッコをする――至極当たり前の行為が、ユミにはとてつもなく魅力的だった。ずっと遠ざけられていた排泄を許されるという快感が少女の身体を打ち震わせ、頭の奥に消えない熱を点す。
(トイレ、出ちゃう、漏れるぅ……っ)
 脚の付け根の敏感な場所から、もう我慢する必要のない恥かしい液体を恐ろしいほどの勢いで弾け散らせる。股間から噴き出す蛇のようにくねる薄黄色の水流が、白い便器の底を叩き、音消しに流れる水の中に深々と注がれて行く。我慢に我慢を重ねた苦痛が全身の熱とともに迸り出る。その解放感はどれほどのものだろうか。
「あ、あっあ、あっ」
 禁忌の想像に先立ってじわりと滲みかけた先走りが、交差させた脚の付け根に広がる。小さな水滴をこぼし、股布に染みを作った液体は、そのまま辛抱しきれない股間の先端からじょわ、じゅぅ、とあふれ出してゆく。
(ふぁ、あっ、……っ、き、気持ち、ぃい……)
 少女はじわじわと色を変えてゆく股間を両手で押さえたまま、小さな唇を小さく開閉させる。
 スカートの半分ほどを色濃く染めながら、滴り落ちる雫が太腿を伝って、ソックスに流れて行く。ひと筋、ふた筋と溢れこぼれる水流は、たちまち数を増し、少女の脚を伝いぱしゃぱしゃと音を立ててゆく。タイルには少女の体内で温められた液体の水たまりが広がり、わずかに湯気を立ち昇らせてゆく。
「ぁ、あっあ、あっ……」
 ふわふわと定まらない足元は、まるで雲の上を歩いているようだ。熱に浮かされた頭はぼうっと霞み、お腹は本当にトイレを済ませたときのように楽になってゆく。
 それが想像の中のことでなく、実際にいま自分の身体に起きていることだと理解できないまま、ユミは駅構内の隅でオモラシを続けていた。
 (初出:書き下ろし)
 

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